Chapter3-2 接近

 それから一時間ほど、米子を出て、ついに日本海が見えてきた。

「おれ、初めて日本海を見たよ」

「残念だけどあれは宍道湖」

「えっ、そうなのか」

「日本海は、出雲からさらに西に行かないとまだ見えないわ」


 言われてみれば向こう側に陸地が見える。大陸ではない。

 そうして、陸地がどんどん近づき、湖の終わりを見せてくれた。

 森林が徐々に減り、岡山に着く前の時にように生活の息吹が見え始める。田畑が広がり、数台の車が走り、奥には大きそうなショッピングモールが見える。

 踏切を待つ自転車に跨った老婆。彼方に消えていくトラクター。飛んでいく鳥の群れ。おれが住む東京とは全く違う。


 徐々に建物が増えていき、地上からコンクリートで舗装された高架線を走っていく。

 東京駅を出た時と同じ車内チャイムが鳴った。

『寝台特急サンライズ出雲号にご乗車いただき、ありがとうございます。次は、終点、出雲市。終点、出雲市でございます。お忘れ物が無いようにご注意ください』

 続いて、英語で同じことをアナウンスして、放送が終わった。


 そうして、ホームが見えてきた。下からホームを眺める。不思議な光景だった。

「出よう」

 二人でホームに降り立った。空は恵が持っていた本のように青く、透き通っていた。まるで、遠く彼方の宇宙まで見えそうだった。

 下に降りると、改札がなかった。いや、普段見る自動改札機が無い。銀色で、腰の位置くらいまで伸びるバリケードみたいなところがあって、そこに人が立っていた。


「恵、どうするんだこれ」

 焦るおれに、恵は冷静に答えた。

「そこに立っている駅員に切符を渡せばいいのよ」

 長い黒髪を揺らしながら、先に進む。そして、さっき言った通り、切符を駅員に渡した。


 別の人の迷惑にならないように、焦る気持ちを抑えて進んだ。言われるがまま、切符を渡すと、すぐに回収された。

「ご利用ありがとうございましたー」

 そう言われて、改札の外に出た。難しいことではなかった。自動改札機の代わりに人が切符を回収しているだけだった。


 改札外は、隣に出雲そばの暖簾を掲げた店が、反対側にはセブンイレブンが、その間の通路には待合室替わりに木製のベンチが設置してありテレビが置いてあるだけの簡素な内装だった。

 ふと、目をやったテレビでやっているニュースでは、下りの新幹線や飛行機、高速道路で警察の調査が入り、どこもかしこも大混雑の装いを見せていた。恵の言った通りだったな。


「大きい駅だと勝手に思っていたが、案外こじんまりとしているんだな」

「これくらいで丁度いいのよ」

「そうか…これからどうするんだ?」

「車を借りるわ。ただ、私はあなたの姉ということにしておいたわ」

「はあ!?」

「そっちの方が、都合がいいの」


 駅の隣にある、プレハブ小屋みたいなレンタカー屋に入った。

「えーお二人はご姉弟さんね。名前は、ヒバリ・メグミさんとハルトさんね」

 カウンター越しに、冴えないスーツ姿のおじさんが対応していた。

「間違いありません」

 隣でぼーっとしてるおれの腕を、恵は小突いた。

「あっ、うん……姉さん」


 さっき恵が書いた書類を目にしながら、おじさんは続けた。

「お姉さん、スーツでご旅行ですか」

「ええ、仕事終わりでして。すぐに東京を出たんです」

「あ、サンライズで来られましたか?」

「そうなんです」

「お客さんみたいな人、多いですよ」

「へぇ、そうなんですか」


 おれは驚いた。さっきまでクールという言葉が似合ったが、 今はうって変わって高いトーンの声で話している。まるで、エリート営業ウーマンとでも言うべき感じだ。

「では免許証をお願いします」

 恵が出した免許証をちらりと見たが、名前に陽羽里恵と書いてあった。


 おれが唖然としている間に手続きは進んでいるらしく、表の方を向くとすでに車が用意してあった。

 そうして銀色で、少し小ぶりな島根ナンバーの車に乗り込んだ。

「車は酔う?」

「いや、特には」

「よかった。もし気分が悪くなったら、言ってね」


 クールな恵に戻った。

「わかった」

 昨日のサンライズが東京駅を出た時のように、ゆっくりと走り出した。

「免許証、偽装したのか」

 東京でも見たことがあるビジネスホテルが流れていくのを横目に、おれは尋ねた。


「必要になると思って、いくつか用意したわ」

 目的のためなら手段を厭わない。恵はしっかりと準備してきたんだな。さっきの話し方も、察しがつく。仕事によっては別人にもなりきることもあるのだろう。


「これからも姉さんって呼べばいいのか」

 赤信号に止まって、バックミラーに目をやった後続車はいなかった。

「適宜合わせてくれるとありがたいわ」

 反対車線には車はない。目の前を横切るのは、ゆっくりと手押し車を押していく老婆だった。青信号が点滅するが、まだ端にはたどり着かない。


 もう赤信号になったが、恵はクラクションも鳴らさず、じっとしていた。そうして、やっと信号を渡りきって、老婆が道路から離れてから、車はゆっくりと走り出した。

 すると、老婆がこちらに深々と頭を下げているのがミラー越しに見えた。恵はそれに気づいたのか、中央にある赤い三角形のボタンを二回、素早く押した。


「優しいんだな」

「……関係ない人は巻き込まないだけよ」

 少し、返答に時間があった。

「そうか」

 おれは、冷たい氷のような恵が、案外そうでもないような気がしてきた。


「そこのボタン押したの、どういう意味なんだ?」

「ありがとう、って返すサインで使う時があるわ。車線変更で道を譲られた時にやったりするわ」

「こういう時にも使うのか?」

「いや、あの人が礼をしたから、少し応えたかった……それだけよ」


 両脇に民家や、商店が並ぶ道を抜けると、田んぼが広がっている。右手には山だろうか森林が、正面には青空が広がる。のどか、と表現するのが最も適していると思った。

 少し開けた窓から入る風は、都会のそれとは違っていた。豊かで、どこか優しく、土の匂い混じりだった。なぜだか落ち着く。農作業はひと段落ついた頃なのか、人の姿は無く、すれ違ったり、バックミラーには後ろから来る車はなかった。

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