日常という各駅停車。それと、少しの非日常。

森ノ中梟

第1話 日常と出会い

 高畑汐里(たかはたしおり)がいつもならば素通りしてしまう公園に立ち寄ってみたのは、「何となく」という言葉が一番しっくりきた。それぐらい理由も無く、その公園に足を踏み入れてみたのだ。


 汐里は現在十六歳となる、高校二年生だ。身長は160前半で、女子の中では高い方である。黒髪は肩にかかるぐらいの長さで、その毛先は軽く癖がかかっているのか、所々で緩く跳ねていた。

 最寄の駅から電車に乗り、そこから三駅ほど離れたところで電車を降り、徒歩で十数分ほどかけて高校に通っている。学校ではまあそれなりに上手くやっている方だとは、汐里自身も思っていた。中学時代からの友人もその高校に何人かいるし、高校からできた友人たちももちろんいる。少なくとも、学校に通うのが嫌だとは思ったことはなかった。


 その日もいつも通りに授業を終え、放課後に友人たちと教室内で軽く雑談をした後に下校をして駅で電車に乗り、いつものようにいつもの駅で電車を降りて、自宅までゆっくりとした足取りで帰っている最中だった。ここまでは何度も繰り返した帰宅のテンプレート。


「……小学生以来だっけ。ここの公園に来るのは」


 ぽつりと汐里は呟いて、夕暮れの公園内を見渡しながら歩く。自宅からさして離れていない所に位置しているここの公園は、彼女が小学校高学年になるまでよく遊んでいた場所である。同じ小学校に通っていた友達と缶蹴りをしたり、鬼ごっこをしていたなと汐里は思い出していた。そういえばここで勢いよく転んで、喉が潰れそうなほど大きな声を上げて泣いたのが、小学二年生の頃だったかな、と汐里は思い出していた。人生で一番声を上げたのは、間違いなくそのときだった。


 小学生の頃に遊んでいたときと、この公園は大きくは変わらない……と思っていたのだが、ブランコだったりジャングルジムなどの遊具が撤去されているのに汐里は気づいた。そう言えば最近の公園は遊具がないことも珍しくはなく、何なら近所からのクレームでボール遊びだったり、大声を上げたりすることも禁止になっているところもある、というのをネットニュースで目にしていた。それはもはや公園じゃないだろ、と汐里は一人で結論を出しながら、道に沿って歩いていく。


 途中で犬の散歩をしている人とすれ違って会釈をしたが、それぐらいだ。どこでも見られる、夕暮れの公園の風景。日常の中の非日常的な何かを期待していたわけでもないし、童心に帰って一人で遊びに来たわけでもないのだから、これが当たり前だ。空から女の子が降ってくるなんてことがあるはずもない。


「はあ……」


 と汐里は息を吐いて、丁度公園の真ん中辺りに位置しているベンチに腰掛けた。汐里はスマートフォンを制服の上着のポケットから取り出すと、友人から届いていた何通かのメッセージに目を通す。すぐさま返事をしなくてもいいようなものだが、既読スルーをしてへそを曲げられては面倒なので、汐里は指を動かし、返事を返していく。とは言え、既読スルーをしたぐらいでこちらとの態度が変わるような、どうしようもない人間は汐里の交友関係の中にはいないのが、彼女にとってはありがたかった。


 一通り返事を打ち終わると、汐里はスマートフォンを上着のポケットの中に戻す。それから、空に目を向けてみた。快晴とまではいかないが、雨が降る様子も見られない。

 雲と雲の間から差し込む夕日に目を細める。友人たちに見られたら写真を撮られて、SNSに面白おかしく投稿されてしまうんだろうなと考えたところで視線を戻し、帰ろうかとベンチから立ち上がろうとする。家に帰ったらとりあえず、夕飯までは今日の授業で受けたところを復習でもしようかと考えていた。だがそこで、汐里の視界の端っこに黒いものが映ったことに気づく。


 自分が座っているベンチから少し間を空けて設置されている隣のベンチに、一人の男性が座っていることに今更ながら汐里は気づいた。ちらりと横目に見た男性は黒のスーツ姿で、自分と同じく黒髪だった。そして軽く癖がかかっているところも。年齢までははっきりとは分からないが、多分二十代後半から三十代前半だろう。


 その男性からしてみればそんなつもりはまったくなかっただろうが、立ち上がるタイミングを外された形になった汐里は、浮かしかけたお尻をベンチに戻すと、両手を上着のポケットに突っ込む。

 今、彼女は非常に恥ずかしい気分に陥っていた。というのも、制服姿の女子高生が誰もいない夕暮れの公園で、空を見上げながら黄昏ていたところを見られたのだとしたら、思春期特有のアレを連想されてしまっても仕方がないだろう。


(あー、もう、まずったなあ……いつの間に座ってたんだろ。……そもそも私、脚広げてなかったよね? それすらも分かんないや……)


 ベンチに座って空を見上げている最中、気が抜けてスカートを穿いている脚を開いていたのではないかと考え、ポケットの中に入れている手を落ち着きなさそうに動かしてしまう。とはいえ、隣のベンチに座っているスーツ姿の男性に「私のスカートの中、見えてましたか?」なんて訊けるはずもない。どんな痴女だよと汐里は心の中で呟く。


 汐里が一人で考えを巡らせる中、隣のベンチに座っている男性は手に持っていた缶コーヒーの蓋をかこっ、と小気味いい音を鳴らして開けると、一口、二口と飲んで小さく息を吐く。そこで汐里は、ここの公園に自動販売機が設置されていることに気づいた。小学生の時は無かったと彼女は記憶している。遊具を撤去してその代わりに自動販売機、というのは公園として退化していそうな気もするが。


(缶コーヒーか……よく飲めるなあ。私は甘ったるくて無理なんだよね。お店で飲むカフェオレとかは大丈夫なんだけど)


 男性の様子から見るに、仕事終わり……もしくは休憩中の一服と言ったところか。汐里は缶コーヒーを手に持って、先ほどの自分と同じようにぼんやりとしている男性の様子を横目に見て思う。あの甘ったるい缶コーヒーも、仕事を終えた後だったり、大変なときに飲めば美味しく感じるものなのだろうか。お仕事お疲れ様です、と汐里は声には出さないが隣の男性に対してそう思った。


 しかしながら汐里とこのスーツ姿の男性には、何も接点は無い。強いて言えば公園でベンチに座り、黄昏ていたことぐらいだろうか。

 だから汐里が立ち上がり、この公園から出て自宅へと帰れば缶コーヒーを飲む男性とはもう二度と会うこともない。これっきり、一期一会にすらならない。

 そう。そのはずだった。



「お仕事、大変なんですか?」



 汐里はベンチに座り、上着のポケットに両手を入れたままの格好で、スーツ姿の男性にそう声をかけていた。声をかけるつもりなどはなく、立ち上がって自宅へと帰るつもりだった。だが汐里の口からは、気づいたらその言葉が出ていた。驚くほど、自然に。

 言った後に、汐里は「自分は何を言っているのか」と口には出さないが、革靴で地面をぱたぱたと踏んだり、ポケットの中の手を開いたり握ったりして、そう思っていることが分かるような仕草を見せていた。恥ずかしがっているのが見て取れる。


 そんな言葉をかけられた男は「あー……」と声を漏らし、一度缶コーヒーを飲むと、「そうだねえ」と苦笑しながら頷いた。そこで汐里は初めてしっかりと横を向き、男性の顔を見た。

 はっきり言えば、整っている顔立ちではある。しかし少し疲れた様子も見える。それが同年代の女子や男子たちとしか関わっていない汐里からしてみれば、なんだか新鮮なようにも映った。


「今はそれなりに大変かな。でも暇だったら今度は、自分で仕事を見つけたり作らなくちゃいけなくなるから、それでまた大変になるね」

「……結局、大変だってことですか」

「ははは、まあそうなるね。でも本当に暇になったら、それは自分にも周りにも何もないってことになるからね。暇になるのが怖いんだよ、社会人って」


 苦笑した顔をそのままに、男性は汐里にそう言った。暇になるのが怖いというのは、汐里にはよく分からない感覚であった。

 しかし暇を持て余したりするとその時間や退屈に耐え切れず、何か行動を起こす……ということは汐里にも身に覚えがあった。それが自らの生活に直結するものであれば、この男性の言うとおりに恐怖を覚えてしまうものなのかも知れない。


「それじゃあ今はやることがあるから、怖くはないってことですか?」

「ま、少なくとも今はね。その代わりに今度はいらぬ気苦労だったり、その他諸々を背負うハメになっているんだけど」と男性はそこで缶コーヒーを飲み、ひと呼吸置いた後に続けた。


「でもそれは立場が違っても同じじゃないのかな? あくまでも俺の考えであって、君のような現役の学生さんがどう思っているのかは分からないけど」

「……私には学生さんじゃなくて、高畑汐里という名前があります」

「あ、ごめんね。つい饒舌になっちゃったよ」

「それは別に気にしないでください。だって気苦労だったり、その他色々あるんでしょう? なら愚痴が漏れても、スルーしますよ」

「はー、しっかりしたもんだ。俺の学生時代とはえらい違いだなあ」


 もうすっかり落ち着いた様子の汐里を男性は感心したように眺める。それに対して、「どうも」と汐里は小さく頭を下げた。男性はつい饒舌になってしまったと言ったが、饒舌なのはこっちじゃないかと汐里はふと思った。全くの初対面の、しかも年上の男性に対して。


「で……仕事終わりですか? それとも休憩中? 缶コーヒー一本飲むのに、時間かけすぎじゃないですか」

「はは、きつい心配してくれてありがとう。ちなみに正解は後者。今から会社に戻らなくちゃいけないから、急ぐとするよ」


 男性は汐里のちくりとした言葉に小さく笑うとベンチから立ち上がり、手に持っていた缶をひょい、と投げた。放物線を描くその缶は、自販機のとなりに置いてある空き缶入れに吸い込まれるように入ると、がしゃんと音を立てる。その音は男性と汐里しかいない公園では、よく響き渡った。


「ナイスシュート。ま、お仕事頑張ってくださいね。……えーと」

 見事なコントロールで空き缶シュートを決め、立ち去ろうとする男性に汐里は言葉をかけたが、思わず詰まってしまう。男性の名前を知らないからだ。

 別に知らなくてもそれは全然構わないのだが、「お名前を聞かせてください」なんて言うのも何だか恥ずかしい。

 思わず言葉を詰まらせた汐里に気づいた男性は、「ああ」と頷いて汐里に振り返る。


「サエジマ。それじゃ、汐里ちゃん」


 と短く、そして簡潔に自分の名を告げて、汐里の名を呼んだ男性……サエジマは前を向くとそのまま公園から去っていった。

 その後ろ姿を眺めていた汐里は、しばらくすると上着のポケットに手を入れたまま立ち上がり、「サエジマさんね」と別れ際に男性が告げたその名をぽつりと口にした。


「いや、愚痴はスルーできるけどさ……ああもう、最後の狙ってやったのかな」


 別れ際に自分の下の名前を呼ばれる。漫画やドラマなどでは、腐るほど使い古されたものだ。だがまさか、それを自分自身が体験することになるとは思わず、汐里はぶつぶつと呟いた。今から彼を追っかけてそれを聞くなんてこともできるはずがなく、汐里は何かもやもやとしたものを胸に残しながら、ゆったりとした足取りで公園から出て行った。


 別に日常の中にファンタジーを求めていたわけでもないし、それを期待していたわけでもない。だが子供のころに何度も遊んだことのある公園で、そんなきっかけを手にすることができるなんて、汐里は思ってもいなかった。


 そのきっかけがどうなるかは、日常という名の各駅停車の先へと続いていた。

 


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