第29話

「隼人、ご飯よー」


「はーい」


 母の細いながら張った声に召喚され、俺はダイニングへと下りた。


 今日の朝食は和洋折衷わようせっちゅう

 ベーコンを敷いた目玉焼きにトースト、それからトマトサラダ。トーストはオプションでバターと苺ジャムとマーマレードが添えられており、セルフサービスで味付けすることができる。

 ドリンクもセルフサービスで、牛乳と麦茶から選べる。


 我が家は可能な限り、家族全員がそろってから食事をとることになっている。

 それは父が決めた方針である。

 これはあくまで可能な限りであって、ちょっとした理由で先に済ませてもおしかりを受けることはない。

 同時に開始しても、食事が終わったらいち早く退散することも容認されている。

 父は家族内ルールを多く作っているが、どれも融通を利かせた緩い決まりばかりである。


「そろったな。食事を始める前に言っておくことがある」


 父のもたらす食前の知らせは、決まって朗報ばかりである。

 そうでない報告は食後になされるのが常で、どんなときでも食事はおいしいに越したことはないという父の寛厚かんこうな精神からくる習慣である。


 しかし例外もある。飛報ひほうでなければ、食前の悪報は目的があってのことだ。


「金が盗まれた。7万円」


 何から手をつけようかと食事に落とされていた視線が、いっせいに父へと集められる。

 父だけが視線を落としたままだが、目で献立を物色しているわけではなく、その鈍い光は父の心中がいかなるものかを俺たちに告げているようで、悲嘆ひたんではなく憤怒ふんぬを知らせていた。


「まあ! 泥棒⁉」


「そうだ。泥棒だ。置き忘れや紛失ではない、確かなる窃盗被害だ」


「それじゃあ警察を呼ばなきゃ……」


「いや、その必要はない。続きは食後に話す。いただきます」


 母は戸惑ったまま父を見つめているが、父はためらう様子もなくはしに手をつけた。

 姉は父に続いて箸に手をつけた。最後に母の方を見ると、母と視線が合った。


「食べましょうか……」


 母もなかなかたくましい精神を持っていると思う。

 俺は苺ジャムと小スプーンを取った。


 普段の食事は会話がはずむ。

 特に母が誰かしらに問いかけ、二者、三者、四者と会話が広がっていく。

 会話の参加頻度は姉、俺、父の順に多く、母が常に中心である。

 だから母が何も持ちかけなければ、食事は沈黙の中で淡々と済まされることが多い。


 当然ながら、今回の食事では終始、誰も口を利かなかった。


 母は分からないが、俺と、おそらく姉も、父がなぜ悪報をわざわざ食前にもたらしたのか、その理由に心当たりがあった。


「全員食べ終えたな。華絵かえ、今日は珍しくマーマレードを使わなかったな。食べるのも遅かった」


「うん……」


 姉は大きな瞳で父の顔を一瞥いちべつした。いや、視線は父の首元あたりまでしか上がらなかった。


「さっき俺が警察に通報する必要はないと……」


「待って!」


 父が始めた直後、母が勢いよくそれをさえぎった。

 びっくりして全員の視線が母に集まるが、母は立ち上がり、真剣な表情でそれを言った。


「先に食器を片付けるわ。水に浸けておかないと洗うのが大変になるの」


「……分かった」


 父の真剣な話を遮ることは、俺や姉にとってはおそれ多いことだ。へたをしたら不誠実だとお仕置きされかねない。

 しかし家事に関することでは、その父ですら母に口出しできない。

 家事全般を母に任せている身であり、さんざん人に誠実であれと説いている父が、もし母の家事に文句を垂れようものなら、穏和で柔和な母がヒステリック狂人へと変貌へんぼうしてしまう。

 父がどんなに理屈をかざしても、その言葉自体が母の耳には入らなくなるのだ。


 家事は母。それ以外は父。《それ以外》の中には教育も家計管理も含まれるが、それは分担というよりテリトリーであり、互いにその方針に口を出すのは御法度ごはっととなっている。


 母が戻ってきて、ようやく父の話が再開された。


「さっき俺が警察に通報する必要はないと言ったのは、犯人に目星がついているからだ。犯人はこの中にいる」


 俺にも心当たりがある。

 突然用意された11万円。その中の7万円がきっとそれなのだ。姉が俺のために拝借はいしゃくしたに相違ない。さすがに7万円という大金を、俺を罠にハメるために利用したということはないだろう。不誠実をひどく嫌う父が相手では、さすがの姉でも無謀すぎる。それにもし俺をハメるための罠だったとしても、こう事態が重くなるまでひっぱるわけがない。


「華絵、お金を返しなさい。理由を述べて一言びれば、いまなら許してやる」


 姉に落とす父の顔は無表情だった。ほおも口元も平常状態である。

 ただ視線だけが鬼のようで、後ろめたさがある状況でそんな目を向けられたら、俺なら失神してしまいかねない。


「なんでいきなり私だと決めつけるの? 不誠実だわ」


 お姉ちゃん、果敢かかんすぎる……。父に対して《不誠実》を持ち出して敗北すれば、お仕置きは確定的だ。よほど自信があるのだろうか。


「根拠を所望しょもうか? よかろう。まず盗難のあった状況について説明しよう。金の保管場所だが、普段は俺の書斎の金庫にしまってあるが、今日は予算計画の見直しのために一時的にリビングの電話下のラックに移動させていた。その金を盗むにはリビングに侵入する必要がある。そして、俺が金額を確認してから盗難に気がつくまではほんの数分しかなかった。この事実を前提として、まずは内部犯である根拠を述べよう。金の紛失に気づいた俺が最初にしたことは、玄関、ベランダ、窓の鍵を確認することだった。一階はすべて閉まっていた。二階は確認していないが、休日の朝からそんなリスキーな侵入経路を選ぶ輩はまずいないだろう。いたとしても、あの時間はキッチンで母さんが料理をしていた。リビングに対してオープンに隣接するキッチンでな。ゆえに、外部の犯行ということはまずない。次に犯人の特定だが、内部の犯行と分かれば犯人を特定するのはたやすい。俺が席を外したあの数分、隼人はシャワーを浴びていた。ゆえに隼人ではない。母さんでないという根拠については実は少し弱いのだが、母さんは金を盗んでシラを切りとおせるほど神経が太くない。逆に神経の太い華絵が食事でイレギュラーを見せた。食前に金の盗難を耳に入れておいたのは、それがないか探すためだ。華絵、おまえは気落ちしているときに好物のマーマレードを避ける傾向にある。意図しているかは知らんが、おいしいものはストレスのない状況で食べたいからだろう。そして会話がない状況ではいつも母さんが最後に食べおわるが、それより遅いということは、何か重大な考え事をしていたか、あるいは大きなストレスを抱えていたかだ」


 父はそこまで言い終えると、母が気を利かせて残しておいたグラスに、麦茶を注いで口に流し込んだ。


「隼人はともかく、お母さんか私かの根拠は納得できるものではないわ。私は証拠を所望します」


「よかろう。証拠を所望するからには、これからおこなうおまえの部屋の家宅捜索を容認してもらうぞ」


「それは駄目!」


「なぜ?」


「プライバシー保護の観点から。散らかっていて恥ずかしいもの」


「却下。おまえは席を立たずに待っていろ」


 父が立ち上がる。


 姉が父の腕を掴む。


「あいたたた! 折れる、折れるっ! やめて、お父さん!」


「いいや、限界はもっと先のはずだ」


「いたたたたっ、本当に痛い! ごめんなさいっ!」


 姉は返り討ちに合った。姉は目に涙を浮かべて父の足元でひざまづいていた。

 一般家庭において、姉が弟をプロレス技の練習台にするというのはよくある話らしい。うちでもそうだったが、姉が俺に試すのは、父から教わった合気道や柔術などである。姉は強いが、師にはとうてい及ばない。


 姉は席には戻らず、膝をついてうつむいた姿のまま動かなかった。


 お金はいま俺の部屋にあるはずだ。まだ小卓に置いたままだ。

 姉の部屋には何もないはずなのだ。姉は何を恐れているのだろう。

 もしかして父が俺の部屋も調べることを想定して、姉は自分の部屋が調べられて困るという演技をしたのだろうか。

 あるいは、お金のほかに父に見られてはいけないものがあるのだろうか。

 なんにせよ、悪あがきは無駄だ。相手はそれが本職なのだから。


「華絵ちゃん、椅子いすに座ったら?」


 母が姉に優しく声をかける。

 姉はうつむいたまま、黙って首を振った。

 スポーツ選手がとても大事な試合で敗北したような、そんな姉の姿は見るにえない。


 父はほんの十数分で戻ってきた。

 父が持ち帰った品は二点。そのうち一点は俺の部屋にあった茶封筒。もう一点はビデオカメラだ。

 父がテーブルに置いてそれを再生、解説する。


「この動画の日時は今日の早朝。俺が予算見直しを終え、金をいったんラックにしまっている様子が映されている。そして、俺が居間を出た後に華絵がビデオに接近し、手を伸ばし、スイッチが切られた。つまり、このビデオは華絵のもので、この時間に回収したということだ。遠隔出力で俺が席を外すタイミングを見計らっていたのだろう。金の一時保管場所を知ることができるのは、ビデオの持ち主である華絵だけであり、自分の犯行を映さないようビデオを回収したとも考えられる。俺は居間から出てくる華絵とすれ違っており、華絵以外に犯人がいるとしたら華絵が見ているはずなのだ。華絵、誰か見たか? まさか犯行を母さんになすりつけたりはしまいな」


 父が母にもたずねたら、母は料理に集中していてリビングの様子は見ていないと言った。


 姉は立ち上がった。

 黙って椅子に座って、ひと呼吸いれてから重い口を開いた。


「ごめんなさい。でも、7万円は私の学費の予算内よ。私は私の進学費から借りたんだよ。あとでちゃんと返すつもりだったもん」


「おまえの進学費ではない。おまえの学費に使う予定の、家族全員の貯蓄だ。あくまで予定であって、緊急時にはそちらに優先して使う。おまえが金を勝手に持ち出したことで緊急時に金が使えなかったらどうする?」


「緊急時って何?」


「例えば、おまえや隼人が自転車で高齢者や小さい子供をいてしまった場合の賠償金、とかな」


「…………」


 長い沈黙の後、姉が口を開こうとしたが、父が先回りをして釘を刺す。


「例えの話だ。イレギュラーな事態はいつも想定の外からやってくる。家族の誰かが怪我や病気で倒れた際の入院費などは、もっと発生可能性が高かろう」


「…………」


「今日の夕食後」


 父が姉に《お仕置き》を宣告し、封筒から抜き出した4万円を姉の前に叩きつけてダイニングを出ていった。

 その後、母は無言のまま台所で食器を洗いはじめた。


 残された姉と俺は、しばらくの間は口もきけず、立ち上がることもできなかった。

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