第10話 その名はヤセルンブラック!
なんとそこに現れたのはシャラン・ランのメンバーの1人、蜜柑くんだった。
突如現れた推しの存在に、驚きと感動で鼓動が早くなり頬が紅潮する桃凜。
あの、蜜柑くんが、すぐそばにいる!
しかし、そんな場合ではないとぶんぶんと頭を振り、なんとか冷静さを取り戻そうとする。
ああ、こんな状況でなければこの場にいる全員がとっても嬉しいはずなのに。
皆蜜柑くんには目もくれず、アメリカンドッグを貪り続けている。
蜜柑くんはそんなファン達の様子に胸が張り裂けそうになる。皆がどれだけ、本日のLIVEを楽しみにしていたか。
必ず、LIVEには間に合わせる!
公園奥のアメリカンドッグの屋台を睨みつけ、蜜柑くんは桃凜にも見覚えのあるシェイカーを取り出した。
桃凜がまさか、と思うよりも早く、蜜柑くんはそれを頭上に掲げよく通る声で叫んだ。
「プロテインチェンジ!」
蜜柑くんはシェイカーを激しく振り、全身が白い光に包まれる。
シャカシャカシャカシャカ。
激しくプロテインが混ざり合う音が公園内に響き渡る。そしてパァーンッと蜜柑くんが身に纏っていた衣服が弾け飛ぶ。白く輝いている為裸体は見えないが、桃凜は思わず見てはいけないと顔を手で隠した。
「
蜜柑くんはゴクゴクと音を立てながらプロテインを飲み干し、シャランという鈴の音とともに、レッドとピンク同様黒のボディースーツのような姿になる。
流石蜜柑くん、黒のボディースーツだけでも様になっていたが、その後もシャランと鳴る度に黒の装飾が施されていき、レッドともピンクとも違う高級感漂う真っ黒な衣装に全身包まれた。
シャラララランという一際長い鈴の音で、蜜柑くんの髪はオレンジ色から漆黒に染め上げられ腰あたりまで髪が伸び、ハチ上から毛先までが編み込まれていく。
そしてまたシャランという音とともに顔に黒のメイクが施され、シェイカーがヘッドマイクに変わり装着された。
最後に蜜柑くんは美しくポーズを決め、叫ぶ。
「弛んだお腹は許さない!ヤセルンブラック!!」
ジャジャーン!と最後の音が鳴り、蜜柑くんもといヤセルンブラックの変身が完了する。
その姿はファッション雑誌の表紙になってもおかしくないくらい美しかった。
桃凜はまさか蜜柑くんがヤセルンブラックだなんて想像もしていなかったため、驚きに言葉が出ない。
蜜柑くんは明るく溌剌なイメージだが、ヤセルンブラックは優雅でスタイリッシュで、とても蜜柑くんと同一人物には見えなかった。
けれど、外見は全く違っても、桃凜は彼が蜜柑くんであるということが心で感じ取れた。
きっと他のファンも同じだろう、ヤセルンブラックの佇まいや空気感、それら全てが彼が蜜柑くんであるということを証明していた。
というか、あの効果音があるということはうさぎさんが近くにいるのでは、と桃凜は辺りを見回し、すぐにまた木の影に身を潜めるうさぎさんを見つけた。と同時にうさぎさんも桃凜に気が付いたらしく、桃凜を手招きする。
「さあ、全身を引き締めよう」
桃凜がうさぎさんの元へ向かっている最中、ブラックの減量が開始された。
もちろんうさぎさんは桃凜を手招きながらもBGMを流すことも忘れない。
ブラックは流れる音楽に合わせまず四つん這いになり、片足を後ろに伸ばしゆっくり高く上げた。
「まずはお尻を引き締めるよ!いーち、にーい、……」
正気を失っていたファン達は、ブラックと同じ様にお尻の引き締め、バックキックを始める。
流石アイドル、だからだろうか。カウントの声が耳に心地よく、引き締め中のファン達はもちろん桃凜もどこかうっとりとした表情をしてしまう。
うっとりしながらうさぎさんの元へと辿り着いた桃凜に、うさぎさんはホッと安堵の息をつく。
「良かった、君は足止めされていなかったんだな」
「足止め?」
なんのことか分からず首を傾げる桃凜。
うさぎさんは何も知らない桃凜に簡単に説明してくれた。
どうやらITが怪しい動きをしていることにいち早く気付いたうさぎさんは、一時間程前にヤセルンジャー全員にメッセージを送ったのだが、紅葉と一翠はITによって足止めされているらしくすぐには来れないと返信がきた。
桃凜からは返信がこなかったが、恐らく桃凜も足止めされているのだろうと思っていたので、桃凜がここにいることに安堵した、というわけらしい。
桃凜はそんなメッセージきたっけ?と考え、思い当たった。
李と動画を観ていたとき、途中でトイレへ行くからと李にスマホを預けた。トイレが近くになく戻るまで時間がかかってしまい、やっとのことでトイレから戻ると桃凜のスマホでずっと動画を観ていた李がメッセージきてたよと教えてくれたのだが、すぐにグッズ販売の順番がきてしまい確認出来なかった。グッズ購入後は李と興奮状態になっておりメッセージのことをすっかり失念し、そのままこの公園へと偶然やってきた、というわけだ。
「すみません、確認出来てなくて……」
「いや、君に何もなくて安心した」
2人がそんな話をしている間もブラックの引き締めは続き、早くもラストスパートへと入っていた。
「最後はふくらはぎを引き締めるよ!」
ブラックは真っ直ぐに立ち、ゆっくり爪先立ちになっていき、ゆっくり戻すカーフレイズを行う。
あちこちを引き締め、疲れ切っているであろうファンのことを考えてか、最後は簡単な引き締めで終わろうとする所にブラックのファンを大切に想う心が窺える。
ブラックのお陰でふくよかになっていたファン達は元の体型に戻ってきていた。
桃凜は感動してする。自分も一度経験したから分かるが、減量中のヤセルンジャーにはとてつもない疲労が襲いかかる。
なのにどうだろう。今、ブラックは誰よりも笑顔だった。
流れる美しい汗、弾む息、弾ける笑顔。
これは、もはや、LIVEだ!
桃凜は思わず感動から涙を流し、買ったばかりのペンライトを振った。
ブラックは桃凜の応援に気付き、最後の力を振り絞り叫ぶ。
「みんな、ついてこれてるー!ラスト5回いくよー!いーち、にーい、さーん、」
後ニ回、誰もがそう思ったときだった。
「リッバウンドー!」
どこからかこの状況に似つかわしくない明るい声が響き渡り、赤黒い光が公園を包み込む。
桃凜とブラックは声の方、アメリカンドッグの屋台へと目を向ける。
するとそこには前回同様白ずくめの男が、ナイフの様な形のステッキを持って立っていた。
桃凜の位置からはよく見えなかったが、恐らく前回の男とは別人の様だった。体格も違うし、何より声が全く違った。
前回の男はフードを目深に被り口元しか見えなかったが、今桃凜の視線の先にいる男は顔を全て曝け出している。
その顔を見て、あれ、と何か引っ掛かる桃凜。
その男の顔に見覚えがある気がした。
「ほぉ〜ら、たくさんお食べ♡」
男は不気味なほど可愛らしく微笑みながら、その愛らしい顔に似つかわしくない、乱暴な所作で作り溜めていたアメリカンドッグを地面にぶち撒けた。
どうやら今回はこの男がアメリカンドッグを作っていたらしい。
「駄目だ!!」
ブラックが疲労困憊の体で必死に制止するも、ファン達はぶち撒かれたアメリカンドッグに獣の様に貪りつく。
「ふふっ、可愛いブタちゃんだねぇ〜♡」
男はまるで可愛いペットを愛でるかの様に微笑む。
自分のファンが侮辱され、ブラックは怒りからギリギリと歯を食いしばり男を睨みつけた。
桃凜も食べ物に対してあまりにも失礼な行動に、はらわたが煮え繰り返りそうなほど腹が立っていた。
「怖い顔〜。ねぇ、大切なファンがブタになっちゃった今の心境を教えてよ♡」
男はわざとブラックを煽る様なことばかり言う。
ブラックは額に青筋を浮かべ、今すぐにでも殴りかかりたい衝動を必死で堪えた。
「大事なLIVEもこれじゃあ中止だね。ざーんねん♡」
持っていたハンケチーフで流れてもいない涙を拭う振りをする男に、流石の桃凜も堪忍袋の尾が切れた。ずんずんと男の元へと歩いていく。男の元へ行ってどうするのか、完全にノープランだったがヤセルンジャーとして、蜜柑くんのファンとして、この男に物申さねばと思った。
「僕はそろそろ帰るよ。ブタちゃんのお世話よろしくね♡」
こちらへ向かってくる桃凜に気付き、男はひらひらと優雅に手を振りながら公園から去って行く。
「待つんだ桃凜!」
桃凜は男を追いかけようとするも、うさぎさんの制止の声で立ち止まる。
「まずは彼らを正気に戻すのが先だ!」
そう言ってうさぎさんは桃凜にシェイカーを投げ渡す。
そうだ、俺は、ヤセルンジャーなのだ。
ヤセルンジャーのすべきこと、それは減量。
今回は自分の出番はないと思っていたが、LIVEのため、蜜柑くんのため、桃凜は変身することを決意する。
「プロテインチェンジ!」
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