第十話 浄化とはどのようなものかしら
王都を出発して五日、ついにエネロの町に足を踏み入れた。
町の中は閑散とし人気が異常に少なかった。武装した自警団や地方騎士の姿しか見えない。住民は殆ど見当たらない。
「麦の収穫期なのに誰もいないなんて変だな」
土の上にまばらに敷かれた石畳を踏みながら左手を見ると一面に広がった黄金色の畑は風に揺れて輝いている。麦同士が擦れる音ばかりしてうら寂しい。
町の中心へと進むほどに三人とも体が重くなるのを感じた。こみ上げる気持ち悪さに手で口を押えたり顔をしかめたりする。中でもすみれは特に症状が悪く青白い顔をしていた。
「瘴気かしら。すみれ様大丈夫ですか?」
すみれは目を見開いて目玉をゆらゆらと動かしていた。彼女の目には町中あちこちに黒い靄が映っている。
黒い靄は煙のように揺れ動き、人に近づいては纏わりついた。まるで靄自体に意識でもあるかのようだ。揺らいでいる黒い靄はすみれたちにも例外なく近づいてきた。すみれは悲鳴をあげて思わず腕で体をかばおうとする。意味のないことだと判っても反射的にそうするしかなかった。
しかし黒い靄はすみれたちの周りでぱんっと弾かれる。何が起こったか判らなかった。黒い靄は逃げるように離れていく。近づこうとすれば三人の周りで弾ける。まるで目に見えない膜が張られているように見える。
「あれ?楽になった」
気持ち悪さは嘘のようになくなり体が軽くなる。クリスとオリヴィエには急激な変化に驚いた。
「すみれ様、あなたのお力ですか?」
「わからない…でも黒い靄は私たちに近づかないみたい」
「黒い靄?」
「見えませんか?この辺り一帯に蔓延っているんですが」
クリスとオリヴィエは顔を見合わせる。瘴気が噴き出ると心身に支障がでると言われている。だからエネロの町に入った時に急激に変化した体調で瘴気が噴き出ていると実感した。しかし瘴気が見えるなんて初めて聞いた。
「どんな風に見えるんですか?」
「靄が人や動物に纏わりついているの。でも私たちには近づけないみたい」
「すみれが持っている聖女の力か。清浄な気に弾かれたのかもしれないな」
「これが聖女の力?」
「恐らく。すみれなら本当に瘴気を浄化できるかもしれない」
「でもどうやって浄化すればいいのかわからない。今だって靄が近づけないだけで、消えたわけじゃないんだよ」
今の状態が無意識で力を使っているのか、それとも聖女だから瘴気が近づけないのかは定かではなかった。
「ちょっとあなた、聖職者でしょう?もしかして王都から?」
道の真ん中で立ち話をしていると修道女の恰好をした中年の女性が声をかけてくる。視線はすみれではなくクリスに向けられていた。
「どうしよう?」
クリスは困ってオリヴィエに助けを求め耳打ちをした。
「ここは聖職者と答えた方がいい。力を使うのはすみれでも見た目にはわからないはずだ。少しでも信用を得た方がいいだろ」
聖職者を騙ることに抵抗のあるクリスはすみれの顔色を伺った。すみれの目はオリヴィエに頷いたので、意を決して一歩前に出た。
「ええ。聖職者と言っても、どの聖堂にも所属してないんです。あちこち旅をして浄化して回っています」
「それならまずは聖堂に来て。ここは診療所の代わりにもなっているのよ。症状の悪い患者がいるわ。瘴気を祓うお祈りをして頂戴」
聖職者は瘴気を祓う際に、お祈りを唱えることは知っている。勿論クリスには力が使えるわけではない。
「私が唱えてすみれ様が力を使えば誤魔化せないかしら」
「患者の近くに寄ってみてどうなるか見てみるしかない。一か八か試してみよう」
修道女を先導にして聖堂に向かった。近づくごとに瘴気の靄は一層濃くなっていく。
二階に案内されるとベッドや床に病で倒れた人々が寝かされていた。すみれは部屋に入るのを躊躇い立ち尽くす。
「大丈夫ですか?」
クリスとオリヴィエは先に部屋に入ると二人の姿が隠れてしまいそうなほどの靄にすみれは恐怖した。
「ごめんなさい。靄が濃くて中の様子が伺えなくて…」
「ご無理なさらず、こちらから浄化を試してみますか?」
「いえ。中に入ります」
「では共に参りましょう」
クリスはすみれの手をとってゆっくりと導いた。さっきのように靄はすみれの周りには近づこうとはしなかったが、クリスたちには遠慮なく纏わりついていく。
(さっきは出来たのに、どうして…)
二人の姿が徐々に見えなくなる。どんどん膨れ上がる不安に押しつぶされそうになる。恐れと不安はすみれの体を冷たくした。
「すみれ様。大丈夫です。我々がついていますから」
かたかたと震えていた手をぎゅっと握られるとクリスの体温がすみれへとうつるように指先からじんわりと熱が伝わっていく。受け取った熱は体中に広がり不思議と体が軽くなったように感じた。
「私は大丈夫。このまま部屋の真ん中に連れて行って」
すみれはクリスの手を握り返すと靄が少しだけ隙間を作りクリスの凛々しい笑顔が見えた。大きく膨れていた不安は一気に萎んだ気がした。
「任せてください」
ゆっくりと歩を進めると、歩いた場所は足跡をつけるように周囲の靄が離散する。部屋の中央につくと、すみれはクリスに目で合図を送った。クリスは静かに聖職者の見様見真似で古代語で祈り始める。神への問いかけと願い、普段捧げる身近な祈りだ。
耳なじみのない言葉の羅列はすみれには意味を理解することができない。それでもどこか懐かしい響きが心に沁みた。
目を瞑ってローズとの言葉を思い出す。
『浄化はそう難しくないわ。目を閉じて光を思い浮かべるの。後はあなたやあなたの騎士を信じて。信じる力は何よりも強いから』
ほんの数日前の話だ。その前日まではなんの取柄もない普通の女子高生で人を助けるとかましてや世界を救うなんて夢物語の世界だった。ただ祈るだけでは世界は救われない。でも神に縋りたい時もある。だから祈るのだ。少なくともすみれには祈りはそういうものだった。でもクリスの唱える祈りは力を引き出す気がした。
すみれは丹田に意識を向け熱が集まっていくよう感覚を研ぎ澄ます。眩い光が自身から溢れ出した。目を開けるとクリスも祈りを止めなかったが驚きを隠せないようで目をきょろきょろさせていた。
祈りが終わるころには黒い靄はすっかりなくなった。同時に誰もが茫然と口をぽっかりあけて、その様子をみつめていた。
「凄い」
口にしたつもりはなかったのにその言葉が耳に届いた。すみれ自身が呟いたわけではなく、今までベッドで横になっていた患者の一人が言った。その一言が堰を切ったように「凄い」「奇跡だ」とざわつかせた。
そして中央にいる彼女を「聖女様」と呼んだ。正確には聖女様のようだと言った。ある人は立ち上がり近づいて手をとった。白銀の髪のクリスの手だった。
「ありがとうございます」
「いえ、私は」
聖女ではないし、聖職者でもない。そう続けたかったクリスだが、さっきまで病床に倒れて死すら意識していた人々にとって謙遜の言葉の様に聞こえたのか、その様子すらも謙虚に見えたのだろう。他の人も群がってクリスにお礼の嵐を浴びせかけた。
聖女であるすみれに至っては人々に押しのけられて、すっかり蚊帳の外といった具合である。オリヴィエはこっそりとお疲れ様と労った。
司祭が彼らに家に帰るように促すまでクリスは解放されることはなかった。
「まさか聖女様がこちらにいらしてくださるとは」
「申し訳ございませんが、私は聖女ではありません。私たちは瘴気を浄化する旅をしているだけなんです。それに聖女は私じゃなくてこちらの…」
思わずすみれを聖女だと言ってしまいそうになるところでオリヴィエが咳ばらいをし、クリスの脇腹を打った。
「ちょっと人より力が強いだけで…ただの、普通の聖職者です」
司祭は訝し気な表情を浮かべたが、これまで蔓延っていた瘴気がすっかりなくなったと肌で感じたことで気を許した。
「これで暫くはこの町も穏やかに過ごせます。本当にありがとうございます」
「暫くですか?これで瘴気を抑えられたわけではないのですか」
この世界では常識なことでもすみれにはそれがわからない。すみれを知らない司祭からすると、非常識極まりない存在にみえた。オリヴィエがフォローに入った。
「聖堂とは別に聖遺物が祀られている神殿があるんだよ。普段は司祭様が管理をなさっているけど、町があれほどの瘴気に包まれていたのなら、近づくことも出来なかっただろうね」
「ええ。もう一年も足を運んでいません。六年前に聖女ローズ様がいらしてくださった時を最後に先代の司祭が毎日神殿に足しげく通われ祈りをささげていましたが、瘴気にあてられて一年前に亡くなりました。その頃には近づくこともできないほど瘴気があふれ出して、私は恥ずかしながらこちらで身を隠している始末でございます」
「いえ。それでよかったのです。ご自身の身を護ることは大事なことでしょう。司祭様が立て続けに不幸に合われたらそれこそ民が不安になりますし」
「そう仰っていただけると心が安らぎます」
クリスの慰めに、司祭は俯いて自分にも言い聞かせるように何度も頷いた。
「その神殿にはまだ瘴気が溜まっているなら、この足でそっちにも行ってみるか」
「そうね…司祭様、よろしければ、一度私たちで神殿に出向いてもよろしいでしょうか。お力になれるかもしれません」
聖女の一行として見過ごすわけにはいかない。本来なら『普通の』聖職者では立ち入ることは許されないが、クリス、実際はすみれの力を目の当たりにした司祭にとって、有難い申し出を断る理由は何一つなかった。
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