第31話

 俺は急いで階段を駆け上がった。悠長にしていては手遅れになるかもしれない。

 普段なら絶対にしないことだが、俺は姉の部屋の扉をバンッと勢いよく開け放った。


 しかし、時すでに遅く……なんてこともなく、姉は天井を仰ぐ姿勢でくつろいでいた。

 戻ってきた俺に気がつくと、姉は俺の全身を舐め回すように観察した。


隼人はやと、すごく疲れているみたい」


 姉は「期待していなかったから、べつに気にしなくてもいいわ」と言っているような、そんな静かな口調で観察の結果を述べた。


「大物と戦っていたからね」


 そんな姉に、俺は笑顔に乗せて成果を見せつける。


「それ、どうしたの?」


 姉の視線が釘付けになった。

 手錠の鍵がカーテン越しの陽光をキラキラと反射して輝いている。


「トイレで拾った!」


 俺は姉の背後に回り、手錠の鍵穴に鍵を差し込んで回す。少し回すと、手錠はカチリとも言わず無言で姉の手首を解放した。左手と右手、それぞれの錠を解除し、その冷徹な金属から完全に姉を解き放った。


「これ、固い……」


 姉は前傾して足の拘束を解こうとロープに手をかけていた。しかし三本の黄色いひもを編みこんで作られたロープは固く結ばれていて、指の入る隙間などない。解こうにもビクともしない。

 姉は焦っている様子だ。ついに一時欲求が姉をむしばみはじめたのかもしれない。


「ちょっとハサミを取ってくる」


 俺は自分の部屋へ駆け込み、机の引き出しを荒々しく開け放つと、ハサミをつかんで再び姉の元へと走った。


 しかし、今度こそ本当に手遅れだった……などということもなく、姉は腕組みして待ち構えていた。

 俺が屈んでロープを手にかけようとすると、突然肩を突き飛ばされた。


「顔が近い! 自分で切るわよ」


 苛立いらだちと焦りが姉の腕をふるわせていた。

 俺がハサミを渡すと、ロープと足首の隙間に刃をスルリと滑り込ませ、シャキシャキやったりジョリジョリやったりで、手際よく頑丈なロープを切断した。


 右足の自由が戻り、全身の自由が利くようになると姉は立ち上がった。それからハサミを床に捨て、椅子いすの脚に手をかけた。

 自分の足に巻きついたもう片方のロープの位置を、椅子の脚の下端の方へじわじわとずらしていく。

 そうして椅子を体の一部から除去した後、アンクレットみたく足首にひっ下がったロープを、かかとを通して完全に足から取り外した。


 姉は完全に解き放たれた。


「限界は近かったけれど、まだ限界ではないわ」


 姉が封印から解放された怪物みたいなオーラをまとう。

 俺は姉の鋭い視線とかち合わぬよう姉に背を向けた。

 俺の背後で服の擦れる音がする。姉がベッドに寝かせた服を着ているのだ。

 衣擦きぬずれの音が消え、代わりに姉が俺に近づく一歩いっぽの床のきしみが伝わってくる。


 しまった。自信を取り戻した姉の存在感、重圧、そういったものに圧倒され、姉の部屋から出ていくのを忘れていた。

 姉が俺の背後まで来て止まった。お仕置きだろうか。


「隼人……」


 姉の白い腕が両サイドから俺の首に巻きつく。


 落とされる!


 そう思ったが、違った。

 背中に体温を感じる。

 意外なことに、姉が俺をハグしていた。


「お姉ちゃん?」


 そう呼びかけ、振り向こうとした瞬間、ガクッと俺の膝が崩れた。いわゆる膝カックンである。

 膝を前に押し出されて腰が落ちた俺の肩を、俺の首に巻きつく腕のひじ部分で一気に押し下げる。俺は姉を背にしたままひざまづかされた。

 そして首に手刀をあてがわれ、額を後ろにクイッと引かれて姉を見上げる体勢にもっていかれる。

 しかし姉の顔は見えない。首にあてがわれていたはずの手が俺の視界に降りてきて、目の前を完全におおっていた。


 立った状態からその姿勢に至るまでは一瞬だった。ものの二、三秒のうちに、使い古された人形みたく手際よく操られ、敵陣で取り囲まれた降伏兵士みたいな、処刑を待つ旧世ヨーロッパの罪人みたいな、そんな格好を俺はいられていた。


 やっぱりお仕置きか……。

 さて、どんなお仕置きが飛び出すのやら。


 真っ暗闇の中、あきらめの境地でそんなことを考えていたら、一瞬だけひたいに柔らかい感触が乗った。

 湿っぽくて、温かくて、優しい何かが、俺の額に姉の気持ちを置いていった。


「ありがとね」


 目蓋まぶたに乗った柔らかい感触が取り除かれ、返還された光の中に姉の顔を見る。

 姉の天気は優しい笑顔だった。

 それは怖くない、俺の好きな笑顔。


 俺は背中を押され、部屋から追い出された。

 姉も一緒に部屋を出て、そのままトイレへと向かった。


 俺はその場に立ち尽くした。


 ついさっき実行された姉のお仕置きがいまだに理解できないでいた。


 ほうけたまま自分の部屋に戻り、ベッドに座り、そうして自分の未来を予想する。

 いまのお仕置きが実はお仕置きではないと理解したときに、俺はきっと枕に顔を擦りつけながらもだえるのだろう。

 布団を抱きしめて転がり回るのだろう。

 額と首と背中に残った姉の体温の記憶とともに。

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