がぶがぶ/25 手詰まり



「~~~~~~~~~ぁ!!」


「…………」


 初雪を強く抱きしめ、吉久は叫んでいた。

 だが余りに悲しみが強いからだろうか、声に音はなく。

 掠れた呻き声だけが、ただ響いて。


(ありがとう、吉久君)


 温もりを痛いほどに、早鐘を打つ彼の鼓動を甘く感じながら彼女は今、感謝していた。


(今ここで、貴方に抱きしめられて終われるなんて、嗚呼……なんて、良い人生だったのでしょう)


 きっと産まれる前からこのヒトと、そうする運命が決まっていたのだとすら考えてしまう。


(誰かに愛されながら死ねる……、ふふッ、思いもしませんでした)


 愛を知らずに育った己は、誰も愛せずに、誰からも愛されずに死ぬのだと当然のように思っていた。

 だから、こんな幸せな気持ちになるなんて想像すらしていなかったのだ。


(吉久君はどちらを選ぶのでしょうか、私を性奴隷……いいえ性人形にするか、それとも終わらせてくれるのか)


 どちらを選んでも、初雪にとっては同じ事だ。


(どちらを選んでも、私の心は死ぬでしょう。そこに命があるかどうかなんて些細な差……)


 口元から自然と笑みがこぼれる、今、とても笑い出したい気分だった。

 こんなに安らかで穏やかな気分は、産まれて初めて。


(ありがとう、貴方に出会えて良かった……貴方に全てを捧げられて良かった……私を愛してくれる貴方、私が愛している貴方、竹清初雪と名前が変わる時が来なかったのは少し、そう、ほんの少し未練だったけれど)


 ありがとう、ありがとう、と感謝するしかない。

 だからこそ、苦悩し答えが出せない吉久の姿には申し訳なく思う。


(僕は何が出来る? 何をしたらいい? 初雪さんをどうしたら――)


 疲れたと言った、もう壊れていたのだと、聖女なんて幻想だったのだと、吉久には分からない、受け入れたくない。

 そんな言葉なんて、全部全部全部、嘘だと笑って欲しい。

 でも。


(殺してって願う人間に、なんて言えばいい?)


 なんて己は中途半端なんだろうか、もし本当に全ての理性を愛に捧げ狂ってしまえていたなら。

 彼女を今すぐ犯したのだろう、いや、そもそもこんな事にはなっていない。

 今もあの部屋で、虚ろな瞳で微笑む彼女を大事にしていた筈だ。


(僕に……僕にさ、もう少し勇気があれば)


 彼女に死を与える決心が出来ただろう、そして殺した後で己も死ぬのだ。

 初雪の存在しない世界なんて、なんの意味があるのか。

 そこは空気のない月面と同義、吉久には到底生きていけない。


(本当に選ぶしかないのか? 選んだら僕は……僕は)


 苦しい、息を吸う動作とはどうすのだったか。

 最近は頻繁に分からなくなっている気がする、苦しい、苦しい、確かに呼吸をしている筈なのに、生きていく上で必要な何かが致命的に足りない。

 足りない、足りない、何もかもが足りない。


(僕には何もない、初雪を説得する言葉も、犯す狂気も、それでもと言い続ける勇気も、何も、何も無いんだよ…………)


 だから、吉久に残された選択肢は二つしかない。

 本当に、本当に、心から初雪の事を考えるならば。


(殺すのか? 僕が? 初雪を?)


 考えただけで寒くなる、温もりを求めて抱きしめてもなお寒くて。

 歯を食いしばって、でも涙は止まらず。


(だからって、抱けって? そんなの――)


 この手で命を終わらすのと、心が死んだ最愛の者を傍らに起き続けるのは。

 どちらが果たしてどちらが、彼女のとって救いなのだろうか。

 救い、救う、それは救いなのか、救いではないのだとしたら。


(僕の好きな方を選ぶ、それが初雪にとっての幸せ? だから――僕に選択を委ねたの?)


 答えを出さなければならない、けれど何一つ決められなくて。

 思考は堂々巡りする、己という存在はこんなにも愚鈍だっただろうか。

 

(選べない、僕は――何一つ選べない…………)


 まだ何かある筈だ、もっと捨てるべき何かがある筈だ、その先に希望があるかもしれない。

 頭の片隅で欲望とも愛ともつかぬ何かが叫ぶ、それともそれは良心と呼ぶべき物だっただろうか。

 分からない、今の吉久には何一つ分からず。


「殺しますか? それとも抱きますか?」


 死神の様な恐ろしく、月の様に美しい声が囁かれる。

 タナトスが呼んでいる、そんな気さえする。

 否、間違いではない、だって己の手に重ねられた彼女の手はこんなにも冷え切って冷たい。


「――――僕には、選べない」


 力なく消えそうな声で呟かれた回答に、初雪はゆったりと笑う。

 初雪だけには誰よりも残酷で、誰よりも優しい人。

 そんな彼だからこそ、選べないのは理解していた。

 だから、願わくば。


「…………ぁ、初、雪?」


「ならば、殺してください吉久君。――さあ、此方へ…………」


 彼からそっと体を離した初雪は、涙を流し続ける彼の手を引いて部屋を出る。


(何処へ行こうって言うんだ?)


 ひたひた、ひたひた、まるで幽霊の様に彼女は廊下を歩いていく。

 少し歩いた所で、吉久には目的地が理解できたが。

 それ故に、黄泉路への案内に思えて。


(この先は……初雪の部屋だ)


 何度か来たことがある、あの半年間の陵辱の時に。

 彼女の部屋というプライベートまで犯せば、彼女に吉久という存在を刻み込めると本気で信じていた。

 なんて、本当に愚かなことだっただろうか。


(きっと……本当に初雪さんは聖女という虚像を作っていたんだね)


 だから、無意味だったのだ。

 己がやったのは、愛を知らず育った可哀想な女の子を。

 無惨にも陵辱し、本来だったら気付かない素質を目覚めさせ歪めただけ。


(ごめん……ごめんよ初雪…………っ!!)


 今、吉久は心の底から悔いた。

 己は本当にクズ男だった、卑劣な男だった、鬼畜で、身勝手で、自分勝手で、中途半端な優しさなんて愛じゃない、中途半端な愛など愛ではない。

 ――因果応報、吉久の愛に、悪行に報いが来たのだ。


「お入りください、懐かしいですか?」


「………………」


 彼女の自室は、前に訪れた時と同じく殺風景なままだった。

 壁際に机、その上に教科書と筆記用具、それだけ。

 良家の一人娘とは思えないほど、簡素で狭く何もない和室。


(――――ああ、写真立てが増えてるな)


 愛する者の死を目の前に、心が鈍化してしまったのだろうか。

 たった一つだけの変化を、吉久は見つける。

 だがそれが、今更何だというのか。


(この部屋は……初雪そのものだ)


 何もない、伽藍とした部屋。

 勉強して、寝て、起きて、余暇を楽しむという思考すら産まれない部屋。


「ふふッ、そのまま持ち歩いていて良かったです。自分でも不思議だったのです、どうしてこんな物を持ち歩いているのか」


 そう言って彼女が通学鞄から取り出したのは、見覚えのある包丁。

 吉久の部屋の台所にあったそれだ、しかし何故、彼女が持ち歩いているのか。

 そんな視線を感じ取ったのか、彼女はうっとりとした表情で。


「実はですね、吉久君がペアリングを買いに出かけた時に後ろから着いていって、場合によっては殺そうかと思ってたのです」


「…………なるほど??」


 その瞬間、吉久の心に少し輝きが戻る。

 然もあらん、実は以前から命の危機だったとか。

 現在の危機とは、また別の意味で恐ろしい。


「あの夜、貴方の独り言を聞いていたんです。だから私も一緒にペアリングを選ぶものだと、その為にデートに連れて行ってくれると思っていたのに」


「その……なんかごめんね??」


「良いんです、吉久君は浮気をしなかったし。ふふッ、嬉しかったんですペアリング。だから、私は幸せだと思ったのに……いつもこの包丁を持ち歩いて」


「義務感百パーセントで聞くけど、なんで??」


「きっと――貴方に殺されたかったんです。幸せだったから、心は無意識に分かっていたんですね、私という存在がもう終わっていた事を」


 儚げにそう言うと、初雪は吉久の手に包丁を握らせて。

 続けて、その切っ先を己の心臓へと誘導する。


「どうか……ひと思いに」


(いやマジで駄目でしょコレっ!? 僕は!! 正気に戻ったっ!!)


 手の中の嫌過ぎる重みに、少し動かしただけで彼女の肌が傷つく状況に。

 初雪の理不尽な二択の衝撃から、吉久は目を覚ました。


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