10 Moe

 いつも行き場なくゆったりとわだかまっている歌舞伎町の風が、唐突に雪崩れ込んできた突風に飛ばされるように、辺りに撒き散らされる。

 ランジンはまさに、そんな突風みたいな存在だった。この歌舞伎町では、明らかに異端な風を背負っている。

 久しぶりの歌舞伎町。慣れ親しんだ映画館脇の路地まであと数歩という場所。タクヤと並んで立つわたしの目の前には、ランジンの背中。その向こう側に、厳ついガタイの男と、何だかいつもわたしにそっけない、ミユ。

 「マサヤ・・・ここじゃ、エルメスだっけか。ヤツを呼んでくれ」

 ジンは対峙する厳ついガタイの男に向けて、言い放つ。

 厳ついガタイの男。見覚えがある。

 確か、リョウとか言う、マーキュリーの幹部。

 普段、物腰は柔らかい感じだけど、この辺りで起こるこの手の揉め事にはいつも、見かけてた記憶がある。つまり、暴れることに相当自信があるんだろう。

 いつもならわたしは、そもそもこんな騒ぎを起こすようなことはしなかったし、例え巻き込まれても、足が竦むだけだった。今日は違う。ランジンの存在が、わたしを奮い起たせる。

 ホントの本音の部分では、この二人に頼ってしまっているこの状況に、抵抗感がないわけじゃない。歳が近そうとはいえ、忌み嫌っていたオトナの力に縋ってしまっているんだ。でも、タクヤが言うように、こっちだって形振りかまってられない。

 拉致られたシンイチロウ。

 目の前にいるミユもそうだけど、マーキュリーの連中の怪しいさに気づけず、飼い慣らされていく仲間たち。

 壊されていく、映画館脇に築き上げたわたしたちだけの世界。

 抗わなきゃ、帰る場所が消える。もう、猶予はない。


 『いいね、そういう無謀なヤツ、嫌いじゃないわ』

 池袋に乗り込んだ昨日、わたしは衝動に駆られるままに、ランに啖呵を切った。そのわたしの暴挙に、ランが漏らした台詞がそれだ。

 無謀なヤツ。

 今になって思えばランの言う通り、あの時わたしは相当無謀だった。

 相手は、北池袋の中国人。その界隈の中国人がことを知らなかった訳じゃない。あんなふうに楯突けば、どんな代償を払わされたとしても、何も文句は言えない。そういう人種なんだから。

 ましてやわたしは、非力で貧弱で、何の後ろ楯もない未成年のガキだ。わたしの存在を“無かったこと”にするのなんて、彼らからしてみれば鬱陶しく飛び回る蚊を掌で潰すくらい造作もなく、些細で気にかける価値すらないことだったろうし、仮にわたしが居なくなったとしても、兄の死で壊れてしまった両親が、わたしの不在を気にかけることなんて、これっぽっちもなかっただろう。

 冷静になって思い返せば返すほど、自分がやらかしたことの無謀さに、鳥肌が立つ。でもわたしはわたしを止められなかった。何がわたしをそうさせたのか、今でも判らない。無事にすんだのは、多分、奇跡だ。

 そう。

 運が良かったんだ。

 ランにその台詞を言わせるツボが、わたしのどこにあったのか検討もつかないけれど、いずれにせよ、ランはわたしを気に入ってくれたみたいだった。

 その後、ランジンとタクヤは、そのまま中華料理店のテーブルを囲うように腰かけて、これからの段取りを話はじめた。

 『で、ゴールは何なんだ?』

 ジンという男は切れるヤツなんだと、直感した。冷淡で冷静な口振りも、まずは目的を端的に明確にしようという切り出し方も。バカなヤツは、こういう雰囲気の話し方をしないし、状況の整理をしようとする、発想すらないから。

 『マサヤを歌舞伎町から追い出す』

 タクヤはジンではなくランを見つめたまま、返した。ランは黙って唇の片端だけを吊り上げて、無言で笑う。

 『どうやって?』

 それに構わず、ジンは再び問う。

 『カタチはなんだっていい』

 『殺してでも?』

 ―――殺してでも?

 さすがにわたしは、その言葉にリアリティを感じらず、すんなりと飲み込めなかった。

 殺す? ホンキで言ってる?

 でも、あり得るかもしれない。この中国人たちなら。

 そんな、わたしにとってはリアリティのないジンの問いかけに、タクヤは躊躇いなく、黙って頷いた。

 『その意味、わかってんのか?』ランが横から口を挟んだ。『他の誰を殺すんじゃない。相手はマサヤだ。お前にとってそれがどういう意味か、わかってて言ってんのか?』

 『わかってる』

 短く、きっぱり、タクヤは言いきった。

 ランを見据えるタクヤの真っ直ぐなまなざしを、ランは同じように真っ直ぐに受け止めて、しばらくしてから、口を開いた。

 『わかった。手伝ってやる』

 ランは立ち上がると、わしゃわしゃとタクヤの頭を乱暴に撫でてから、薄暗い房の中に消えていった。

 『マサヤのバックに着いてる連中が誰か、判ってるのか?』

 その場を立つランにちらりと一瞥を向けてから振り向いて、尖った視線をタクヤに向け直すと、ジンが聞いた。

 『一翁会』

 『まあ、そうなるよな』溜め息混じりに言って、ジンは少し困ったふうに天井を仰いだ。『この貸しはデカいぞ。どんな見返りを要求されても返す覚悟はあんのか?』

 顔を天井に向けたまま、ジンまなざしだけをタクヤに戻す。タクヤは無言で、ゆっくりと頷きを返した。

 それを見届けたジンは立ち上がりながら、口許に薄く、苦味を携えた笑みを浮かべた。

 『皮肉だな。あの時お前が今みたいに、にちゃんと愛着を持ってくれてたら、色々違ってたのかもな』

 あの場所、がどんな場所かなんて、わたしは知らない。

 けど、あの場所、という言葉に、ふっと暖かな熱が籠った、そんな気がして、それが何故か、胸につっかえた。


 ―――まずは俺たちがタクヤに着いたことを知らしめる。まあ、宣戦布告ってヤツだ。

 そのジンの言葉に従って、わたしたちは堂々と正面から、歌舞伎町に戻った。揉めるのは必至だった。案の定、いきなりこれだ。

 「呼ぶ必要ないな。用があるなら俺が聞いとく。揉めるつもりなら容赦しない」

 不敵に笑みながらも冷静に淡々と、傲るような素振りもなく、次の瞬間に何が起きても対処できるように少し身構えて、リョウはジンの要求を突っぱねた。

 「随分と好戦的じゃねえか。いいね、そういうの。判りやすくて」

 ランが言いながらまたジンの前に出ようとするが、ジンは腕をすっとランの前に差し出して、それを制した。

 「俺らの要求はあんたなんかにどうこうできる話じゃない。いいから呼んでこいよ」

 「嫌だと言ったら?」

 「勝手に探す。どうせその先の広場にいるんだろう?」

 「ここを通さない、と言ったら?」

 折れないリョウに、ジンは苦笑と共に溜め息を漏らす。その刹那だった。

 ジンの姿が消えた。消えたように見えた。気づいたときには、リョウと鼻先がくっついてしまうほどの距離に、ジンは佇んでいた。物凄い速さで間合いを詰めた、ということに気がつくのに、数秒かかった。多分、リョウも同じだったんだろう。目の前で起こったことを理解できずに、固まっていた。

 「残念だけど、あんたが思ってるほど俺とあんたは対等じゃないんだ、いろんな意味で」

 その距離のままで、ジンが言う。リョウは身動きをとることができない。目を見開いて、固まって、言葉が継げない。多分、ジンの素早さに圧倒されただけじゃない。冷めて尖ったまなざしも、言葉の圧も、それら全部をひっくるめた、ジンが背負ってるオーラみたいなものを突きつけられて、リョウは居すくまっている。

 対等じゃない。いろんな意味で。

 その言葉がこの状況の全てを、物語っているように思えた。

 「何やってんだ、リョウ」

 不意にリョウの背後から飛んだ声に、リョウは呪縛から解き放たれたようにびくんと後ろへ飛び退き、そのままの勢いで慌てるように振り向いた。

 声のした方向から、いつのまにかわたしたちを取り囲むようにしてできていた人垣を割って、一人の男が歩み寄ってきた。

 その男の風貌の異質さに、わたしは思わず口の中にねっとりと溜まった唾を無意識に飲み込んだ。

 まず目についたのは、頭の後ろできっちりと束ねられた、ジンのそれとは対称的なだらりと垂れ下がった真っ黒な長髪と、160に届くくらいのわたしと比べても、さして変わらない男の小柄さだった。とは言えただ小さいだけなら、それほど圧倒されることもない。問題はギャップだ。その体躯に似合わず、男の着る黒いTシャツは、その下の隆々とした筋肉で今にもはち切れそうなほど、あちこちがでこぼこに張り詰めていた。

 「こーゆー往来であんま派手に揉めんなっつたろ」

 言って男はリュウの頭を小突く。ただ小突かれただけなのに、リュウは大袈裟に恐縮して見せた。大袈裟だったが、その気持ちも判る。判るくらい如実に、あからさまに、男の背負った雰囲気は“暴”の匂いを立ち昇らせていた。思わず、鳥肌が立つくらいに。

 男はそのままジンの前まで歩み寄ると、さっきのジンとリョウの間合いと同じ、鼻先が触れそうになるくらいまでのところで止まった。

 「兄ちゃん、今日のところは引いてくんないかな。こんな場所でここまで派手に立ち回られるとさ、ポリ来ちゃうのよ。ほら、俺、ヤクザだからさ、今のご時世、あんま目立てないじゃん? 頼むわ」

 その男の言葉の語尾に被せるように、少し遠くから、ピーっという甲高い音が鳴り響いた。警官の持つホイッスルの音だ。それを聞いて、男はほらね、と身ぶりだけで伝えると、行くぞ、とリョウの肩を強引に抱いて、人混みを掻き分けながら消えていった。

 あの男とは、関わっちゃいけない。

 わたしの本能が、わたしの耳のずっと奥の方で、わたしにそう訴えかけた。

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