第24話

 休日、ちょっと疲れ気味でどうしても姉の相手をしたくないとき。

 ちょうど昨日なんかがそうだったか、そんなときはこうする。


 とりあえず朝寝して、それから昼寝して、そんでもって夕寝して、そしてふて寝する。

 姉がしつこい日なんかは特に、そうでもしなければ泣き寝入りするしかなくなる。

 朝寝、昼寝あっての夕寝ともなれば、もはや寝られるわけもなく、単なる狸寝入り、苦痛でしかなくなっている。

 最後のふて寝は、休日を丸一日無駄にしたという嫌悪感からくる欲求にもとづいており、俺が人としていちばん正常でいる時間だと思う。


 今日は日曜日。

 トシからの連絡をすべて無視し、姉からの逃避のために貴重な休日を完全に潰した翌日である。


 森野との交流が始まってから一週間弱が経っているが、よくよく聞いてみると、森野はかなりすごい奴だった。


 マッスル森野というあだ名がつけられないほうがおかしい筋肉を誇っているくせに、学内一の学力の持ち主で、部活動では陸上、砲丸投げのインターミドル選手らしい。

 先生たちの信頼も厚く、次期生徒会長の最有力候補だとか。

 あと、性格も性癖以外はなかなかに優良のようだ。好奇心旺盛で努力家。

 キュンとはこないが、意外な一面もあった。バリバリの体育会系のくせに、将来の夢はゲームプランナー。ボディービルダーではなかった。

 彼のことを最高の言葉でめるのであれば、多才、というところだろうか。多芸は無芸というが、彼は多芸ではなく多才なのである。


「森野君との休戦協定は金曜日までだから、今日は僕が隼人君を独占させてもらうよ」


「おまえなんかに独占されてたまるか!」


 いや、独占されたほうが多少はマシだったか? いま、俺とトシは俺の部屋にいるが、この部屋には三人いる。

 もう一人は当然、姉である。

 今日は姉から外出許可が出なかった。昨日、完全に姉を遮断していたせいで、その反動が今日出てきたというわけだ。

 姉は怒ってはいなかったが、いつもより上機嫌で怖い。


 今日の姉は珍しく髪をまとめていた。後頭部で団子を作り、めったに見せないうなじを惜しげもなく披露ひろうしている。

 上は白ブラウス、下は黒のジーンズ。姉はブラウスが好きで、白いものだけでも四、五着は持っているようだが、今日のはかつて姉が榊原さかきばら先生にふんした際に着用していたものだった。

 今日の姉の全体的な印象としては、おとなしく、大人っぽい。


 一方のトシは悪目立ちするほど派手だった。

 まず生地きじが不明な長ズボン。そのズボンが派手で、蛍光色の一歩手前なストロングピンクだった。

 そのピンクの上方にあるのが真っ青なTシャツ。快晴の空と深海の色を混ぜ合わせてマダラになったような青が、茶色の革ベルトで縛ったピンク生地の内側に入り込んでいる。「シャツ、出したほうがいいんじゃない?」と、いちおうは提言しておいたが、「これがいまのトレンドなんだ」と突っぱねられた。


「そうね。隼人はやとを独占していいのは私だけよ」


「コフッ、コフッ、コホッ」


 出た! せき

 姉に対してまだ出すか、その諸刃もろはの剣を。


 でも、今回はちょっとソフトだ。

 りたのか? だったら咳はこらえるべきだ。


 そうは言っても、トシの咳は任意のものではない、と思う。

 わざと出す咳を本物の咳と見分けるのは難しいが、明らかに本物の咳だと分かる咳はある。

 トシの咳は後者で、のどで発生しているのではなく、腹の底から咳気せきけが沸き上がっていることが、彼の咳を見聞きすれば分かる。

 彼は本当に苦しそうに、喉を痛めかねないような咳をする。早く止めないと次には血を吐きそうだ、とさえ思わされる。


 ただ、その咳気は多少なりとも操ることができるのではないか、と俺は考えている。


「出たわね? 咳!」


 姉が右手の拳を握り、脇をしぼり、弓を引き絞るように拳を腰の辺りまで引いた。


 おっと、それが幻覚だとしても俺には見える。周囲の得体の知れない何かが姉の拳にジャイロ回転をていしながらまとわりつき、成長していく様を。


「ま、待った! やめてください、お姉さん! 僕、肺だけじゃなく身体全体が弱いんです。そんなのを受けたら死んじゃいます!」


「大丈夫だと思うわ。試してみましょう」


 姉がニッと笑う。


「助けて、隼人君!」


「うわぁっ」


 俺の腕がトシにグイッと引かれ、俺は正座するトシの膝の上にうつ伏せに横たわった。

 こいつ、この野郎……。

 しかし、トシの腹はがら空きである。


 でも、仕方ないか。助けてやろう。

 姉の拳は本当に凶器だ。特にこのジャイロパンチは俺の意識を一日分吹き飛ばす威力なのだ。トシに堪えられるはずがない。

 彼の表情は見ずとも分かる。悪魔に理不尽な契約を結ばされ絶望した人の顔をしているに決まっている。


 俺は体を横向きに立てて、トシの腹に俺の背中を密着させた。

 腹に最大限の力を込めて、姉の拳を受ける覚悟をした。


 でも、いちおう言う。


「やめてよ、お姉ちゃん!」


「駄目!」


 ドスッ!


 うっ、意識が、飛びそう……。

 視界が、かすむ……。


「う、うぅ……」


 ……耐えきった。


「ごめん、隼人君、ごめんよぉ。僕、強くなるよ。隼人君のために」


 女の子みたいに前髪を黒いピンで留めているトシは、涙をにじませながらも強い眼差しを俺に落としている。

 その向上心は上等だが、おまえが強くなるのはおまえ自身のためだ。

 俺のためだと言っているのは、俺が常におまえをかばう前提での話だろうが。


「お姉ちゃん、咳はトシがしていたのに、なんで俺を殴るの?」


「でも、咳は止まったでしょ?」


「あ、本当だ……」


 なんでだよ、トシ、この野郎……。


 おかしな話だが、結果的には姉はトシの咳を殺した。

 いや、彼女は意図して咳を殺してみせたのかもしれない。


 トシはストレスを感じると咳が出るが、咳の出るストレスよりも過度のストレスをかけることで極度の緊張状態へと追い込み、咳なんかしている場合ではない、とトシの体に思わせて、姉はトシの咳を殺したのだと思われる。

 さらには、俺がかばってくれたという幸福感を得させることで、姉はトシからストレスを取り除いた。


 なーんて、俺の推測にはなんの妥当性だとうせいもない。

 あるのは、姉がトシの咳を止めたという成果だけである。


「で、嘉男としお君、今日は何をしに来たの?」


 俺はまだトシの膝の上にうつ伏せに横たわったままである。

 しばらくは起き上がれそうにない。腹が痛い。ジンジンする。

 しかも野郎の膝の上にいるなんて、屈辱的で、情けなくて、胸が痛い。

 トシが俺の背中に手を置いた。膝の上に手を置くみたいに。頭が痛い。


「はい。お姉さんにお願いがあって来ました」


 当初、俺はトシに呼び出されてトシの家に行く予定だった。しかし、そこを姉に止められた。

 トシに事情を説明すると、トシは「だったら僕が隼人君の家に行く」と言ったのだ。

 だから、トシは俺に会うために家に来たのであって、家に遊びに来たかったわけではない。

 俺はトシに姉が同席する可能性を念押ししたが、「だったらそれを前提としたプランに変更する」などと言いだした。


 トシはあの自作官能小説、『セックスゾンビ』を俺の姉にも試読、採点してもらうつもりなのだ。

 トシも俺の姉のうわさは学校で聞き及んでいる。

 俺の姉に推敲点すいこうてんを指摘してもらえば、文法や語法による落選はなくなるだろう、とトシは目論もくろんんでいた。

 しかし、ジャンルがジャンルなだけに、あんなものを姉に読ませるなど、怖いもの知らずにも程がある。


「やめとけ、トシ……」


 トシの無謀な挑戦を止めようと、苦しいながらに声を絞り出す。

 トシが染紅しぐれ家に来て何をしたいのか、姉は端整な微笑でトシの返答を待った。


「お姉さん、どうか隼人君を僕にください」


 なんでだぁあああああ!

 そうじゃねーだろ。

 おまえ、何しに来たんだよ!


 トシは頭を床に擦りつけている。

 普通、土下座でもそこまではしない。ひたいが赤くなるくらいに叩きつけ、こすりつけている。

 トシ、おまえの膝と腹に挟まれた俺が苦しいということに早く気づいてくれ。いまの俺は重傷患者なんだぞ。


「駄目。その代わり、これをあげるわ」


 姉がトシに差し出したのはプリンだった。

 コトッという音を立て、テーブルに置かれる。


「あ、お姉ちゃん、これって……」


「うん、いいのよ」


 姉はニッコリ笑った。おもてなしの笑顔、営業スマイルというやつだ。

 誕生日でサプライズプレゼントをするかのように、そのおもてなしの品をわざわざ隠し持っていた。

 きっと、この後にもっと最凶素敵なサプライズのおもてなしが待っている。


「あら、嫌いだった?」


「いいえ、好き、ですけど……」


「じゃあ、おあがりなさい。よもや私のもてなしが受けられないなんてことないわよね?」


 トシは弱い立場にある。

 トシにとって俺の姉は、いわゆる小姑こじゅうとに相当するのだ。

 実際にはそんなことはないというか、俺がそんな関係を認めないが。


「いえ、いただきます……」


 俺はようやく起き上がることができるようになり、トシの膝との密着から解放された。


 プリンは一つしかない。トシは俺と姉に見守られながら、気まずそうにプリンを平らげた。

 下剤でも入っているのではないかと思ったが、トシに異変は見られなかった。

 カップは未開封だったし、さすがに姉を疑いすぎたか?

 俺は姉を怖れすぎているのかもしれない。

 何でも意地悪に結びつけてごめんね、お姉ちゃん。


 あ、姉が何か取り出した。


「お姉ちゃん、それ何?」


「書類よ」


 姉が書類と呼んだA4サイズの紙には、ワープロの字でこんなことがしたためられていた。




 隼人君のお母さんへ。


 隼人君のクラスメイトの谷良内やらうちと申します。

 隼人君のお母さんが大切に取っておいたプリンとは知らず、隼人君に差し出されるままにそれを食べてしまいました。すみませんでした。


 谷良内 




 俺がそれを読み終えた直後、姉は最後の谷良内の部分に上から谷良内の名前を捺印なついんした。


「え、お姉さん、なんで僕の印鑑を?」


 そう、それ! なんで姉が谷良内の印鑑を持っているんだ⁉

 その疑問のせいで薄れてしまうが、なんでこんな書類を準備していたんだ?

 こんな書類を作るくらいだから、姉はあれがどういうプリンか知っていたのだ。

 俺のゴメンを、のしをつけて返せ!


 異議を申し立てる人の顔をしているトシが姉をじっと見つめると、姉はこう言った。


「安心して。シャチハタだから」


 俺もトシも開いた口がふさがらなくなった。


 いまの言葉、プロバブリー、姉の本質が表れた姉語録・トップスリーに入る。


 そして、俺は目撃してしまった。

 姉が印鑑を矩形くけいケースにしまうとき、そのケースには彩芽と吉村の名が刻まれた印鑑まで入っているところを。


 そのとき、玄関の開閉する音が響いた。

 そして階下から、高い声がどこにいるかも分からない俺たちに話しかけてくる。


「ただいまー。お客さん来てるのー?」


「あーぁ」


 頓狂とんきょうな小さい悲鳴をあげて、トシが仰向けに倒れた。背後のベッドがトシの体を受けとめ、小さく揺れた。


「お姉ちゃん、トシ、気を失っちゃったよ」


「あら、やりすぎたかしら」


「うん。意地悪にしてはやりすぎだよ」


「何を言っているの? 私はおもてなしをやりすぎたと言っているのよ」


 あれがおもてなしだとしたら、やりすぎとか、そういう問題じゃない。根本的に方法を間違えている。

 姉の顔は、俺がやぶから棒を突き出すような発言をしている、と言っている。

 いまのお仕置きじみた行為を、素でおもてなしだと思っているのだろうか。


 いんやぁー、違うと思うけどなぁ。


 お姉ちゃん、絶対に意図的な悪意を出していたと思うけどなぁ。


「仕方ないわね。こういうのは本人が直接渡すのが礼儀というものだけれど、意識がない人は動けないものね。じゃあ隼人、これをお母さんに渡してきてちょうだい」


 俺が手渡されたのは、さっきシャチハタで攻撃力を増した偽造書類である。


 なぜ俺? そうか、そういうことなのか、お姉ちゃん。


 トシにとって最悪なパターンは、姉の手から「これ、預かったんだけど」と母に書類が渡るケースだ。


 トシにとってもっとも幸いなパターンは、俺が姉に隠れてこの書類を破棄するケースだ。


 姉はすべてを見越して俺に書類をたくしたのだ。

 もしも、俺がトシなんかどうでもいいからと書類を母に手渡せば、母はその書類の存在に苦笑しつつも、トシのことをとがめたりはしないだろう。

 だが、トシ自身は負い目に追いまわされ、引け目にひっかきまわされ、そうしていずれ精神が瓦解がかいする、かもしれない。

 だから俺は間違いなく書類を破棄するし、姉もそれを見越している。

 姉はあとで書類を渡したか俺にくだろう。

 裏を取っておきながらわざと訊くので、姉に嘘は通用しない。

 正直に白状すればお仕置きが待っているし、嘘をつけばお仕置きが倍になる。


「トシ、この野郎……」


 小声でつぶやく俺。

 しかし、べつにトシが悪いわけではないことは俺も承知している。

 すべては姉が仕組んだこと。


 だから嫌なんだ、姉が上機嫌な日は。

 姉の企図きとの手が込むから。


「あら、これ何かしら?」


 姉がトシのかばんから分厚い紙のたばをひっぱりだした。


「あ、それは……」


 姉は止まらない。

 表紙の『セックスゾンビ』というタイトルで踏みとどまらず、音を立てて一枚目をめくった。


 あーあ、……もう知らん!


「俺はこの書類を渡してくるね」


 俺は部屋を出た後、玄関を飛び出し、隣町のコンビニまで走っていって書類を捨てた。

 そして、陽が暮れるまでそのコンビニで雑誌の立ち読みをすることにした。

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