がぶがぶ/28 甘く高まる鼓動



 愛する者を殺す、実際に命を取るまではしなくても良いが。

 好き勝手に、自由に、憎しみのままに、怒りのままに、そして愛のままに切り刻める。

 それは、なんて甘美な誘いだろうか。


(こんなの、私、どうすれば……)


 激情のままに殺してしまうかもしれない、だが、取り返しのつかない事をする。

 愛する者の為に犯罪者となる、それは彼によって初雪が夢見ていた“普通”が失われる事でもあり。


(なんて……なんて狡いヒトなのでしょうか吉久君は)


 とくん、とくん、胸の高まりが止まらない。

 頬が思わず緩んでしまう。

 屈辱だ、これは屈辱に他ならない。


(私が頼んだ事をやり返されたばかりか、嗚呼、予想もしていなかった救いの手の差し伸べてくれるなんて……)


 ときめきが導火線となって、心臓が爆発しそうな気さえしてくる。

 怖い、この誘いに乗ったら彼を殺してしまう。

 だって初雪には正気を保つ自信が無い、残虐になぶった後で心臓を一刺しするだろう。


(――本当に? 私は吉久君を殺してしまうの?)


 怖い、けどそれ以上に背徳感が、憎悪が、悦びが、愛が、初雪を誘惑する。

 ふわふわと定まらない目つきで彼を見ると、必然的に裸体が目に入って。


(この体に、私の愛が刻める、決して消えない深い傷跡が、噛みつくよりもっと甘美な、私の男である証拠が刻める……)


 下腹が疼く、呼吸が荒くなる、想像しただけで快楽が背筋を駆け上がり。

 手が震えて、包丁を落としてしまいそう。

 でも、だから。


「――――ダメ、ダメです吉久君、そんな事……」


「そう? 君の口以上にその目や体は正直みたいだけど?」


「違う、これは違うんです、ダメ、こんな事を喜んではいけないのです。愛じゃない、愛じゃないから」


「本当にそう思ってる? 残念だなぁ……僕が君に出来る最大の愛なのに、受け取ってくれないの?」


「そ、それは――……ッ」


 彼を刺したい、でもそれはしてはいけない事で。

 でも、でも、でも。

 濡れた瞳で迷う初雪の頬に、吉久は手を添えて。


「考えてみて欲しいんだ、君が手を汚す意味を。――僕らはどうして対等に、そして未来に進めると思う?」


「…………貴方は、私を強姦した犯罪者だから、陵辱した卑劣な男だから。私が吉久君を刺せば、犯罪者として対等になれる」


「それだけじゃあ半分だ」


「半分?」


「これはね君の復讐であると同時に、僕からの陵辱なんだ」


「陵、辱……?」


 その響きに胸が甘くとろけそうになったが、初雪は正気を保って続きの言葉を待った。


「僕を刺すって事はさ、君は大切にしていた“普通”から完全に外れるんだ、そして僕に対して罪悪感を覚える、そうだろう?」


「それは……違わない、ですけど――」


 確かにそうだ、愛と同時に憎しみが沸き上がってくる。

 ぞわぞわと背筋に這い寄り、復讐が果たされると口元が歪む。

 欲情しているのに、怒りで目が眩みそう。


「僕を刺すことによって、……君の憎悪は変質する。だって復讐は果たされるんだから、君自身も言い訳のしようもなく加害者になるのだからさ」


「愛と憎悪に……罪悪感という重石を更に乗せると? 吉久君はそう言うのですか?」


「そうだ」


「貴方って……貴方というヒトは……嗚呼、本当にッ、本当のッ、最低のクズ男なのですねッ!!」


 ギリと歯ぎしりし初雪は吉久を睨みつけた、こんな屈辱があるか、人生最大の屈辱かもしれない。

 目の前の男は身も心も陵辱しただけでは飽きたらず、彼女自身も陵辱者になるようにし向けているのだ。


「狡いッ、狡いです吉久君はッ!! 嗚呼、卑怯者ッ、クソ野郎ッ!! 私を最低最悪の存在である貴方と同じ低みにまで堕ちろと言うのですかッ!? バカじゃないの? 正気の沙汰ですか? ありえない、本当にありえないッ! 何で私は貴方のような社会の屑を愛しているんですか? 嗚呼、救いようがないッ、どうしたら救えるのですかッ!!」


「救えないからさ、一緒に堕ちようか」


「~~~~~~~~ッ!!」


 とんでもない誘いに、初雪の感情は感極まった。

 救えないから一緒に堕ちるだなんて、こんな誘い文句がこの世に存在すること事態がおかしい。

 だが、本当におかしいのは、救いようがないのは。


(こんなに嬉しいだなんて、嗚呼、今すぐ死んでしまいそうなぐらい嬉しいですッ!!)


 でも、だからこそ。

 芯が出る、愛欲と憎悪に溺れ死にそうなのが彼女の半分だとすれば、もう半分は。


「嗚呼、嬉しい……嬉しいです吉久君。――だからこそ、駄目です」


「……初雪?」


「それがどのような理由があっても、愛する者に己を刺してくれと頼むものではありません。今の私にそんな事を言う資格なんて無いでしょう。……でも、貴方の体は貴方だけのモノではありません」


「ああ、忘れていたな。それも君の本性だったね」


 拒否されたと言うのに、吉久は嬉しかった。

 今の彼女は、かつて吉久が憧れた聖女の姿。

 人は極限状態で本性が出るという、ならば今の姿こそ、善性を露わにする彼女の姿こそ。


「貴方が傷つけば貴方のご両親や友人達が悲しむのです、なにより私も悲しく、とても辛い……」


「それでも、僕は君に復讐して欲しいんだ」


「復讐は無意味、なんて申しません。私は貴方に復讐したい、でも…………吉久君を傷つけて傷つく人が居る限り、私は貴方に復讐をしない」


「君の心が壊れるとしても?」


「……貴方の心遣いは、愛情は嬉しいです。一緒に堕ちようと言ってくれて嬉しかった。でも、私は私の良心にかけて貴方をこれ以上、傷つける事は出来ません」


 自己犠牲、思いやり、優しさ、愛、少し前までの吉久なら。

 聖女としての初雪の姿に、改心すらしたかもしれない。

 罪悪感のままに、逃げ出して自殺したかもしれない。

 だが。


「まぁ君がそうしたいなら良いけどさ、今の状況を理解してる? 僕は君が嫌だと言っても無理矢理に刺させるけど??」


「貴方を傷つけるぐらいなら自ら死にます」


「君が自殺するのとさ、僕が君にキスしたり胸を揉んで腰砕けにするのとドッチが早いと思う?」


「体が如何に貴方の言いなりでも、譲れない所はあるのです」


「なら試す? 君が捨ててなければあの頃に使ってたバイブとかディルドーとかあるよ? 全部をウチに持ってきたワケじゃないし」


 ぼっ、と初雪の顔が茹だった。

 もじもじと腰を動かし始める、今、全裸なのがとても心細く感じる。

 これは駄目だ、とても不味い状況だ。


「…………ゆ、譲れない所だってあるのですよ?」


「三時間ぐらい絶頂寸前のままで、頭茹で蛸状態で愛を囁かれたらさ、初雪はどうなると思う?」


「………………うううううううううううッ、卑怯者ッ!! この変態ッ!! 吉久君は私を何だと思ってるんですかッ!! か、仮にそんな状態で貴方を刺して私が罪悪感を覚えるとでもッ!?」


「ははっ、よく考えてみなよ初雪。そんな状態で君は手の力が十二分に入るかい? そうだ僕の思いのままだ。するとどうなる? ――君はね、焦らされて焦られてその挙げ句に僕の心臓を切り裂いて、ああ可哀想に絶頂に達せないまま僕に死なれるのさっ!!」


「~~~~~~ッ、この卑怯者ッ!! 鬼畜ッ!! それでも人なのですか? 本当に人間なのですか? 私に選択肢なんて無いじゃないですかッ!!」


 駄目だ、もう駄目だ、最後の抵抗が崩されてしまった。

 初雪にはもう、言い訳も逃走も残されていない。

 刺す、刺してしまう、吉久の皮膚を切り裂く感触とはどんなものだろうか、想像が妄想が止まらなくなる。


「……はぁ、ふぅ、はぁ、はぁ、だ、だめです、そんな、貴方を刺すだなんて」


「でもさ、君は理由が出来たよ。僕に脅迫されて仕方なく復讐するっていう建前がさ」


「そ、そんなの言葉だけです、そう、言葉だけなんです」


「けど、この言葉が欲しかった。そうだろう? どうする? 僕は君の逃げ道を塞いだ、さっき君が僕にそうした様に。――覆せるかい?」


 嗚呼、と初雪はか細い声で震えた。

 その熱い吐息は、背徳の快楽か愛か、それとも憎悪と正しき怒りのそれか。

 或いは、全てか。


(だめ……、だめ、だめ、だめです吉久君――)


 ゆるゆると首を横に振る、理性が納得してしまう、欲望がそれを後押しする。

 愛のままに、憎悪のままに、首を縦に振りたくなる。

 ――それを、吉久が見逃す訳がなく。


「さ、一緒に堕ちようよ初雪。可哀想な君は哀れにもまた脅迫され陵辱され、そして僕をその手で刺してしまうんだ。憎む資格が無いって罪悪感が囁くんだ、愛される資格が無いって罪悪感が訴えるんだ、でも愛して、憎んで、……それを僕にまた蹂躙される日々が始まるんだよ」


「やめて、やめてください吉久君……誘惑しないでぇ……」


「憎悪によって増長した屈辱が、罪悪感によって受け入れられ快楽に変わるんだ、僕に愛され君が愛する事を罪悪感が仕方ないって受け入れてしまうんだ。――僕のえっちなお嫁さんになってくれないかい? そして幸せに生きるんだ、子供だって作ろう、君が望むだけ産ませてあげる、昼は幸せな家庭で過ごし、夜は僕と背徳的に過ごすんだ」


「――――――………………ぁ」


 初雪は想像してしまった、そんな都合の良すぎる未来を。

 けどそれは、復讐さえすれば手に入る未来であり。

 少し間違えただけで、呆気なく消え去る未来でもある。


「もし君の復讐で僕が死んだら、君は僕が火葬される時に一緒に焼け死ね。――出来るだろう?」


「…………は、……い。します……する、吉久君に、復讐します――――ッ!!」


 今、初雪の心は本当の意味で堕ちたのだった。










※次回、最終話。その後すぐにエピローグを投稿予定です。


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