ロストバゲージ
椎奈はづき
Introduction 晴翔
Introduction-1 早朝
雲ひとつない青空。春先の心地よい陽気が世界を彩る。風が草木を優しく揺らし、穏やかな時間が流れる。
「おとうさーん!」
小学生にも満たない少年が手を振りながら芝生を走る。周りは青々と茂る木々が並び、富士山の頂上がその隙間から見えるような場所だ。
「晴翔!」
少年の名を呼ぶ父親は、嬉しそうに飛び込んでくる幼い体を受け止め、暖色系のレジャーシートに倒れんだ。
「イテテ……」
父親が腰をさすりながら上体を起こす。少年は心配そうな顔をして声をかけた。
「だいじょーうぶ? おとうさんないてるよ? いたいの?」
「大丈夫! 晴翔が大きくなって、嬉しいから泣いてるんだ」
メガネの下で少し雫を落としながら、気丈そうに振る舞った。
「うれしいと、なくの?」
「ああ。大人になるとな、嬉しい時も泣くんだ」
「うれしくてもなくの? ぼく、なきむしはいやだよ」
「違うんだ、晴翔。気持ちが高ぶるとな……胸がぎゅーっとなるとな、泣けてくるんだ。別に恥ずかしい事じゃないんだぞ。自分の気持ちに素直になる、いい事だと父さんは思うよ」
「そーなの? うーん……むずかしいからわかんないよ」
「ははっ、いつか晴翔にもわかる時が来るよ」
桜の花びらが、風に舞う中、母親がお重を出した。
「じゃれ合うのはそこまでにして、二人とも、お昼にしましょう」
「やったー!」
少年が万歳をして喜びんだ。おにぎりに手を伸ばし、父が自分の紙皿に卵焼きと唐揚げをのせる。
暖かい。ああ、あの光景だ。何気ない、幼い頃の記憶。でも、おれは嫌いだ。いつも、終わりは……。
お重が空になって、天を見上げる二人。
「おとうさん、きれいなあおぞらだね」
小さく、儚い右手を空にかざすと、指の隙間から陽光が差し込む。暖かい、母に抱かれるような落ち着きをもたらしてくれる。
「ああ、とっても綺麗な青空だ」
気持ちよさそうに深呼吸した父親は、晴翔もやってみろと言い、それに続いて少年も大きく息を吸った。暖かい空気が肺に満ち、息を吐き出すと全身がリラックスして、落ち着いてくる。
「なあ、晴翔」
「なあに? おとうさん」
「晴翔が生まれた日も、こんな綺麗な青空だったんだ。父さんな、それが素晴らしいなって思ったんだ。その時に、生まれた晴翔がこんな素晴らしい晴れの青空みたいに飛び立って欲しいって願ったんだ。だから、晴翔って名前をつけたんだ」
「このあおぞらが、ぼくのなまえなんだ」
どこまでも続く蒼天を見つめると、ぼく、とべるの? と投げかけた。
「ああ、その通りさ! 父さんな、晴翔みたいに父さんも母さんもいなかったんだ、でもな、あの青い空を見てると、苦しいことがあっても、父さんは頑張れたんだ」
大きな手で頭を撫でながら、父親は続けた。
「飛び立て、晴翔」
父親がそう言った瞬間、一瞬で世界は闇に包まれた、蒼天も、周りの木々も、父親も母親もいなくなった。文字通り何もない世界。
「父さん! 母さん! どこ!」
絶望に駆られ、その場でおれは絶叫する事しかできない。早く、早く醒めてくれ。
ピピピピピッ。機械音が朝を告げる。無の絶望からおれを救い出すのは、いつだってこの白いデジタル目覚し時計だ。新宿の東急ハンズで買った、どこにでもある既製品。自分だけが抱える苦しみから解き放つのは、ありふれた電子音とともにやってくる朝の訪れだけだった。
荒い息と、冬だというのにぐっしょりと寝汗が全身にまとわりついて気分が悪い。いつも通り、六時に目覚めた。結露した窓は、微かに朝の装いを見せてくるが、まだまだ暗い。
またあの夢だ。自分の環境をあざ笑うかのように、お前は孤独なんだ、と現実を突きつけてくる。何度も見た。母さんが亡くなって、もう五年になる。この部屋で生活を初めて、二年になる。
おれは一人でも行ける。もう、こんなものは見せないでくれ。
起き上がると、洗面台に向かう。酷い顔だと自分でも思う。まるで一睡もしていないようにクマができている。
こういう時は熱いシャワーで寝汗を流す。嫌な思いも、これで忘れさせる。多分、大人たちが吸うタバコも、呑む酒も、同じような動機で手に取るんだろう。そう考えると、子供は逃げることができない。不便だ。学校に行っても子供騙しの安いコーヒーしか逃げ道がない。
バスタオルで体を拭いた後、インスタントコーヒーを作った。飲みなれたコーヒーを飲みながら、朝食の支度をする。昨晩に作っておいたコールスローを小皿に盛り、トースターにパンをぶち込み、フライパンでハムエッグを作る。
冷凍庫からミックスベジタブルを解凍し終わると、トーストとハムエッグは完成する。あとは、白い皿に盛り付けるだけだ。
朝食が出来上がる頃には、朝日が室内を照らしている。だが思いの外、今日は暗い。テレビのニュース番組でやっていた天気予報では、今日は雪が降ると言っていた。
寒いのは、好きじゃない、そんな事を思いながら、朝食を食べる。
「昨日午前六時ごろ。国立市国立駅前のロータリーにハトやカラスが鋭利な刃物のようなもので切断されていると通報がありました。警視庁立川署は魔法術を用いた悪質ないたずらの可能性と発表しており……」
国立か、近い。物騒になったな。そう思いながら、ケチャップが切れて少し薄味の朝食を平らげた。
ワインレッドのネクタイをしめ、シャツの上にカーディガンを羽織ったあと、紺色のブレザーに袖を通した。そして前の冬に買った安物の黒いマフラーを巻いて、カバンを持って家を出る頃には七時だ。
道は、先日から訪れた冬将軍によって雪化粧を見せている。ザクッ、ザクッと、軽くではあるが雪を踏んでいる感触がする。学校指定の革靴は滑りそうになり、少し危ないところがあったが、何とか十分ほど歩き最寄りの武蔵境駅にたどり着いた。いつも歩いている道なのに、どこか遠く行ったような不思議な感じだった。
しかし中央線に乗り込むと、車内はいたって普通だ。毎日同じような顔ぶれがホームで電車を待っていたし、いつもと同じオレンジ色のラインが特徴的な電車に乗り、同じ車窓が流れる。強いて言えば今日は雪が積もり、足元は靴にくっついた雪が落ち溶けて雨の日みたいになっていた。そして新宿に着く前には雪が降り始めてきた。
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