第50話 恋の塗り絵
ただただ、口元に付いていたものを取っただけなのに。どうしてだろうか、一点に目が吸い寄せられる。
そして、その弧を描く唇を無意識に俺が見ていた時、対面から煽るような口笛が響いて我に返った。
「ヒューヒュー。真夏だっていうのにお熱いねぇ。羨ましいよ」
「ふふっ、そうかな?」
「あー羨ましい。私も一夏のアバンチュールを満喫したい!」
「なんか、その表現古くない?でも、ハル姉ってそう言ってるだけでぜんぜん彼氏とか作らないよね。モテるのに」
二人が会話をする間、頭を少し振って意識を戻していく。
ほんとに、どうしたんだろうか。もしかしたら、暑さにバテているのかもしれない。
「いやー欲しいとは思うんだけどさ~。なんか、これっていうやつが現れないんだよな」
「どんな人ならいいの?」
「なんか、面白いやつ?あとは、嘘言わないやつ」
「ふーん。かなり漠然としてるね」
どうやら、二人は恋バナをしているらしい。
入れそうな話題でもないので、コップに入った水を口に入れていると、氷はすっかり溶けてしまって少しぬるかった。
「あっ、誠とか面白そうでいいかも。意外性の塊だし」
「……え?俺ですか?」
関係ない話だと聞き流していたが、遥さんがこちらを向いていることに気づいて驚く。
「そうそう。どうだ、私と付き合ってみるか?ほれほれ、けっこーなナイスバディだろ?」
「はぁ、揶揄わないでくださいよ。それにちょっと暑いです」
彼女は急に立ち上がるとこちらに肩を組んできた。暑いうえに、だんだんと透の顔が怖くなってきているので引きはがそうとするが、なかなか離れてくれない。
どうせ、透で遊んでいるのだろうが、こちらにも被害がきそうなので勘弁して欲しいんだが。
「そんなつれないこと言うなよなー。あの情熱的な夜を思い出せ!」
「いやいや、会ったの今朝ですからね。嘘吐くの下手くそですか。というか、そろそろやばいですって」
「あははははっ。大丈夫だって…………私は」
その不吉な言葉に何か言い返してやろうとした瞬間、あっという間に遥さんが俺の傍から離れていく。だが、嵌められたと思った時にはどうやら遅かったらしい。
「誠君!!!!」
透が今まで聞いたことが無いような大きな声を出して俺の手を掴むと、痛いくらいの勢いで店の外へと連行していった。
「ちゃんと端まで堪能してこいよ~」
謎の煽りと共ににやけ面で手を振っている遥さんが妬ましい。俺は、されるがままに連れていかれながら、この後が大変そうだと天を仰いだ。
◆◆◆◆◆
どこへ行くのか、透は無言で俺の手を引き続け、浜辺の端、その岩場の奥にある薄暗い洞窟のようなところに入っていく。
「そろそろ機嫌直してくれないか?」
その言葉に、やはり彼女は無言で応えてきて、そのどうしようもない雰囲気に俺は何度目かになるため息を吐いた。
だが、本当にここはどこなのだろうか。上からは薄っすらと光が射しているが、周囲に人の気配は一切無い。
それに、途中にフェンスがあったのだが、何故か鍵はかかっていなかったようで、俺達はそこを素通りしてしまっていた。
「透、さすがに戻ろう」
そして、俺がそろそろ彼女を引き留めるため力を入れようとした時、視界の先から強い光がこちらに差し込んできた。
「ここ、座って」
突然の光量の変化に目を眩ませる俺の横では、ここを知っているのか彼女が慣れた様子で腰を下ろしていた。
周りを見渡すと、先ほどまでの岩場とは違い、ここだけくりぬかれたように砂浜が広がっている。
「早く」
再び強い力で下から引かれ、仕方なしに座ると透がこちらの手に抱き着くようにしがみついてくる。
遥さんの時はまるで気にならなかったその女性特有の柔らかさは、何故か今はこれ以上無いほどに俺の心を揺さぶっていた。
「離れてくれないか?ちょっと、困る」
「やだ。ハル姉とはこうしてたもん」
なんだか落ち着かず、体を離そうとするが、そうすればするほど、透の体重がこちらにかけられてしまい諦める。
「ここは?」
「村所有の祠があるんだ。ほら、あれ」
「祠?」
言われてそちらを見ると、確かに小さな祠がちょこんと岩の上に鎮座していた。
恐らく、教えられなければ見落としていただろう。
「なるほど、あれか。フェンスもその関係?」
「うん。普段は閉まってるんだけど、ハル姉が端までって言ってたから」
「あー、あれはそういう意味だったのか」
「たぶん、私が人混み苦手でよくここに逃げ込んでたから開けといてくれたんだと思う」
あの人はなんだかんだ色々と考えてたらしい。
そういうところはやっぱり大人なんだなぁと改めて感心する。
「なんか、いいなここ」
「えへへ。でしょ?昔からお気に入りの場所なんだ」
目を瞑って耳を澄ますと、岩の切れ目から静かな波の音が聞こえてくる。
それに、時折吹く強めの風が、潮の香りをここまで運んできてくれていた。
「なんか、ここだけ違う世界みたいだ」
「うん」
バカな考えだが、俺達二人だけがこの世界に取り残されてしまったようにすら感じる。
そして、そのまましばらく黙って海を見つめていた時、砂を手で弄っていた透が、不意に問いかけてきた。
「ねぇ、誠君は私のこと、好き?」
その突然の質問にまた何かいたずらを思いついたのかと身構えるが、彼女の手は微かに震えていて、それが真剣な質問であることに気づかされた。
「…………ああ」
一瞬の沈黙が、永遠にも感じられるような中、何とか返事をしようと声を出す。
「人としてじゃないよ?女の子として好き?」
しかし、彼女はさらに奥へ踏み込み、今まで二人が触れてこなかったその境界線へと手を伸ばしてきたようだ。
大事なものを失うかもしれないという得も言えない恐怖が心に渦巻き、緊張で口が急速に乾いていく。
向き合わずに逃げることは楽だろう。でも自分は、何かを言わなければいけない。彼女の真心に応えるためにも。
そして、俺は大きな音を立ててつばを飲み込んだ後、かすれる声で言葉を絞り出していった。
「……………………それは、ごめん、わからない」
アホみたいな回答に、自分で自分を殴りつけたくなる。
だけど、これが俺の正真正銘、心からの答えなのだから仕方が無いのだろう。
当然、透のことは好きだ。だけど、それが異性としてかと聞かれると正直よくわからない。
恐らく、これまで好きというものを区別したことが無かったからだろう。
大事な人は、大事な人。それに優劣なんてつけてこなかったから。
「透のことは、もちろん、好きだ。一緒にいると楽しいし、すごい落ち着く。それに、優しいとこ、律義なとこ、子供っぽいとこ、泣き虫なとこ。毎日、いろんな透を知る度にどんどんその想いは強くなってる」
「うん」
「だけど、これが異性として好きってことなのか、俺にはよくわからないんだ。それこそ、家族にも同じことを思ったりもするから」
「うん」
透はずっと下を見たまま、こちらを一切見ようとしなかった。
もしかしたら、面倒くさい俺に愛想をつかしてしまったのかもしれない。
でも、それでも俺は透に嘘をつきたくなかった。誤魔化したくなかった。
たとえ、今心を覗かれていないのだとしても、決して。
「ほんと、ごめん。それでも、俺は……………………」
「ううん、いいの。それで、いいの」
何も言えず、言葉を詰まらせる俺に、透は優しく抱き着いてきた。
お互いの体温が肌を伝わって流れ込み、滲んだ汗が混じり合う。
そして、潮の香りが吹き飛んでしまうような甘い香りが、肺を満たしていく。
「誠君は、私の答えを、私の想いを、いつも待ってくれたから。だから、今度は私が待つよ」
高鳴る鼓動に周りから一切の音が消えていく。
ただ彼女だけが視界に入る中、まるで、世界には俺たち二人だけのような、そんな気さえした。
「でも、覚悟しててね?私は、もう自分の答えを見つけてて、それを隠すつもりもないから」
耳元で囁くように伝えられるその言葉が頭の中で反響し、脳に深く刻み込まれていく。
「ううん。むしろ、どんどん伝えて誠君の心を塗りつぶしていこうかな」
まるで、小悪魔のような笑みを浮かべた彼女の顔が俺の目の前に迫る。
吐息が届くほどの距離に、唇が触れ合いそうなほど近くに。
「それで、最後には、私が欲しいって言わせてみせるよ。きっとね」
そう言って、彼女は全てを虜にするような、俺の頭の中を真っ白に染め上げてしまうような、そんな笑顔で楽しそうに笑った。
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