第20話 マタギの爺さん
青森県の下北半島の先端近くの、キャンプ場。
夜の
薄い雲の切れ間から、無数の星が見えていた。都会では絶対に見られない、眩いばかりの星空だった。
「ウチの父方の祖父の家系は、代々、
「阿仁?」
首を傾げる林田に、俺の代わりに森原が答える。
「秋田県の有名なマタギ集落ね。でも、今じゃほとんどマタギなんていないって聞いてるけど」
「ああ、そうだ」
一旦、缶ビールを口に含み、飲み干してから続ける。
「昔は、数百人はいたらしいが、今じゃどんどん減って、現役は爺さんを含めて、30数人程度らしい」
「先輩のお爺さんは、おいくつですか?」
「85歳だ」
「85歳! それで、まだ働いてるんですか?」
林田の大袈裟な驚きの声も、頷ける話だ。だが、俺の祖父は、とても85歳には思えないくらい足腰がしっかりしているし、今でも山歩きをしているという、強靭な肉体を持っている。
「まあ、さすがに高齢だから、昔みたいに熊撃ちはしなくなって、今はうさぎや野鳥を捕ったりしてるらしい」
「マタギって、ハンターとは違うんですか?」
何も知識がない、林田が当然のような疑問をぶつけてくる。
だが、俺はその言葉を即座に否定していた。それは、昔、祖父から教えてもらった、ある「言葉」が頭の中にこびりついていたからだ。
「違うな」
「でも、猟銃で獲物を取るんですよね?」
「単純なハンターではなく、『山に対する気持ち』が違うんだそうだ」
「山に対する気持ち?」
イマイチ、わかっていない林田にもわかるように、祖父の言葉を借りて説明する。
「爺さんが言うには、『山は神聖な場所で、全部山の神様のもの』だそうだ。山の神様ってのは、女でな。とにかくやきもち焼きで、ヒステリーだから、機嫌が悪くなると何日も山が荒れる。だから、山に入る時には、機嫌を損ねないように、身なりを整えて、女性を遠ざけ、山の神様にお祈りをしてから、山に入るんだそうだ」
「素敵な話ね」
「山の神様が、女性って面白いですね」
同じ話を聞いても、森原と林田の感想は全く異なっているのが面白く感じた。そのまま続ける。
「爺さんはよく言ってたよ。『熊を撃つ時は、正々堂々と1対1で勝負しないと山の神様が怒る。だから一発で仕留めないといけない』ってな」
「へえ」
「男らしいですね」
2人の感想を聞きながら、俺は缶ビールを口に含み、夜空の星を見つめながら、祖父の言葉を思い出していた。
「こうも言ってたな。『熊に命を取られても、誰も恨んではいけない。山に入る時は、その覚悟がないと入ってはいけない』」
ここで、チューハイを数杯飲んで、顔を赤らめている林田が口を開く。相変わらず、酒好きだが、彼女は酒に弱い。
「でもー。普通に考えたら、怖いですよねえ。山で熊に遭ったらどうするんですか? よく『死んだフリ』したら助かるって言いますけどぉ」
もう呂律が回っていない。
苦笑しながらも、俺は続ける。もちろん、これも祖父の受け売りだが。
「それは、ただの俗説だな。実際に熊に遭ったら、『背中を見せて逃げたら間違いなく、熊は襲ってくる』って言ってたよ」
「ええっ。じゃあ、どうすればいいんですか?」
林田が大袈裟に、大きな声を上げる。
隣にいる森原が、すでに飲みすぎの気配がある、林田のことを心配そうに見つめていた。
「『目を合わせてゆっくりと後ろに下がれ。目をそらして、背中を見せると襲われるぞ』って言ってたな」
「ほぇー」
もはや声とも言えない、奇声を上げて、林田は赤らめた顔を見せていた。一方、森原は全然酔っていないように見えて、手元のチューハイを飲んでから、
「さすがに経験者の言葉は重みが違うわね。確か、お若い頃は、北海道に行って、ヒグマも撃ってたんじゃなかったかしら?」
そう言っていたが、よく覚えていると感心した。
「そうだ。ちなみに、本州にいるツキノワグマと、北海道にいるヒグマってのは、全然別物でな。ヒグマは体長が軽く2メートルを越えるし、重いのになると4、500キロ近い。おまけに雑食で、人も襲われる。襲われたら一たまりもないな」
「500キロはすごいわね。相撲取りより大きいんじゃない?」
「ああ。昔、北海道では実際に集落がヒグマに襲われて、数人が亡くなったという悲劇もあったらしい」
確か大正時代頃に、
「でも、今は猟銃の管理とか大変じゃない? 昔と違って、厳しいでしょう?」
すでに、酒が回り、眠そうに
「ああ。昔はその辺の規制が甘かったから、阿仁以外にも秋田県にはいっぱいマタギがいたんだが。今はいちいち警察に届け出たり、面倒になったから、それもあってマタギの文化自体が衰退しているらしい。ウチも、父が公務員になったし、跡を継ぐ人間がほとんどいないから、高齢化が進み、いずれなくなると言われている」
祖父の言葉、そして父の現状。秋田県の人間としては、知っておくべき知識ではあった。
結局、その後も俺と森原は、眠ってしまった林田を置いて、2人でマタギの話に興じてしまった。
マタギ特有の武器や、現代化したマタギの道具の話など。
森原はそれらの話に非常に興味深く耳を傾けてくれたから、話甲斐はあった。気がつけば、午後9時を回っていた。
「ありがとう、山谷くん。とても興味深い話だったわ」
そう言って、立ち上がってから、森原は、すでに寝息を立てて眠っていた林田を起こし、彼女を連れて、テントの方へ歩いて行った。
残された俺は、最後の缶ビールを飲み干してから、焚火の始末をして、水場で歯を磨いてから、テントに戻った。
寝袋に仰向けになってから、改めて思い直していた。
(秋田県、行くか)
と。彼女たちに話をしているうちに、妙な「里心」がついてしまった。
ある意味、これも賢い「森原」の戦略だったのかもしれない。
正確には、阿仁は、現在、北秋田市になっている。つまり、俺の両親も祖父もその辺りに住んでいる。
結果的には、バイクで北秋田市は「通る」ことになるだろうが、俺はせっかくなので、秋田県の有名なツーリングスポット、寒風山パノラマラインに行ってから、北の大地を目指そうと思い直していた。
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