がぶがぶ/20 チェーン・デスマッチ



 同棲中の一条寺初雪の朝は早い、隣で寝ている吉久の寝顔を十分間眺めた後。

 朝食とお弁当作りを平行し、更に洗濯機を回す。

 もはや主婦、甲斐甲斐しく尽くす妻、完璧な若奥様っぷりを見せる自分に酔いつつ、愛しい夫(予定)を起こしに行き……。


(――――そうでした、ええ、うっかり忘れる所でした)


 本日は様子が違った、吉久を起こそうとした手が止まる。

 思い出したのだ、昨日の愛の噛み合いの発端を。


(確かめないと……吉久君が本当に金髪の幼い少女の卑猥な本や動画を隠し持っていないか、探さないと――)


 それは、何よりも優先される事柄だった。


(もし、ええ、もし本当に持っていたのなら、そして、そして…………)


 初雪の中にある恋する乙女の不安と、男を愛する女のプライドと、いまだ尽きぬ憎しみが渦を巻いて混じり合う。

 形容しがたい熱情が、冷静な思考と行動力を彼女に与える。


(――邪魔されると厄介です、ならば吉久君には身動きを取れなくしましょう)


 この二人の愛の巣に、持ってきていた筈である。

 切なく愛おしく輝かしくも淫蕩で、屈辱と憎悪と諦観がせめぎ合っていたあの半年間。

 彼からプレゼントされた、大切な物の一つ。


(懐かしい……と言って良いのでしょうか、でも、これがあれば)


 物置代わりにしている和室の片隅にあるカラーボックス、その中に収まっている卑猥な品の数々。

 初雪はプラスチックで作られた、玩具の手枷を取り出して。

 大切そうに微笑んで抱きしめる、しかしその瞳は淫蕩に濡れつつも怒りに染まり。


(仕組みが分かれば簡単に自分で外せる、ええ、でも貴方は私を脅してそれを封じた、目の前で服を脱ぐように命じられ、付けてくださいと土下座で懇願させられた屈辱は、強引に支配される快楽は忘れられません、――――許すものですか、絶対に、ええ、吉久君からの“愛”は一つ残らず覚えていますから、屈する快楽を教え込まれた屈辱は、染められてしまった怒りは、愛してしまって、愛されている事に悦ぶ心になってしまった屈辱は、嗚呼、嗚呼、嗚呼、愛しています吉久君…………)


 くつくつと煮込むような笑いがおこる、体が芯から熱くなり身悶えてしまう。

 みっともなく腰が揺れてしまって、なんと浅ましい事か。


「――嗚呼、思い出に浸っている場合ではありませんでしたね。探さなければ…………」


 のろり、ゆらりと初雪は嗤いながら家捜しを始めた。

 彼の所持しているノートパソコンの中に無いのは、同棲前から把握している事だ。

 だから物理的に所持している筈だと、ベッドの下や通学鞄の中、箪笥や靴箱、食器棚の奥など迅速かつ静かにチェックを続ける。

 

(こんな浅ましい事をしている姿を吉久君が見たら、ふふッ、貴方はどうしますか?)


 お仕置きと称して淫らなことを強いるのだろうか、それとも慌てて止めに入るのか。

 それとも、と考えて初雪はピタッと静止した。


(あったッ!! まさか教科書と一緒に置いてあるなんて……盲点でした)


 こんなに堂々と置かれていると、逆に気づかない。

 だが今はそんな事より、中身の確認である。

 彼女は焦りを感じつつも、まずは写真集を開いて。


(――開いて、どうするのですか私は?)


 開こうとした寸前、その手が止まる。

 中身を確認して、己はどうしたいのだろうか。

 この中身は本当に、教室で聞いたとおりの金髪ロリータなのだろうか。


(もし、もし中身が本当で、これこそが吉久君の性癖だったら?)


 怖い、手が震える、中身を確認するのが怖い。

 想像したくないのに、想像してしまう。

 悪い妄想が止まらない、彼を信じたいのに信じられなくなっていく。


(もし、……もし、もしも、本当に私の体に飽きていたのだとしたら)


 そんな屈辱があるだろうか。

 あれだけ犯しておいて、責め立てておいて、愛を囁いておいて。


(或いは、まだ、そうです、まだ私の心を折り陵辱する事を諦めていないという事だったら?)


 一度解放した事も、彼女が責任を迫る事も、今こうしている事すらも彼の計算の内で。

 徹底的に一条寺初雪という存在の心を、思う存分に貪り食らい尽くす。

 あの頃の陵辱が、まだ続いているとしたら?


(違う、違う違う違う違う違う違うッ!! そんな事ないッ、絶対に、そうッ、私はッ、こんなぁ! 嗚呼、絶対に吉久君はそんな事――――ッ)


 手から写真集が滑り落ちる、自分で自分が制御出来ない。

 それどころか、心が少しずつ壊れていくような感覚。


(嗚呼、やっぱり、私……もう、壊れてるんですね)


 はらはらと涙がこぼれる、なのに口元は悦楽で歪んで。

 認めたくない、屈辱が気持ち良いなんて。

 認めたくない、裏切られるのすら嬉しいだなんて。

 認めたくない、強引に犯されたがっている事を。

 認めたくない、彼を憎悪している事を。

 認めたくない、彼を愛している事を、許したい事を。


(なんて――矛盾、きっと私は吉久君に出会わなくても……普通の幸せなんて得られなかった)


 今だからこそ確信できる、彼に出会わず他の男と結婚したとしても。

 きっと己は最後まで相手に心を開かず、開いていない事すら気づかずに老いて死んでいくだろう。


(だからきっと、お似合いなんです、吉久君と私は、出会うべくして出会った、だからきっと、私が自己矛盾で壊れていくのだって絶対の運命だったんです)


 ハァ、と悲痛な叫びが込められた吐息が漏れる。

 どうすれば良い、こんな自分は彼に愛されて何になるのだろうか。

 壊れていく自分に悲しむ彼の顔は見たくない、それと同じぐらい、その悲しむ顔を望んでしまう。


(元の吉久君に、でも違う吉久君になって、私を心から求めてくれて、嬉しいんです、確かに嬉しいんです、――――でもッ)


 幸せを感じれば感じる程、不安は強くなる。

 愛を感じれば感じる程に、憎悪は増していく。

 初雪の心は崩れていく、だからせめて、確かな何かがあれば。


(せめて何か、証が、私と吉久君の間に何か証があれば――――)


 初雪は己の薬指のペアリングに、怖々と口づけして。

 その光景を、吉久は後ろから見ていた。


(そうやってさ、何も言わず……君は僕の目の前で諦める気かい?)


 彼女が壊れていく姿は美しいと思う、けれど同時に、それは何よりも悔しい事でもあって。


(君が嫌だと言っても、僕は君を諦めない。君が望まなくても君が壊れるのを止めてみせる。――どんな手を使ってでもね)


 吉久は己の愚かさ加減に自嘲しながら、鎖のついた手枷を音もなく外す。

 初雪の反乱を想定して、あの頃から既に練習していたのだ。

 彼は彼女の背後に忍び寄ると、すかさず彼女の両手を拘束して。


「――――? ぁ…………」


「おはよう初雪、気持ちの良い朝だね」


 瞳を濁られた彼女は、ノロノロと手枷と吉久を見比べて。

 やさぐれた様に、そして何かを諦めた様に視線を外す。


「――――これが、貴方の答えなのですね」


「うんちょっと待ってね、話が見えないんだけど?」


「最初からこうして、私を快楽で性奴隷に堕とす事が目的だったのでしょう? 心を折る為に解放して、ペアリング希望を持たせておいて、こうしてまた鎖を付ける……、ふふッ、とんだピエロです私は」


「いや今日は君が先に僕の手にそれ付けたんだし、エロ本捜し当てたと思えば勝手に壊れそうになってて、困惑しかないんだけど??」


「…………」


「…………」


「くッ、なんて酷いヒトなんでしょう! 今度は私にどんなえっちな事をするつもりですか変態ッ!!」


「ねぇ初雪、君ってば何だかんだで浮かれてるよね? さっきだって指輪にキスしてたしさ、今だってノリノリで服を脱ごうとしてるし」


 彼女の動きがピタと止まる、そしておもむろに服を直して正座し。

 真面目な顔で咳払いを一つ、手枷を吉久に見せると。


「常識的に考えてください、ペアリングで喜んでいる時に恋人の卑猥な本の存在を、しかも自分と正反対の女の子を性的対象にしているならば。不安にもなるし体だけが目当てだと思うでしょう」


「うーん……? 本当にそうなるの??」


「加えて、過去の貴方の行動を振り返ってみてください。――それでも同じ事が言えますか?」


「そう言われると厳しいけどね、どうやら誤解があるみたいだ」


 きっぱりと言い切った吉久に、初雪は鋭い視線を送る。

 この愛するクソ男は、いったいどんな言い訳をするのだろうか。


「ではお聞きしますが、誤解とは? 事と次第によっては私にも考えがあります」


「ははっ、怖いなぁ。まずエロ本の事だけどね、それはフェイクなんだ」


「フェイク? 誰に対する何の為の?」


「君に手を出す前の僕が、万が一にでも君に存在を気づかれた時に、何かの言い訳に使うためのフェイク」


「ではお聞きしますが、――私を犯す前の自慰の時に使う品は?」


 嘘偽りは許さない、そんな気迫を見せる初雪に。

 吉久は胸を張って答えた、今にいたって性事情を隠すなどと無意味な事はしない。


「はっきり言おう……君と出会う前は貧乏で家は狭いし兄弟と同じ部屋だしで……オナニーなんか殆どしてないんだ」


「では私と出逢った後は」


「そりゃ学園に入ってからは一人暮らしだし、週に一回はしてたけどね。勉強優先だったし、まぁ強いて言うならスレンダー巨乳の子のAVを貸して貰ってたって感じ?」


「――――ほう」


 少しだけ初雪の声が弾んだ、スレンダー巨乳とは正に己の体型と合致する。

 リップサービス、ご機嫌取りの可能性は捨てきれないが。


(ええ、自分の事ながら度し難い程に惚れてしまっていますね)


 にんまりと口が嬉しさで歪み、どろりと憎しみの泉の水位が上がる。


「――ではお聞きしますが、私を解放した後はどうしていたのです?」


「オナニーしてなかったよ。だって君の体じゃないとイけないし。そもそもあの半年間でヤりまくってたから、セックスはもう一生いいかなって思ってたぐらいだし」


「合格ですッ! しかし喜ぶのはまだ早いですよ吉久君」


「クネクネしながら怖い目で喜んでるのは君の方じゃない??」


 首を傾げる吉久を無視して初雪は続けた、先ほどの問いより重要で、一番不安な事。

 それは。


「…………本当に私の体だけが目的じゃありませんね?」


「君の笑顔と心に惚れたんだ、だから例え汚してでも誰かに盗られる前に手にしたかったし。汚してもなお折れない心が好きで怖い。――体も欲しいってのは否定しないけどね男として、君はその美貌もスタイルも世界一だから。…………でも」


「でも?」


「今は少し違う、君を愛したいと同じぐらいに汚したい、……いいや、こんな曖昧な言葉じゃダメだね」


 吉久の声色が変わる、あの頃のように初雪をしゃぶり尽くそうとしている貪欲なソレに変わる。

 敏感に察してしまった彼女は、背筋を期待と怒りで震わせ。


「――――聞きましょう、吉久君は愛する大切な私に何をしたいのです?」


「今はそのまま土下座させて、足を舐めさせたいな。僕はね、僕に陵辱された憎悪と愛する心で板挟みになっている君をさ、……壊れないようにバランスを取ろうと思ってるんだ」


「ッ!? ~~~~~ぁ、ッ、あ、貴方というヒトはッ!! どの口でそれを言うのですか!! 貴方が私を壊したのでしょう?? 貴方が私に愛を教えたのでしょう!! 拒否したと思えば、普通の恋人の様にしたいと希望を抱かせながら今度はまた私の心を陵辱しようと言うのですかッ!!」


 嗚呼、と初雪は怒りとも嬉しさともつかない吐息を出した。

 だってそうだろう、理解されている、愛するものに己の心を分かってもらえている。

 けれどその上で、彼は欲望のままに愛する相手へ屈辱を味あわせようとしているのだ。

 理不尽極まりない、サイコパスの所業だ、どうしてこんな存在を愛してしまったのだろうか、どうして失望する事が出来ないのだろうか。

 何より。


「心より先に体が堕ちていた事を思い出したかい? 悔しいだろう? 口ではそう言ってもさ、――君は土下座をしているじゃないか」


「ッ!! だれがそうして欲しいと頼みましたッ!! 貴方が勝手に私にそうしたのですッ!! もう戻れない、普通の幸せを享受できない体にしておいてッ!! まだ満足出来ないのですか? どこまで私を陵辱すれば気が済むのですッ!! 体も心も家も全て差し出すと言っているのに、差し出しているのにッ!!」


 深く土下座しながら怒号ををあげる初雪に、吉久はうっすらと微笑みながら言い放った。


「本当に心も差し出して堕ちてるならさ、そうやって怒鳴らないものだよ初雪。――――嗚呼、だから僕は君が好きなんだ。どれだけ汚しても君の気高い精神は折れることを許さない、理不尽な痛みを忘れず許さず憎悪を燃やす、…………君の心の全てが、痛みも喜びを全てが僕に向く……そんな幸せが他にあるかい?」


(嗚呼~~~~~~ッ!!)


 初雪は何も言えなかった、理解出来てしまうからだ。


(悔しいッ、悔しいですッ、どうして、どうして――ッ)


「ほら、認めなよ。君は根っからのマゾヒストなんだ、僕は君の素質を呼び覚ましたに過ぎない」


(違うッ、そんなの違いますッ!!)


「黙りかい? でも心当たりがあるだろう? だって体が先に堕ちているじゃないか。……君に今必要なのはさ、認めるコトだよ。マゾヒストだって、そしてその扱いに対して怒りと憎悪を覚えているコトを、自分自身の言葉で認めるコトなんだ」


 吉久は確信していた、彼女はまだ己の憎悪を言葉に出さない事で無いものとして扱おうとしている事を。


(理解してるのかな初雪さんはさ、無理に忘れようとするから、否定しようとするから、心が壊れそうになってるって)


 でもそうしてしまったのは、他ならぬ吉久自身だ。

 だからこそ、彼女を踏みにじってでも憎悪を口に出させる。

 そう決めたのだ。


「君の怒りは正しい怒りだ、その憎悪は何よりも正当な憎悪だ、誰にも犯すことの出来ない君だけの想いだ。――さ、言葉にしてみてよ。」


(私はッ、わた、わたし、わたしは……ッ!!)


 悔しくて悔しくて、殺したいほど悔しいのに。

 それと同じぐらい嬉しい、愛を感じてしまっている。

 何より、体は絶頂寸前まで上り詰めるぐらい快楽を感じていて。


「…………」


 吉久は右足を彼女の顔の前に出すと、そのまま無言で見下ろす。

 その姿を感じ取って、初雪の心は暖かく、しかしどす黒く染まっていく。

 長い長い躊躇いのあと、彼女は全身を震わせながら。


「殺してやるッ、いつか貴方を殺しますッ、この屈辱、怒り、絶対に絶対に許しませんッ!! 言えば良いんでしょう? 言いますよッ、私、一条寺初雪は吉久君の恋人であり救いようのないマゾヒストですッ、どうか、どうか貴方の足を舐めさせてくださいませ~~~~ッ!!」


「許可する、でも時間がかかった罰として今日はセックスをしないよ。精々、明日可愛がって貰えるように丁寧に愛情を籠めて舐めたらどうだい?」


「――~~~~…………ッ、今から、舐めさせて頂きます」


 ぴちゃぴちゃと水音がする、くすぐったい感触が足先から伝わる。

 愛する女性が屈辱にまみれながら己の足を舐める、その行為に、光景に、吉久は実に満足そうに微笑んだ。


(これで、少しは壊れるのがマシになれば良いけどなぁ……)


(酷い……なんて酷いヒトなんでしょう吉久君……、ここまでさせておいて、セックスしないなんて)


(――ところでコレ、何時までさせておけば良いのかな?? そろそろお腹減って来たんだけど? 朝ご飯食べたいなぁ……)


(こんな体が疼いてセックス無しなんて……嗚呼、屈辱です子猫みたいに、母親の母乳を求める赤子の様に…………赤子、……そうです、赤ちゃん)


 その時、初雪の脳に稲妻が走った。

 なんという名案、二人の絆の最たる物。

 それは。


(――――赤ちゃん、欲しいです)


 子を孕めば、産んでしまえば。

 吉久はもう絶対に何処にもいかない、その心と体の全てを縛り付ける事が出来るはずだ。

 優しくて暖かい家庭という夢を、叶えてくれる筈だ。


(赤ちゃん……ふふッ、うふふふふふふふッ)


 初雪は幸せな妄想をしながら屈辱を感じ、そして吉久は何故か悪寒を感じたのであった。


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