風に散る
紫乃森統子
序章 濫觴(1)
奥州二本松藩、会津藩の東に位置する十万余石の丹羽家が治める国である。
高く青く、晴れ渡る空から注ぐ陽光に照らされ、風花が舞う。
二本松の城下は、未だ寒さ厳しくも時折早春を思わせる風が吹いていた。
慶應四年、正月。
瑠璃は城を出て、城の周囲の上士屋敷をすり抜けて商家の並ぶ町を目指していた。
四ツを僅かに過ぎ、登城する藩士たちの集団も途切れた頃だ。
根結いの髪を長く揺らし、袴姿で漫ろに歩を進める。
「おや姫様、今日は良い天気でございますね」
声に振り向くと、門前を掃き清める女中がにこやかに笑いかける。
その門扉の向こうに覗いた庭木が、黄色く咲き競う花を付けているのが見えた。
「ああ、気持ちの良い日じゃ。庭の蝋梅も見事じゃな。主に宜しくなぁ」
ひらひらと手を振れば、女中もぺこりと頭を下げる。
二本松藩丹羽家の姫君、瑠璃と知った上での対応だ。
その辺を彷徨いているはずもない身分だが、皆が見慣れてしまうくらいには瑠璃のお忍びは常習化していた。
「姫様もお忍びならもっと忍ばれたほうが良いですよ」
格好こそは姫君のそれとは全く異なるが、割合堂々と闊歩しているので、分かる者にはすぐに分かる。
上士屋敷の表には殆ど奉公人の姿しか見られず、登城の頃合を外せば案外易々と潜り抜けられることを熟知していた。
袴姿と言っても、この年十七を数えた瑠璃が女人であることは誰の目にも明白だ。
性別を積極的に偽るでもない変装は、ある種風変わりな目立ち方をしているのかもしれなかった。
***
顔を見知った
邸は上士も下士も問わずすべて平屋建てだが、門構えや塀の造りでがらりと景観が変わった。
垣根の向こうに家人が仕事に勤しむ様子が窺えるのが、何とも言えずほっとする。
(今日も平和じゃのー)
だが、長らく続いたこの太平も、近年は次第に脅かされ、この正月には京で戦が始まったとも聞いている。
今はまだ穏やかな日常の中の城下だが、いつどうなるかも知れず、城の中では日々重臣が議論を交わし、会津や仙台をはじめとする各藩からの使者は引きも切らずやって来た。
危急存亡の時。
それでも城から抜け出せば、人々の暮らしが普段通りに続いている。
すっかり趣味になっていたお忍びだが、このところは人々の息づく様を眺めたいが為のお忍びであった。
「るぅぅぅりさまぁぁあああああ!!」
折角気分の和んだところに、後ろから男の怒号と遠雷のような地響きが聞こえてきた。
「おぎゃー……。あやつ、もう勘付きおったか」
瑠璃は咄嗟に辺りを見回すと、手近な邸の門を素早く潜り、垣根の裏に身を潜めた。
地響きは男が駆る馬の足音だ。
それがどんどんこちらに向かってくる。
「
齢三十五、番頭の
瑠璃が十歳になった頃から、剣術の稽古を付けてくれている、師匠兼側近だった。
「面倒くさいのー」
とは言いつつも、瑠璃が全幅の信頼を置いている臣下だ。
今朝も剣術の稽古で顔を合わせたが、その後は鳴海も勤めがある。
瑠璃にも勉学や稽古事の予定はあるのだが、鳴海の目が離れた隙を狙い、城下へ繰り出してきたのだ。
「そこらへんにおられるのは承知しておりますぞ!! さっさと出て来られよ!!」
(どうでもいいが、でかい声じゃの……)
馬上で大音声を上げる様をこっそり覗き見て、よく舌を噛まずにいられるものだと妙な感心をする。
毎度、この調子で城下を探し回るのも、鳴海の仕事のようなものだ。
垣根の裏に潜む瑠璃には一向に気付かず、鳴海は往来を駆け抜けていく。
その馬蹄の音が遠退くのを確かめてから、瑠璃はほっと息をついた。
が、その瞬間。
「……あー、もし。一体どちらの御子かな」
「!!!」
背中に声を掛けられ、瑠璃は文字通り飛び上がった。
即座に振り返れば、瑠璃よりも幾らか年上だろうと思われる青年が、包みを一つ抱えて怪訝そうに立っている。
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