第1話 首藤恭壱


 株式会社ヴィラン・メタ・コンプライアンスは常に正社員を募集している。その採用条件はただ一つ。異能力保有者であること。新卒、中途、年齢、国籍、人種、人間であるか、そして善悪も問わず。




 ヴィラン・メタ・コンプライアンス本社ビル最上階社員食堂はいつも賑わっている。その特等席の一つ、高層ビルからの景色が楽しめるボックス席は特に人気がある。


 まだ昼時前、首藤恭壱すどうきょういちはたまたま空いていたこの特等席を確保できた喜びをかき揚げうどんとともに味わっていた。


 自分の名前の由来通り、今日はいい一日になりそうだ。恭壱はかき揚げを割り崩してうどん出汁に沈めながらそう予感した。


 割れたかき揚げの一欠片を出汁に浸し、まだ揚げたてのさくさく部位に小気味良い音を立てて齧り付く。ほらな。いい一日の始まりはいい音からだ。


 そんなささやかな幸せに浸っていた恭壱は、ふと、食堂の空気がざわめいたのを感じた。うどんを啜りつつ視線を上げる。


 怪人メカグマだ。大きなクマがのっしのっしと二足歩行していた。


 身の丈二メートルを優に超える巨体は鉄線のような黄金色した剛毛を逆立たせ、金属光沢のある鎧武者のごとくに硬い表皮を纏っていた。その手に持つトレイには社員食堂で最も高価な上鰻重定食セット。クマとロボットを掛け合わせた顔で真っ直ぐ前を見据えている。


 おい、メカグマさんだぜ。やっぱでけえな。


 あのトランスファーマンを倒しちまったんだろ? やばいだろ、それ。


 やだ。社食のメカグマさん、映え過ぎ。


 周囲の社員たちから怪人メカグマの勇姿を讃えるひそひそ声が漏れ聞こえてくる。当然怪人メカグマ当人にもその声は届いているだろう。鰻重のトレイを胸に掲げて歩むその姿も様になっている。


 俺には関係のないことだ。恭壱はうどん出汁にかき揚げを浸す作業に戻ろうとしたが、そうはいかなかった。怪人メカグマは迷いのないどっしりとした歩調でこの特等席に向かって来ている。あと三歩も進めば恭壱の眼前に仁王立ちするだろう。


「そこの君」


 正義の味方トランスファーマンを葬った怪人メカグマは社員食堂で背中を丸めてうどんを啜る恭壱を見下ろした。


「その席を譲ってくれないか」


 威圧感の含まれた野太いマシンボイス。


「その席からの眺めは私にこそふさわしいと思うのだが、どうだ?」


 恭壱は興味なさそうに視線をテーブルに落とし、うどんを啜り上げる音で怪人メカグマのマシンボイスを掻き消した。


 社員食堂がぞくりとざわつく。


 怪人メカグマの取り巻き社員たちが慌てて恭壱に詰め寄った。


「すまないが、他のテーブルに移ってくれないか?」


「メカグマさんはこれから社長賞受賞のため社長室に行く。まずはこの席で優雅に食事を取るんだ」


「あんた、悪いが、平社員だろ。部長待遇のメカグマさんに席を譲るのは当然のことだろ」


 恭壱はゆっくりと顔を上げ、音を立てずに箸を置いた。無言のまま細くよれた黒ネクタイを緩め、光沢を失った黒スーツの懐、しわの目立つワイシャツの胸ポケットへ手を伸ばす。


 その不穏な動きに取り巻きの社員たちは過激に反応した。部長待遇社員の取り巻きとは言え、彼らも悪の秘密結社、もとい、悪の株式会社社員でありそれぞれ異能力持ちの戦闘員だ。いつでも対応できるようにと一歩踏み込む。


 武器を取り出すのか。まさか怪人メカグマに歯向かうつもりか。たかが平社員の分際で上司に食堂の席を譲ることすら拒むのか。


 そんな電気を帯びたような張り詰めた空気の中、恭壱の手が胸ポケットから摘み出したものは、黒縁の眼鏡だった。


「悪いな」


 ようやくかすれた声を捻り出す恭壱。


「見えないんだよ」


 黒縁の眼鏡をかけ、面倒くさそうに怪人メカグマを見上げる。


「なんだ、おまえか」


 ぼそりと言い終えて、黒縁の眼鏡を外してワイシャツの胸ポケットへしまう。食べかけのかき揚げうどんのトレイを手に取り、どっこらせ、と恭壱は重たい腰を持ち上げた。


「調子良さそうだな」


 席を空ける。窓際の、高層階からの景色が気分を高揚させてくれる特等席。どうせ自分には過ぎた席だったんだ。


 恭壱は怪人メカグマに背を向けてもう一言も喋らなかった。取り巻きの社員たちも緊張を解き、恭壱の後ろ姿に何か毒を吐いたようだが、それは彼の背中には届かなかったのか、恭壱は一切反応を示さなかった。


 さて、どこで続きを食おうか。見回せば、すでに何処もかしこもテーブルは人で埋まっている。みんな恭壱からさあっと潮が引くように目をそらし、誰も席を詰めて空けようとはしてくれなかった。


 いや、一人。控えめに、一人だけ恭壱を小さく手招きする社員がいた。


「首藤、こっちだ」


 恭壱の名を呼ぶ一人の男性社員。


 俺を知っているのか。まあいいか。恭壱は彼が何者なのか。その詮索よりもかき揚げうどんを平らげることを優先させた。


「ここ、いいのか」


 恭壱はたった一言呟くように伝えて長テーブルの空いている席、彼の隣にうどんのトレイを置いた。


「いいぞ。相変わらず周りと上手くいってないようだな」


 彼は言った。


「会ったことあるか?」


 恭壱は訊ねた。


 うどん出汁の底からかき揚げを掬い出そうとする箸を止める。恭壱は改めて横に座る男の顔を凝視した。たしかに見覚えはある。あるにはあるが、同じ本社ビルに勤めていれば一度や二度すれ違うこともあるだろう。見覚えがあって当然だ。


「同期の葉山大然はやまたいぜんだ。忘れたか? しばらく他所にいたが、あるプロジェクトの担当で今週付けで本社ビル勤務になったんだ。久しぶりだな」


「悪いが、覚えてねえよ」


 同期入社だなんて、もう十数年前の話になる。入れ替わりが激しい悪役企業だ。正義の味方に倒されたり、シンプルに逮捕されたり、異能力に限界を感じて自主退社したり。恭壱のように十年以上在籍する社員の方が稀だ。


「だろうな。実は僕もついこの間までお前のことなんざ忘れていたよ」


 大然は熱そうにゆっくりお茶を啜った。それに応えて、恭壱は出汁に沈むうどんを箸でいじくるだけで大然の顔を見ようともせずに言ってのける。


「それでいい。俺に関わるとろくな目に遭わねえぞ」


「あるいはそれも異能力かもな。周囲を不幸にする能力者。いいじゃないか」


「そっちの方がヴィランっぽくてまだマシだな。放っといてくれよ」


「ところがそうもいかない。僕の企画したプロジェクトにおまえは必要不可欠なパーツだ」


 大然はそう簡単には引き下がらなかった。部品呼ばわりされてもなおこちらに振り向こうともしない恭壱に、大然はさらに言葉を続ける。


「異能力は健在なんだろ? そして特に担当している仕事もないんだろ? じゃあプロジェクト参加を断る理由なんてないだろ?」


 たしかに恭壱は会社から何も仕事を任されてはいなかった。西陽がきつい窓際のデスクをあてがわれ、仕事といえば部署の面々のデスクを回って領収書を回収するくらいだ。


 それもヴィラン・メタ・コンプライアンス社史上最悪と謂われる異能力のせいだ。


「どうだ? 燻ってんなら、力を貸せよ」


 その時、社員食堂に一際大きくてやたらと品のない笑い声が響き渡った。なんだよ、いいところなのに邪魔するなよ。と、大然が振り返る。


 笑い声の主は怪人メカグマだ。取り巻き社員たちと見晴らしのいいボックス席を占領して大声で武勇伝を語っていた。


「怪人クマさんか。イケメンヒーローとやらで売り出し中のトランスファーマンを倒した中堅ヴィラン。これは株価も上がるな」


 出汁に揺れるうどんを弄ぶ恭壱の箸が止まる。音も立てずに箸を置き、ワイシャツの胸ポケットから黒縁の眼鏡を取り出し、静かに装着。


「モスコットか。いいブランド使ってるな」


 大然の言葉にこれっぽっちも反応を示さず、恭壱は席を立った。


 寝癖のついたボサボサの前髪をかきあげて陽の光を黒縁の眼鏡に反射させる。よれた黒ネクタイの緩みを少しだけ直して、猫背気味の黒スーツの背中を大然に見せつけるようにしてペタペタと軽い足音を立てる。


 真っ直ぐ怪人メカグマのボックス席まで迷いなく歩き、両腕をだらりとぶら下げて、怪人の横に立ちはだかる。


「……」


 無言のまま怪人メカグマを見据える恭壱。怪人メカグマはかなり大きな体躯で、座っていても恭壱の目線よりも高い位置にクマの目玉があった。


「何か用か? 領収書なんて持っていないぞ」


 怪人メカグマの一言で取り巻き社員たちはどっと笑い出した。


 仕事らしい仕事をまともに任されない窓際社員がエリート社員と向き合うことすらおこがましい。そんな下衆な笑い声が満席の社員食堂に響く。


「そんなんじゃねえよ」


 緩やかにしなる右腕。よれた黒ネクタイが跳ね上がる。


 怪人メカグマの悪意ある笑顔が凍る。恭壱の右腕の動きに反応して即座に立ち上がろうとするが、その動きは恭壱にとってあまりに遅過ぎた。


 鎧武者のように逆立った頭部を鷲掴みにする。くいっと手首を捻る。強引にこちらを向かせる。一瞬だけ視線を合わせる。それだけですでに勝敗は決していた。


 黒縁の眼鏡の奥から睨まれて動けない怪人メカグマ。その巨体がふわりと傾く。首が真横に折れて側頭部から落ちる。テーブルに激突し、鰻重を器ごと割り破く。打ち付けられた頭がテーブルまでも砕き、クマの巨体が逆さまにひっくり返る。ボックス席のしっかりとした椅子が木っ端微塵に吹き飛ぶ。テーブルを砕いた恭壱の右腕は怪人メカグマの頭を掴んだまま床にまで届いて、硬い床材を割り、戦国武将の兜にも似たクマの頭部デザインを歪ませ、首まで床にめり込ませて、そこでようやく重々しい衝撃音を轟かせた。


 重低音の振動が止み、しんと静まり返る社員食堂に恭壱は穏やかに言う。


「飯食う時ぐらい着ぐるみを脱げよ」


 うめき声一つ上げず、ぴくりとも動かない怪人メカグマ。


 やがてクマの巨体に変化が訪れた。全身を纏う鉄線のような剛毛と鎧兜がしわしわと萎み、ただの大男へと変身が解かれていく。


「おいおい、着ぐるみじゃなくて変身系能力者だったのか」


 くるり、猫背のまま踵を返す恭壱。


「悪いことしたな。ま、許せよ」


 割れたテーブル。散らばる鰻重。砕けた椅子。穴の空いた床。横たわる大男。恭壱の猫背が発する威圧感に萎縮する取り巻き社員たち。社員食堂の誰もが声を失ってこの惨劇から意識を引き剥がせなかった。ただ一人、葉山大然を除いて。大然は呟く。


「眼鏡をかければ世界最強」


 首藤恭壱は自分の席に戻り、再び箸を手に取った。


「そして、眼鏡を外した時」


 そう言われて、恭壱は思い出したように黒縁の眼鏡を外す。丁寧に片手で折りたたみ、胸ポケットに収める。


「何事もなかったかのように破壊されたものが元に戻る」


 恭壱と大然の背後で重低音が逆再生された。横たわる一人の大男が怪人メカグマに変身して、器用に逆様にもんどりうってから椅子に座り直していた。床の穴が塞がり、割れ砕けたテーブルが修復され、飛び散った鰻重がホカホカと湯気を立てる。


 唖然、呆然とする怪人メカグマと取り巻き社員たち。ちらり、恭壱が猫背越しに見やれば、慌ててテーブルに向き直り鰻を食べる作業に取り掛かった。


「ご覧の通り、俺は何一つ結果を残せない能力者だ」


 恭壱はうどん出汁に沈んだかき揚げを発掘しようと箸を潜らせて言った。


「そんなんで良ければ、話を聞かせろ」


「結果が残らないからこそいいんだよ」


 大然は温くなったお茶を啜った。


 うどん出汁に浸されたかき揚げはすでにくたくたになるまで萎びていた。出汁を吸い過ぎて柔らかくなったかき揚げを美味そうに頬張る恭壱。黒縁の眼鏡が胸ポケットの中で小さく揺れた。

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