第3章 水のやうに封じ
03
終わり。
患者はそう言うと、診察室を出て行ってしまった。
時寧さんも私も、もともとはとある精神科病院に勤めていた。私が医師で、時寧さんが相談員をしていた。
当時、時寧さんが担当していた入院患者が納水封儀(自称)だった。主治医は別の先生だったけれど、患者は病院一の有名人だった。
いわゆる、扱いづらい患者だった。主治医はそれこそ厄介なものを押し付け合うみたいに次々に交代し、最後にとうとう私が残った。
たらい回しにされていることにとっくに気づいていた患者は、私の初回の診察で、私を見るなり「終わり」と言って出て行ったのだ。
確かにその通り。私を見限れば、この病院では誰も担当者がいなくなる。
なぜ、入院しているのか。
当時十代だった納水封儀(自称)は、見たくもないものが見えており、日常生活がままならなかった。
学校にも行きたがらず、両親は仕事で自宅を空けがちであり、眼を離すと眼を潰そうとする一人娘を、四六時中見張っているお役目が必要だった。
患者は両手を拘束されたうえで、病院に入院するしかなかった。
患者は薬の一切を拒否した。
それはそうだ。薬を飲めば見えなくなるのか。その要望に、誰も応えられなかった。
私のところに主治医が回って来るのが最後だった理由は、私が一番若輩者だったからでしかなく、私以外の医師が全員匙を投げた時点で、誰にもどうにもできないと結論付けられた後だった。
正直私は自信がなかった。経験もなかったし、なにより、他の歴戦のベテラン先生方にどうにもできない患者が、自分如きにどうにかできるわけがない。
患者が「終わり」と言って出て行ってくれたとき、ちょっとホッとしたのも事実。
追いかけなかったのは、無理強い云々もなかったわけではないが、それはむしろ建前でしかなく、患者側から見限ってくれれば大義名分で以って円満に主治医を降りることができる。誰からも責められることもなく、ああやっぱりで片付けられる。
本当に?
それでいいのだろうか。
患者が見えているものを共有しなくていいのか。
眼を潰さなくてもよいように、一緒に対策を考えるべきではないのか。
時寧さんは、そのときは私のパートナでもなんでもなかったが、ずっと患者に寄り添っていた。時寧さんだけが患者を見捨てなかった。
しかし、それには裏というか、もっともな理由があった。
患者は、時寧さんの妹が社長を務める一般企業に、専門職として雇われることが決まっていた。つまり、時寧さんは妹の会社の社員(内定)だから、特別待遇をしているだけであった。
そのことが病院の管理者側に露見する前に、時寧さんは先手を打って退職届を出し、なんやかや理由を付け(そんなことをしなくても病院スタッフ側からすれば厄介払いできて渡りに船だっただろうが、病院側が不利にならないように時寧さんが気と手を回したのだろう)患者を退院させ、妹の会社で面倒を看る方向に切り替えた。
卵が先か、鶏が先かは知らないが、時寧さんは相談員の仕事をすっぱりと辞めてしまった。すなわち、納水封儀(自称)を見つけたから相談員として病院にもぐり込んだのか、働いていた病院でたまたま役に立つ患者を見つけたのか。
時寧さんが病院を去ってからしばらく経った後、私が患者の存在をすっかり忘れた頃、私は時寧さんに指名で呼び出された。
いま事務所として使っている家屋に、時寧さんと納水封儀(自称)が待ち構えていた。
端的に言うと、うだつの上がらない病院勤めを辞めて、時寧さんの妹の会社の産業医にならないかと。ヘッドハンティングされるほどの経験も名声もないので、要は、なんだかよくわかってない若輩者のうちに抱き込んで、共犯者にしてしまおうということだ。
断る材料にするつもりで齧った納水封儀(自称)の、患者にまつわる関連事象は、予想を遥かに超えた内容であり、ここまで聞いてしまったことを後悔しようとすでに遅く、聞いたからには引き受けざるを得ない状況へと自分自身で穴を掘り進めてしまっていた。
納水封儀(自称)が私を気に入ったと言っていた気もするし、時寧さんが私を気に入ったと言っていた気もするし、まあどちらでも大差はない。
納水封儀(自称)の主治医になるが早いか、時寧さんの夫になるが早いか、こちらも卵と鶏の関係かもしれない。私は間もなく、一身上の都合で病院を去り、一般企業の産業医になった。
納水封儀(自称)の眼は、この世ならざるものが見えていた。
精神科医としてはそれをどうにかこうにか医学的に説明することに尽力すべきなのだが、患者は精神病に罹患してはいない。それだけは断言できる。とするのなら精神科医の私には専門の外であり、それこそ私の手には余るとして専門家に紹介状を書くのが筋なのだが、生憎と紹介状の宛名にするべきご高名な先生に伝手がない。
それにもしかしたら、患者は“患者”でないのかもしれない。患者と呼ぶのはやめにしよう。
私では。
納水封儀の眼を、その特異体質をどうすることもできない。
第3章 水のやうに封じ
1
ジャン=シャオレーが指定したのは、地上3階建ての商用ビル。
詳細は知らないが、3階部分でよからぬことが起こったために、店舗や事務所が次々に撤退し、現在はいずれのフロアも空いている。立地は決して悪くないのに、長いこと空きビルになっていたのは、その何かよからぬことがだいぶ尾を引いているのだろう。
入り口は開いていた。鍵をこじ開けたような跡があった。
室内は若干の異臭。何か固いものを踏んづけたが暗くてよく見えない。床で何度か足踏みしてみたが、靴底に刺さってはいなさそうだったので大丈夫だろう。
眩しい。
突然光が眼を射抜いた。
「先生なら上の上だよ」ジャン=シャオレーの手元のライトがこちらを照らしている。
「生きてるんだな?」
「殺す理由がないよ」
「だったら先に解放しろ。弟子」
「師匠なしでいける?」
納が無言で目線を寄越した。さっさと伯父を助けに行けということだろうが。
「ちょっと待て。まさか」言ったあとで納も気づいた。
黒は。
このフロアでは視認できない。
そもそも曰くつきなのは3階部分だ。そこに黒が凝集しているのだろう。
「自分の要求を通すのに他人を巻き込むな。先生は関係ないだろ」
「みっふー誘き出すのに使える駒って結構少ないんだよね。いいよ、先生帰して、みっふーの雇い主?にする?」
「そうゆうことを言ってるんじゃない。わたし以外を巻き込むなと言ってるんだ」
ジャン=シャオレーが床にライトを上に向けて置いた。天井に白い円ができる。
満月のような。
息が白いことに気づく。
「最終確認だけど」ジャン=シャオレーの黒尽くめの輪郭がおぼろげになる。「僕をみっふーの永久触媒にする気はない?」
「永久触媒ってのはなんだ」納が息を漏らした。「お前は触媒になりたいんじゃない。わたしという道具を使って死にたいだけだ。
「どうせ死ぬんなら人の役に立って死んだ方がよくない?」
「動機が不純なのがわかってないのか」
「平行線だね」ジャン=シャオレーが首を横に振る。「みっふーの主治医だけど、明日の面接に立ち会うことになってたみたいだよ。つまりさ、このまま帰すと、明日の面接は絶望的になるわけ」
「お前いま無傷で帰す気ないってのを自白したことになるが」
「さあ、どうだろうね」
3階フロアの黒がどの程度なのかは実際に目視しないとわからないが、さっきから脳天がやけに重苦しい。
時間が、あまりない気がする。
「わかった」納も同じ結論に至ったらしい。大きな白い息が生成された。「ただ弟子に見せるのが忍びないから、弟子だけ外で待っててもらうのが条件だ。ほら、
「大丈夫ですか」俺が心配しているのは、伯父と納の命のほう。
納の仕事のほうは、触媒があるからなんとかなるとして。
「童貞じゃない触媒は、実は初めてだ」甕を受け取る手が震えていた。
気のせいかもしれないが。
気のせいと思いたい自分がいただけかもしれないが。
「外から祈っていてくれるとありがたいな」
「さくっと祓って戻ってきてください。未成年を深夜の寒空の下、長時間放置はたぶん罪に問われます」
「お前の母親にか?」
返答したくなかったので、そのまま外に出た。
わかっている。
俺をわざと外に出したのは、俺に見られたくないからじゃない。
俺には、
弟子として。
他にやることがある。
この商用ビルの構造は、大通りに面している側に入り口があり、その対角線上に裏口がある。内側にも3階まで通じる階段があるが、外側にも非常用階段がある。そこから上がれば、運よく運べば、ジャン=シャオレーの意表を突けるかもしれない。
暗くて足場がよく見えないが、手すりにつかまればなんとか。
ならなそうだ。
手すりが。
取れた。
錆びている。
この分だとステップ部分も朽ちている可能性が高い。
しかし、俺が行かないと。
納には見えない。
この眼を返すまでは。
協力すると決めたのだ。
踏み抜いたらそのときはそのとき。
俺が落ちるだけ。
ゆっくり。
ゆっくり。
それでいてスムーズに。
なるべく一ヶ所にだけ体重をかけるのではなく。
適度に分散させて。
上がる。
上がる。
あと何段。
上がれば。
最初の踊り場。
ここが2階。
とすると、あと。
半分。
頼むから。
お願いだからいまだけは。
崩れないで、倒れないで。
壊れないで。
納を。
助けないと。
あと3段。
残り2段。
最後。
油断して踏み込み過ぎた。のは踏み込んだ瞬間にわかった。
遅かった。
やばい。
足場が。
ない。
落ちる。
手を。
伸ばしても掴むものが。
「あっくん!」
納の声がした。
何かに。
腕を掴まれて。
落下は免れたが。
「危なかったね」伯父が間一髪で俺を引き上げてくれた。「怪我はない?」
「大丈夫です。ありがとうございました。おじさんは?」
「事情はみふぎさんから聞いたよ。かくかくしかじかなんだってね」
それは何も言っていないのとどう違うんだ?
「ごめんごめん、心配かけたね。みふぎさんと一緒に助けに来てくれたんだろう?」
「トキネにはわたしが謝る」
非常扉から3階に踏み入る。
異様なにおいが更に強くなったような気がした。
黒は。
ない。
「祓えたってことなんですよね?」
室内は見事に何もなかった。
壁紙と床面の綺麗な剥がされ方から、然るべき“清掃”が済んでいることは一目瞭然。天井も照明のコードが剥き出しになっており、この空間にあったもので交換可能なものはすべて処分済みだった。
どうもできなかったのは、ここにあった黒であり、それをどうにかするために納がいる。
「弟子のお前ならわかるだろ? わたしの仕事は終わっている」
いつもなら得意げに鼻息でも鳴らす勢いで言ってくるのだが。
なんだか、歯切れが悪い。
「あんまり吸わないほうがいいね。まずは外に出ようか」
伯父に文字通り背中を押されて、ビル内の階段を下りた。
ジャン=シャオレーが待ち伏せしているのではないかと納の顔を確認したが、小声で大丈夫だと呟いたので、信じて進んだ。2階、1階と降りるに従って、頭上の重みも軽くなっていったし、異臭も薄れた。
伯父がタクシーを呼んで事務所まで送ってくれた。
すでに次の日になっている。
「ゆっくり休んでね。明日は、いや、もう今日かな、寝坊も許すよ」
「おじさん、怪我とか大丈夫ですか」
「念のため休みもらって朝一で検査に行くよ。私は大丈夫だから、早めに休むようにね」
納が伯父の死角で首を小刻みに振っていたので、それ以上は何も言わないし、聞かなかった。
タクシーの発進を見届けて、事務所に入る。
俺が外に出たあと何があったのか。
納の髪が濡れているので、祓うことはできたのだろうが。
ジャン=シャオレーは。
「お望み通り触媒に使ってやったら、満足して消えた」
その消えたというのは。
「消滅したってことじゃないですよね?」
「莫迦を言うな。そう簡単に消えさせて堪るか。ああ寒い。冷えてきたな」
納が先にシャワーを使った。
また帰宅し損ねた。
このまま滞在が長引くのも困るが、さすがに着替えが欲しくなってきた。身体が冷え切っているのでシャワーは浴びたい。今夜のあれやこれを考えると、この服は早く肌から取り去りたい。
結局あの異臭はなんだったのかわからないが、服にもこびりついているような気がしてならない。
「これ、お前のじゃないのか」風呂上がりの納が持ってきたのは。
俺が着そうな(趣味が合うという意味)服だけど、新品だった。下着や靴下もある。
「どこにあったんですか」
「脱衣場」
こうゆうことをしそうな人間の心当たりが一人しかいない。
どうやって事務所に入ったのか、という根本的な問題があるが、時寧さんに言えばなんとでもなるだろう。同じ会社にいるんだから、接点くらいはあるだろう。
シャツの胸ポケットにメモが入っていた。
お手本のような整った字でひとこと。
ご無理なさらぬように。
とだけ。
「こんな時間だが、連絡したほうがいいんじゃないか」納が手元をのぞきこんでいた。
「はい」
「おや。余計なお世話、と言われると思ったが」
「心配かけるのは、よくないですから」
久しぶりに聞いた家族の声のおかげで、その夜はすぐに眠れた。変な夢も見なかった。
昼すぎに起きて。
納じゃない知らない声がして吃驚したが、ラジオのニュースだった。
納は。
サイドテーブルのラジオを破壊しそうな形相でベッドに腰掛けていた。
アナウンサーは、至極平坦な声音で繰り返し、履歴書で見たジャン=シャオレーの本名を読み上げており。
「今朝8時頃
神奈川県●●市●●●●の旧●●●●団地内で
4名の男性の遺体を
解体作業で下見に訪れた工事関係者が発見しました。
遺体の損壊が激しく被害者の身元特定に時間がかかっていますが
所持していた運転免許証から内1名が
神奈川県●●市
職業不詳
25歳
であると判明しました。
尚、神奈川県警によりますと
死後二日程度経過しており―――」
再度、納の顔を見た。
「なんで」
ジャン=シャオレーが死んだ。
しかも、
一昨日に。
じゃあ、
昨日会ったあれは。
「どうなってる?」
幽霊でないなら。
「いや、あれはレーだった。レーだと思いたいが」
別人の可能性。
いずれにせよ。
「意味がわからん」納が苦々しい顔で呟いた。
2
弟子を追い出して、ミフギと向かい合う。
僕は彼女の本名を知っている。
彼女は僕の本名を知っている。
でも言わない。
言う必要がない。
世界に二人だけなら名前は要らない。
触媒をしている間は口をきいてはいけないので、黙って冷たい床に座った。
ライトを床に置いたので、間接照明のようにミフギの輪郭が浮かび上がる。
なんて綺麗なんだろう。
僕が永久触媒になれば、この光景は永遠に僕のモノになるのに。
なぜミフギが永久触媒を拒むのか。
死んだ父の二の舞にさせたくないからだ。
こんなにも優しい。
決して僕が嫌いだからとかそうゆう低次元の話をしているのではない。
嫌いだったらそもそも。
いや、嫌いだから?
消そうと思って、殺そうと思って、二度も触媒に使った?
いや、そんなはずは。
ないと言い切れるか。
みふぎの首から顎のラインが見える。
白い。
白い首が。
触れる。
触る。
障る。
冷たい氷のような肌を。
儀式の間はトランス状態になっているので気づいていない。
このまま、
絞めたら。
たぶん抵抗せずにミフギは死んでしまう。
僕が死ぬのは仕方ないとして、ミフギが死ぬのは耐えがたい。
手を引っ込めて。
儀式が終わるのを待つ。
白い、
息が。
儀式の終わりの合図。
「終わったぞ」
ミフギもこう言っている。
「3度目はない」
わかっている。
「さっさと消えろ」
「眼が戻ったらでいいからさ、僕を」
助手でもパシリでもなんでもいいから。
「みっふーのそばに置いてほしいな」
「その前に行くところがあるだろ?」
「役所?」
「違う。同じネタをこするな。自首して罪を償ってこい」
「僕じゃないよ」
「とぼけるな。お前が触媒の人権に配慮できるわけがない」
「ちゃんと帰したよ。帰る家があればだけど」
「もういい。じゃあな」
「先生は自主的に来てくれたよ」
「お前と話してるとうんざりしてくる」
ミフギの白い身体が闇に吸い込まれる。
階段を上がる足音が聞こえなくなってから外に出た。
パーキングに置いた車に乗る。
「よくのこのこと戻ってきたよね」助手席から声がした。「それこそどのツラ下げて、さ」
ショートヘアで快活そうな横顔。
時寧氏だった。
いつの間に?というか、それは僕が車に乗り込んだタイミングだろうけど。
ここで待ち伏せていたのか。
「降りてくれませんか」
「いまから見に行くんでしょ? 私もそこに用があるから」
旧団地。
「あなたの管轄じゃないでしょうに」わざと管轄外の仕事を探したってのに。
「私の管轄じゃなくても、取り壊し業者がお得意さんだから、噛んでおいてもいいかなって」
「そうゆのでしゃばりって言うんじゃないんでしょうか」
「言うね。どこかの甥っ子にそっくりだわ」時寧氏はカラカラと笑う。「出してよ。それともケーサツ呼ぼうか?」
「わかりました」
夫を人質に取られて怒っているのだろう。
憎しみみたいな、怨念みたいなどろどろとしたものが時寧氏を覆っている。
このままひとけのない旧団地なんかに連れて行ったら、むしろ僕の命が危なくないか?
「そんなことしないって。この細腕で何ができるって?」時寧氏は冗談ぽく両手を広げて見せる。
「念のため、ケータイを後ろに放ってください」
「ケーサツなんか呼ばないよ。どうせ明日の朝っぱらから下見に来るはずだし。嫌でもそのとき見つけるでしょ」
なんの?
話をしている?
「みふぎにちょっかいかけるのやめてくれないかなあ?」
「それは雇用主としてのお願いですか」
「うちのだいじな、しかも替えの利かないエース社員と勝手にバディ組まれても困るよ」
「みっふーが断ったのは、あなたの指示ですか」
「そう思ってくれてもいいよ。そうじゃなくても、嫌なことははっきり言うタイプだから。断ったってことは、嫌だってことだと思うけどね」
嫌味か。
「嫌味だよ。察しがよくて助かるね」
すごく、ものすごく。
居心地が悪い。
僕には黒は見えないけど、視覚以外の感覚で充分わかる。
時寧氏は、汚染されている。
「このまま手を引くというか、二度とみふぎの前に現れないっていうなら、ダーリンにした仕打ちも、みふぎの触媒にした非道な行為もぜんぶ見なかったことにしてあげる」
「だから、僕は殺してなんかないんです。昨日だってあのあと全員を駅に送ったし。さすがにそのあとどうなったかまでは関与し得ないですけど」
「とぼけているのか?それとも一過性の健忘か?」
「ですから、さっきから言ってる意味が全然わかんないんですけど」
到着した。
思考が乱されていても、迷わずに運転ができたのはよかった。夜も深いのでそこまで交通量がなかったのも幸いした。
「ねえ、聞こえる?」車から降りた時寧氏が耳に手をかざす。
カンカンカンカン。
遮断機の下りる音。
「線路なんかないのにね。どういうわけか、ここに立つと聞こえてくる」
「さっき踏切渡ったじゃないですか。何言ってるんですか?」
時寧氏が振り返る。
表情は、逆光で見えない。
「さ、屋上、行こっか」
「嫌です」
「なんで? ぜんぶ思い出すと思うよ?」
「どうせ突き落とすんでしょう?」
「え、突き落としたの?」
「話聞いてますか? 僕はあなたに殺される気がして嫌なんです。いまだって、今すぐにでもあなたをここに置き去りにして帰りたい」
「置いてってもいいけど、屋上に行ってからね」
「行って何するんですか?」
「君がやったことを思い出してもらおうと思ってね」
「ですから、何度も言ってますけど」
「君は昨日、ここでみふぎを手伝ったあと、何をしたのか憶えてないの?」
「みっふーと弟子くんを送り届けて、触媒を駅で降ろしました。それの何に問題が?」
「あれ? 本当に気づいてない?」時寧氏が指を差して。
僕の表層に黒をなぞらせる。
「君もう死んでるんだよ?」
「は?」
なに、言ってるんだ?
黒の汚染で妄想が活発になるのか?
「だって君、昨日みふぎが寺から持ってきた黒をぜんぶ引き受けたでしょ? 素人が黒を溜め込んじゃいけない。人に押し付けるか、専門家に祓ってもらうとかしないと」
どかん!
ちょっと吃驚したが、時寧氏が脅かしただけだった。
「屋上行ってごらん。ぜんぶ、思い出すからさ」
「僕の死体でもあるって言うんですか?」
「そうそう。さっすが、察しがいいね。見たら納得するでしょ? ほらほら、行った行った」時寧氏に無理矢理背中を押される。「それとも一人で受け止める度胸がないチキン野郎ってこと?」
僕が、
死んでる?
口に手を当ててもあったかい息がかかるし、胸に手を当ててもドクドクと鼓動が聞こえるのに?
死んでる?
「あの、言い返すようでアレですが、あなたのほうがよっぽどおかしいんじゃないんですか」
「他人の心配してる場合じゃないと思うなあ」
ああ、もう。
うるさいったらない。
「わかりました。見て来ればいいんでしょう?」
「そうそう、素直なほうが好かれるよ」
屋上までは、確か3+3+5で12階あるから、その上。
もちろんエレベータなんか死んでるから階段を上がった。息も切れるし、冷え切った身体はぽかぽかしてくるし、これのどこが死んでるっていうのか。
「ゆっくり追いかけるからさ、先に行っててくれる?」階下から時寧氏の能天気な声が響く。
他人をイラつかせることに関して、なかなか右に出られない声音だと思う。
上がって、上がって。
さらに、上がったその先。
屋上。
鍵は壊されていた。
ドアを開けたら、冷たい風で首の汗が一瞬で消えた。
ここに、一体何があるっていうんだ。
暗い。
月がちょうど翳っている。
よく見えない。
落下防止のフェンスに。
なにか、
ひっかかっている。
近づいて、
見ると。
「ヒ」
思わず声が漏れた。
死体だ。
男?
フェンスに両手首を括られたまま死んでいる。
「その顔に覚えがないか?」時寧氏の声が後頭部に投げつけられる。
「あったらなんですか」
「あるんだな?」
触媒だ。
「お前がやった」
顔を、
上げた。
「僕じゃない」
「じゃあ誰がやるんだ?」時寧氏がすぐ後ろに立っていた。
ちょっと距離を取る。
フェンスを背にするのはあまりにもリスクが高い。
「あなたじゃないんですか?」
「どうして?」
「触媒が要らなくなったから」
「そうそう、ゴミは処分しないと」
「ほら、やっぱり」
「私には動機がない」
「使用済みの触媒は、あなたには都合が悪い」
「ふうん」時寧氏を覆う黒が、ふたまわりほど膨張したように感じた。
膨張をしたのにもかかわらず、濃度が増している。
何をされるかわからない。
極力フェンスから離れて、屋上の中央に近づくようにする。
「みふぎと勝手にペア組もうとしてるだけのことはあるのかな。ごめん、ちょっと侮ってた」時寧氏が申し訳程度に顔の前で両手を合わせる。
「あなたは誰ですか?」
「ん? 質問の意図がわかんないけど?」
「あなたは本当に、みっふーの雇い主の
「ここに、入ってるのなんだと思う?」時寧氏の足元に。
見覚えのあるずた袋があった。
背筋の温度センサーがアラートを鳴らしている。
突然凍えるような寒気が全身を駆ける。
「あれ?聞こえなかった?」時寧氏がずた袋に片足をのせる。「この中に入ってるのは何かって聞いてるんだけどな」
開けないで。
「わかんない? 消去法じゃん。昨日攫って、じゃなかった、使った触媒の顔憶えてるんでしょ? そこに吊るされてるのは違うから、残りは、踏切に置き去りにして電車に轢かれてミンチになったのと、もう一つ。二択だね」
開けないでほしい。
その袋の中は。
「君の師匠が詰まってる」時寧氏が靴の裏でずた袋の口をずらした。
土気色の顔をした、それは。
「秋田からどうやって誘き出したの?」
なんで。
師匠が?
いや、それは本当に師匠なのか?
人違いってことは。
「なんでそんなに蒼い顔してるのかわかんないけど、え、本当に憶えてないの?」
違う。
僕じゃない。
なんで僕が師匠を?
「困ったな。思い出すどころか、解離起こしちゃってるな」
ぱん!
時寧氏が僕の顔の前で柏手を打った。
「はいはい、しっかり? 百歩譲って君に記憶がないとする。と、するなら、あ、いや、でもなるほど。そうゆうことか。それならおかしくはないかな」
寒い。
とにかくここは寒い。
どこでもいい。
どこか暖かい場所へ。
「どこに行こうとしてる? 勘違いしてもらったら困る。君が行くのは、落ちるのは地獄だ。そこ以外にはない。だいじな商売道具を汚したこと、地獄で永久に詫びればいい」
急に視界に飛び出してきた時寧氏の黒が。
三日月に裂けて。
世界が反転した。
みふぎ。
僕は決して、二度も君の触媒になったから死んだんじゃない。
それだけは伝えたい。
永久触媒は、黒が溜まったから命を落としたんじゃない。
君の父の本当の死因は、
3
時寧さんの事務所という名の実質納水封儀の自宅と化しているこの家屋は、住宅街にある駐車場付きの2階建一軒家である。事務所の看板を出しているわけではないので、外観は何の変哲もない一般住居にしか見えない。
間取りは、1階部分は3LDKで、3部屋の割り振りは、そのまま時寧さん、伯父、納の自室。もちろん浴室とトイレも洗面台もある。2階の部屋数はわからないが、ほぼ倉庫や物置として使っているそうで、少なくとも納は行ったことがないらしい。
時寧さんは、一体何の目的でこの土地と家を買ったのだろう。時寧さんと伯父は別のマンションで二人暮らしをしているはずなので、この一軒家は明らかに無駄である。いずれはマンションからこちらの一軒家に移る予定があったのだが、納の住居として宛がうことにしたため、その計画が頓挫したのだろうか。
実は時寧さんのことはよく知らない。時寧さんどころか、伯父のことも知らなかったし、納のことも、納が専門職として雇われていることも全然知らなかった。
納のやっている仕事は、唯一無二の替えの利かない業務なので、母親はなにがなんでも手放したくはないだろう。だからこそ姉の時寧さんを付けて、懇切丁寧に世話をしている。
一旦家に帰ろうと思ったが、納が離れるなと言うので、メールだけ送った。返信はすぐに来た。相手は母親の会社で唯一信用できる大人。彼がいなかったら、たぶん俺はいまここに生きていない。
こんなに長く生きるつもりはなかった。
納がジャン=シャオレーに言っていた。自分を自殺の道具に使うなと。
半分くらい理解できて、半分くらい羨ましかった。
納から移行したこの眼をあげるから、自殺の道具を貸してほしかった。
ジャン=シャオレーのおかげで、どうやって死のうか、いつもいつも考えていることを思い出した。
少なくとも彼にだけは迷惑をかけない方法でいなくなりたい。でも迷惑をかけない方法が全然浮かばないので、その方法が思いつくまではとずるずると生き延びているだけ。
思いついたらすぐに実行するつもりではいる。この世への未練は何もない。むしろ早くいなくなりたい。
だってそのほうが、母親も喜ぶだろうから。
俺が母親に出来る唯一のことは、息子の俺が速やかに命を絶つことだから。
ジャン=シャオレーはどうやって死んだんだろうか。
ラジオの内容も気になったが、納が黙ったまま何も言わないので、時間つぶしに洗濯機を借りて昨日着替えた服を洗った。終了のアラームが鳴って、蓋を開けてギョッとした。現場を押さえてはいないが、納が溜め込んでいた自分の洗濯物を大量に追加投入したらしく。
「ついでだ、ついで」納はラジオを流しながらベッドでひっくり返っていた。「別に興味があるわけじゃないだろ?」
「そうゆう問題じゃないと思うんですけど。さすがに自分のは自分で干してください」
「わたしは情報収集に忙しい。優秀な弟子で勤勉な助手は、師匠の雑務を黙々とこなすものだ」と言い捨てて、どこぞへ電話をかけ始めた。
反論する気が失せた。おそらくそれこそが目的なのだろうが、仕方ない。誰にも見られなければ問題ないはず。しかし、これを干したり畳んだりしている自分の姿を想像してやっぱりぞっとした。
曇天で気温も上がらないが、1時間だけ外に干した。日が陰ってきたのでこれ以上外に出していても冷たくなるだけ。
ふと我に返ると余り碌なことをしていない。ほとんど納のせいのような気もしないでもないし、事実納のせいだ。それでも毎日学校に行って、宿題をして、部活して、みたいな生活よりはマシかもしれない。学校も宿題も部活もどれもしたくないのだから。
なぜか。
簡単だ。
死ぬつもりの人間に、学業や集団生活は必要ない。
伯父から電話が来た。一通り検査をしたらしいが、特に問題はないとのことで半日で帰れたらしい。一日休みをもらったので、と牛丼を買って、夕方頃事務所に持って来てくれた。
「半端な時間だから、何ご飯かわからないけど、よかったら」
「なんだ、オムライスじゃないのか」納が中身を見て表情を曇らせる。
「ごめん、何がいいか聞けばよかったね」
「俺はもらいます。ありがとうございます」
朝からというか、事務所で寝泊まりさせられてからまともな食事を摂れていない。なにせあのとんぼ帰り秋田ですら食事どころではなかったから。納と一緒に食事をするのは、寺の帰りに食べたドーナツ(食べたのは納だけだが)を除けば、数日前に時寧さんが買ってきたオムライス以来だ。
「わたしはオムライスじゃないと食べんぞ。それかドーナツ」納がベッドに仰向けに倒れ込んでしまった。
「やっぱり買ってくるよ。ちょっと待っててね。駅のとこのお店だっけ?」
伯父は車を所持していないので、わざわざタクシーを呼んで買いに行ってしまった。
なるほど。こうやって甘やかしていたのか。
「主治医を顎でパシって好物を買いに行かせる患者なんかいないと思うんですけど」
「自主的に席を外させたんだ」納が口を尖らせる。
「来て5分も経ってないです」
「細かいことをうるさいな。急に訪ねてくるほうが悪い。秘密の作戦会議もできんじゃないか」
そもそもこの事務所は、時寧さんや伯父の所有物だろうに。居候がこれだけデカイ顔をして居座っているのはどうなんだろう。余計に面倒くさくなるので言い返さないが。
「先生はどこまで知っているんだろうな」
「食べながらでいいですか?」
牛丼は決して好物ではないが、空腹なので正直何でも美味しかった。
「先生は信用できるが、巻き込んでしまっていいのかどうか」
「今更じゃないですか」
納の主治医であること自体、時すでに遅しな気がしてならないが。
伯父のことをあれだけ持ち上げていたくせに。
「信用してないんですか?」
「先生はお人好しなのが唯一の欠点だからな。全然医者に向いていない」
「褒めてるんですか?」
「べた褒めだ」
「ならいいですけど」
納がラジオを付ける。
ニュースは相変わらず同じ内容を繰り返す。また同じ内容を。
ん?
「ああ、録音した」
「紛らわしいことしないで下さいよ。ネットでもざっと調べましたが、やっぱり身元がわかってるのは」
ジャン=シャオレーもとい。
「本名はどうでもいい。レーはレーだ」
実は
要注意の意味はたった一つ。関わるな。
なのでジャン=シャオレーが母親の会社の面接を受けたとしても、絶対に採用されない理由がここにあったというわけで。書類選考の段階で不採用の通知が準備されていたに違いないのだが、なぜジャン=シャオレーは明日(今日だ)面接があると確信していたのだろうか。単なる社内の伝達ミスか。
「さっき神奈川県警に確認したが、やっぱりあれはレー本人に間違いないらしい」
「どうやって聞いたんですか?」純粋な興味と半分は非難。「遺族でもなんでもないのに?」
「神奈川県警に伝手がある」
「とてもまともな伝手とは思えないですね。それこそ遺族に確認したほうが」
「神奈川県警が遺族に確認して、その結果をわたしが聞いた。残りの3つの遺体は鋭意特定中だが、わたしはレーの連れてきた触媒で間違いないと思っている。ただ、この情報は神奈川県警にはくれてやらん」
「情報の出し損ですね」
納に言いように使われている神奈川県警の構図ができあがった。
「4名の死亡推定時刻は、仕事が終わってあの団地から帰ったあとから、朝方にかけて。ほら、使った触媒をレーが処分したとするなら辻褄が合う」
「でもその本人も同じ時間に死んでるんですよね?」
処分後に自殺したとか?
「レーの死因がこれまた謎でな。いや、謎というわけじゃないか。目立った外傷がなかったらしい。死因らしい死因は、脳の出血。つまり誰かに危害を加えられたわけじゃなくて、あの時間にたまたま、ということらしい」
「偶然てことですか?」
処分後に偶然脳が出血して死んだ?
そんなことってあるのだろうか。
「偶然そうなったとしか思えんな。結論として、レーが死んだのは一昨日で間違いない」
「じゃあ昨日会ったのは幽霊だったってことですか?」
「お前、幽霊なんかいると思ってるのか?」
「それそっくり打ち返したいんですけど」
「ピッチャー返しでアウトだ。幽霊はいない。わたしが祓ってるのは幽霊じゃない」
「はいはい」
「なんだその、まあそうゆうことにしておいてやるか的な返事は。弟子、わたしはお前をそんな奴に育てた覚えはないぞ」
「育てられた覚えもないのでいいです」
そういえば、俺を育てたのは誰なんだろう。
母親ではないことは確かだが。
「悪かったな」納が言う。
「なんで謝るんです?」
「お前ときどき闇に沈んだみたいな顔になるの、意識できてるか?」
「なんですかその闇に沈んだ顔ってのは」
「いまもう戻ったが、まあいいや。戻ったから、話も戻す。なんで特定に時間がかかってるかわかるか?」
遺体の損壊が激しく。
「残りの3体は、ああ、食事中だな」
「別に気にしませんけど?」もうすぐ食べ終わるし。
「3人全員顔の皮が剥がされて、ち■こをタマごと切り落とされていてな」
咀嚼中の食べ物を戻しそうになったので、納を制止して、台所に行く。オールリバースは免れたが、これ以上食事をする気はなれなかった。口を漱いでテーブルに戻る。
「ほら、言わんこっちゃない。わたしはちゃんと忠告したからな」
死後二日経過した遺体は確かにジャン=シャオレーで。
だとするなら昨日俺と納が会ったジャン=シャオレーは何だったのか。
幽霊はいない。
納が祓っているのは幽霊じゃない。
絶対に証明不可能な命題をぐるぐると念仏みたいに唱えているだけのように思えてならない。
なんとか消化器官の混乱が落ち着いて、ぬるめのお茶で胃を宥める頃、伯父が戻ってきた。両手にオムライスとドーナツを抱えて。
「ごめん、遅くなって」
「先生も食べていいぞ」納は我先にありつこうとする。「こっちの牛丼が余ってる」
「じゃあお言葉に甘えて、一緒に食べようかな。美味しそうだしね」
手持ち無沙汰だったので、二人の分のお茶を淹れた。
「あっくん、ありがとう」伯父が湯呑みを受け取る。
「あの、伯父さん」
「食べながらでいいならどうぞ?」
伯父は行儀やマナーのことを言っているんじゃない。納に聞かれてもいい話か、そうでなければ食べ終わってから部屋を移動する、という気遣い。
いまさら内緒にする話でもないので別にどうでもよかった。
「母には、何か言ってますか」
「それは仕事として? 家族として?」
「母が、俺がここにいるのを知ってるのか、てことです」
「私が言わなくても耳には入るだろうね」
時寧さんか、もう一人。
「あっくんが気にしてるのは、みふぎさんのこと? 自分のこと?」
「どっちものような気もするし、両方のような気もするんですけど」
「診察なら診察室でやってくれ」納が口を挟む。「飯が不味くなる」
「みふぎさんの診察も食後でいいかな」
「眠剤が要らないわたしのどこに診察の余地があるんだ?」
「要らなくなった理由を聞かせてもらいたいんだよ。勿論、気が進まないなら進むまで待つよ」
納はしばらく伯父の顔を見つめていたが、やがて観念したように唸り始めた。
「うぬぬ。先生には敵わんな。わかったわかった。気が向いたらな」
「ありがとう。楽しみにしておくよ」
それと、と伯父は前置きして。
「時寧さんは?」
「ああ、ちょっと前にな」納が答える。
「そっか」伯父はとても優しい眼をして。「私のところにはなかなか来てくれないから」
仲が悪いのか?
そんな話は聞いたことなかったが。
それにその表情と、発言内容が噛み合ってない。
「弟子、気づいてるかわからんから敢えて言うが」
知ってる。
「トキネは」
何年か前に死んだ。
俺は葬式に行かせてもらえなかった。
「なんだ、知ってたのか」納が感情を排して言う。
この眼は。
「時寧さんが、やったんでしょう?」
それしか考えられない。
触媒にして能力が移動するなら、ジャン=シャオレーやその他大勢の触媒にだって、幾分か移動している可能性もあるのに。
それがまったくないということは、俺にだけ、移動する意味が誰かにあったということになる。
それができそうで、かつ、やった利点が生まれそうな人物は。
社長の姉で、納の世話係の、俺の伯母しかいそうにない。
伯父が立ち上がって時寧さんの名を呼ぶ。きょろきょろと見えない姿を探している。
「いないよ」納が言う。「先生がいるから出てこない」
「席を外したほうがいいのかな」
「先生、それと弟子も、しんどいかもしれないが、トキネとわたしの家のことは、この際はっきりさせておいたほうがいい。先生に断っておきたいのは、別に私はこのことで現社長を怨んでないし、むしろこんなわたしを雇ってくれてありがたい感謝のほうが大きい。だから、わたしは辞めるつもりはないし、会社と手を切るつもりもない。それだけはわたしの心からの気持ちだ」
「わかってるよ」先生の表情は優しい。「それにね、誤解しているようだけど、私は社長の専属盗聴器でもなければ私設監視カメラでもない。独立した、ただの産業医だよ。だから主治医として同じ社員としてみふぎさんのこともだいじだし、家族としてあっくんのことも同じくらいだいじだ。二人が納得いくようにしてくれたら、私はそれで充分だよ」
納と伯父の視線が、俺で留まる。
「話したくないことに拒否権があるのなら」
「勿論」と肯く伯父と。
「そんなわけあるか」と否定する納とが同時に喋る。「わたしだって、言いたくないことばっかりだ。いいか? これは情報提供や、事実整理じゃない。話すことで、自分の中で過去として処理できる。自己治癒なんだ。私にも先生にも況してや親にも言わないなら、誰に言うんだ? 言える相手がいるのか?」
納は俺に自白を強要しているのではない。
俺に腹を割って話せる相手がいるのか。いないならここで少しでも話して荷を降ろせ。と本気で心配してくれている。
はっきり言って余計なお世話だし、放っておいてほしいのも本心だが。
納は、
信用してもいいのかもしれない。
ここ数日一緒にいたせいで絆されているだけかもしれない。しかし、いままで誰かと一緒にいたことがあっただろうか。誰かが一緒にいてくれただろうか。母の会社の社員は、あくまで仕事の一環で俺の世話をしてくれていたに過ぎない。そんなことはわかっている。でも、それでも。
俺を、
ゴミか何かだと思って視界にも入れない母親よりは、ずっとずっと。
信用に足る大人だから。
「時寧さんは、どうして俺に」
この眼を。
納の眼を。
「わたしの眼は、もともとフツーの眼だった。親は見えてたんだ。わたしには」
黒が。
「見えてなかったんだ。だから」
この眼を。
「潰したくて仕方なかった」
使い物にならんからな、と言って納は苦笑いした。
「トキネが死んでからだよ。見えるようになったのは」
01
お母さんは幽霊が見えるらしい。
あ、幽霊じゃないか。
なんか黒いもの。
黒いものが建物に取りつくと怪奇現象が起きて、
人に取りつくと死んじゃうらしい。
だからお母さんは毎日黒いものをお祓いしてる。
すごい。
すごいお仕事。
みんなに自慢したいけど、誰にも内緒って言われちゃった。
わたしと、お母さんと、お父さんの家族3人の秘密。
お父さんもお母さんを手伝ってる。
黒いものを消すのに、お父さんの力が必要なんだって。
わたしは見たことないけど、きっと、
お母さんが見つけて、
それをお父さんが力づくで倒すんだ。
二人ともすごい。
だから、わたしが家で一人ぽっちでも我慢しなきゃいけない。
一人でご飯食べるのも、
一人で眠るのも、
みんなのために我慢しなきゃいけない。
でも最近、お母さんを雇ってる会社の社長のお嬢さんがわたしの家に来てくれてる。
わたしが一人ぽっちで寂しくないように、一緒にいてくれるんだって。
わたしは一人っ子だけど、そのお嬢さんをお姉さんみたいだなって思った。
だからお姉さんて呼ぶね。
お姉さんは、わたしにも黒いのが見えるのか聞いてきた。
あれ?
家族3人の秘密のはずじゃ?
ないの?
あ、そっか。
社長さんが知らないわけないから、そのお嬢さんも知らないはずないのかな。
なんか、
もやもやする。
なのでわたしは嘘をついた。
黒いのが見えてることを。
お姉さんはすごくホッとしたように見えた。
お姉さんのお陰で寂しくなくなったけど、
お母さんもお父さんも全然家に帰ってこない。
どうしたら帰ってきてくれるんだろう。
わたしも手伝えばいいのかな。
でもわたしには黒いのが見えない。
そっか。
わかっちゃった。
お姉さんがホッとしたのは、
もしお母さんやお父さんがいなくなっても、
わたしがお母さんやお父さんと同じことを続けるためだ。
じゃあ、お母さんとお父さんは社長さんに利用されてるの?
思い切ってお姉さんに聞いてみた。
お姉さんはビックリしたような困ったような顔をして、
こう言った。
「ホントは見えないんでしょ?」
だからわたしはこの眼を潰すことにした。
お母さんとお父さんみたいに利用されないために。
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