4.鎖で繋がれようと、我が信仰は…

第四十二章 急行する

 聖堂にて跪き、騎士は祈りを捧げる。


「見て。トール師団長よ」


 ふと扉が開き堂内に溜まっていた空気が軽くなったとトールが思えば、入れ替わりに吸い込まれてきた風が自分を呼ぶ声を引き入れた。


「遠征中に負傷され、静養を取られたという話でしたが。お身体の方はもう大丈夫なのでしょうか……?」


 二人の声帯の振動数。若干に傾げた首筋から肩、四肢に掛けて筋肉は緊張。これらを冷やそうと皮膚を濡らした汗は外気を吸収している。


 絡めた掌を解き、鞘を掴む。立ち上がる動作で繋げた姿勢を正す作法。神の御前で執ったトールは祈りの場を鍛錬直後の見習い騎士に譲って退出した。


「「礼拝の最中に、失礼致しました!」」


 何を思っての行動か、通り過ぎようとすると踵を合わせてき、トールはかつりと自身が纏う鎧を止めた。


「……差し支えなければ答えてくれ」


 教会直轄の騎士団長に窺いを、神の面前で立てられるとは想定していなかった二人は敬礼のまま顔を合わせた。


「「な、なんなりと師団長殿!」」


 両者とも実に硬い。教本を模写したような敬礼。


「子爵の出と見受けしたが。二人とも、修道女シスターではなく騎士を希望したのは親の希望か?」


 トールに詰問された二人。

 その内の釣り目の少女は親の意向。目尻が下がった方の少女は志願した、と経緯の理由についてまで答えた。


「お父様やお兄様が治める村は森に近く、魔物による食糧の略奪被害で、民が犠牲になることもあります。私に、なにか力になる事があれば、と思い」


 自ら腰に提げた剣でありながら、騎士見習いの目、この眼差しは恐ろしいモノに憑かれたような向け方をした。


 敬礼でも剣に余計な感情を孕み触る事を意識的に拒んだ少女の態度に関しては、トールは特に助言しない。


 彼女達の家は、相対して恵まれていた。

 位の最低に置かれた男爵家は管理する農村の管理で手いっぱい。次期当主の兄の従者に世話役、召使いの要員として妹を育てる爵位に、人材を外に追い出す余裕はとてもない。


 本当のところ、そうトールに見られた少女の目は逃げるように伏せた。


「精進してください。ここは神の家……我々はその神の敬虔なしもべです」


 扉を開けたまま出たトール。廊下を往く足を忍ばせ、音を待つ。

 

 間は空いたが、厚い礼拝堂の扉は閉まった。まだ迷いはある、自分と他者には猜疑心を持ち言動に表れてしまっても。それでも祈りを捧げようとする自発的な行動は養われていた。


 少なくとも、あの娘には同じ境遇の仲間ができていた。親兄弟からの干渉のないないここでの行動は、全て彼女自身が望むままに反映をもたらす。


 そこに自分が身を置いた意思は、己か他者か。修行を通じてゆっくり見出していけばいい。礼拝堂の地に遺すほどあった膝の跡。


 聖人や聖女、剣聖と讃えられる者の始まりも最初は迷える子羊だった。


「私も見習わないとな」


 誰もいないと歩きながら入り込んだ黙想から、目を開けたトールは足を止めたが。


 相手の方は興味にそそられたと身体で表すかのように歩幅を刻んでくる。


「なにを『見習う』と? 貴方ほどの人間が」

「アン」


 師団長最強、教会内で最も信仰心の厚い信徒でもあった騎士に愛称で呼称された。


「本日は、ああ……この素晴らしい瞬間はわたくしの舌を以てしても尽くしがたいですわ! 毎日毎夜、欠かさず祈りを捧げた女神様――でもよろしいの? わたくしなど所詮、貴方様の威光を背負うしかない使徒の一人にすぎません。こんな祝福を受ける謂われは!」


 静粛でなければ信徒が通るに相応しくない教会の廊下を、感極まって靴音で荒らす第四師団長。


 こうなった彼女は注意しても余計に増長するだけ。

 とりわけトールのような神からの祝福を一杯に受けた騎士に説教されたとなると、戒めのつもりでどんな言葉を多用しても感激に悶える。


「髪をいたばかりなのか」

「よくお気づきに! 今日は天気もいいので。手入れにたったの三時間で済みました!」


 かれた後ろ髪は廊下の隣に広がる花園を写す。

 聖水に育まれ修道女に祈りを込められた草や木、東側の丁度この季節に付けた花は風に舞い、街から吹く風は花びらの多彩さに虹の一筋となって教会を巡った。


 第六師団長・ベガ卿は自慢の髪に虹を描く事に夢中になっている。


「髪、乱れているぞ」

「……――ハァアアアアア?」


 トールの指摘に舞いを踊っていたベガの身体は硬直し、溜め息を吐きながら虚ろが憑依したように項垂れた。


「重傷を負って三日間の療養。貴方には不慣れな経験となりましたわ。そう、たとえば視覚に、とか。後遺症が残ってないか、御考えを持たれてはいかがでしょう」


 柱に頭をぶつけ、ふらふらと旋回するカラスがいつ落ちてくるか不安がる。頸の関節を鳴らしたベガはそんな目をしてトールの正気を疑った。


 第四師団長の放ってきた殺気は尋常ではない。自分が締め上げ嬲ったこの獲物がどんな悲鳴で魂を溶かすセレナーデを謡うか、想像あまって腹まで鳴らしていた。


 腐肉を啄んだ鷲の嘴。形はおろか口許に付いた血の跡さえ見えてくる。

 怯えた様子を心から愉しんでいた。


 聖職を担うには悪癖では済まされない思考は慎め。同期に修行を積み歳も近かったトールは騎士の称号を拝謁するまでは注意してきた。今となっては懐かしい記憶である。


 血の繋がりこそないが、友ではなく姉妹のような絆を培った身に、トールは彼女がこうなってしまったのは自分の責任が足りなかったせいではないかという罪悪感があった。


 貶める気があって。悪意ではなく善意を持ってのただの指摘。トールの心情など重要ではなかった。


 父である教皇に褒められた髪がどうなっているか、自分より先に言った事実自体に、ベガは殺してしまい衝動に駆られていたのだ。


「やや! ベガ卿がトール卿を凄まじい形相で睨み付けているでありマス!?」


 駆け寄ってきたベガより低い影をトールは横目で視認。


「師団長最強の第七と『降下する猛禽アン=ナスル』の異名を持つ第四師団長、まさに一触即発といった緊張状態。貴重な戦闘データが取れるかもしれない、でありマスよ!」


 丸型の黒縁眼鏡を、走った際に傾いたため上げようとした低身長の騎士。


 冷めない興奮に手許が全く狂っていたため、仕方なくトールが代わりにかけ直し手上げた。


「騎士たる者、常に平常を欠けない振る舞いをしろ。私やアルバート第五師団長が言ってきただろう、トネリコ第六師団長殿?」


「おっとと。お気遣いいただきありがとうございマス。いやいや、でも、忘れていたわけではありマセんよ。姉であり、兄お二人の言葉は私の記憶領域でも、とりわけ重要な箇所に暗記されていマス」


 研究対象に遭遇したら抑えの利かない身体、トールの肩に届くか届かないの背に、その背丈に見合う齢の幼い騎士は飛び跳ねて釈明した。


「これはパパが私にだけ見つけてくれた、私の才能でありマスため! 仕方ないのでありマス!」


 言い訳どころか完全に開き直る事にしたトネリコが突き出した頭を、トールは撫でて引っ込めた。


 教皇パパの名を出して言い逃れるとは。対話に狡猾な術を混ぜてくるとは、一体いつそんな性格に育ってしまったか。


「それでトール卿」

「なにかな」


 天の河に雷雲が掛かった。そんな不穏な空気に鼻息を荒くさせた騎士団の情報分析担当の長は、名を呟いたその後にトールにしおらしく、言葉を選び悩むように呟いた。


「お身体の具合は、そ、その……もう平気なのでありマスか。そう思って、よろしいんで、ありマスか……?」

「……聞いたぞ。私を射た矢を、貴殿は解析しているそうだな?」 


 周辺諸国での〈鬼人オーガ〉討伐の任。任務完了の報告以来トールは魔物の製造工場があった山に近い街に逗留。通信はなかった。

 それが、最後の通信から三ヶ月近くが経とうとした時、トールのスキルが観測。


 魔力が嵐となって吹き魔物が跋扈する山に谷を越えた先の『新界教』騎士団本部でも捉えられる、膨大なエネルギーだった。

 

 トールが戦闘状態に、騎士団で動揺が広がるのは必然だった。


 トネリコ率いる第六師団がリアルタイムでトールの発生させた嵐を観測していた、この計測器が突然消失を表した時の動転、なにも判らない虚無感は思い出しただけでもトネリコの全身の毛穴が拡がる。


「私が墜落した地点の修繕の進捗は、どうだろうか。狙って落ちたつもりだったんだが」


 周辺地域に被害が出ないよう、軌道を〈固有ユニークスキル〉で修正を加えながら教会の直上で停止するようにしたが。さすがは〈岩削種ドワーフ〉一の名工の血筋が造り出した未発表の傑作。


 光速を超えて光を貫ける威力を持った一矢を、身体の表面で受け止めるのに脳がいっぱいいっぱいだったトールはどこで計算が狂ったのかもさえ判らず教会の施設内に墜落した。


 死傷者はなし。神の奇跡を言われたが、人か建物か、トールがどちらを壊すか、冷静に判断した故の結果に過ぎない。


「トール卿が教会の建物を優先していれば、膨大な死者が出まシタ!」

「いや、私は私のせいで壊れてしまった建物を直す羽目になった街の住民や、信徒達の苦労を」


 繰り返し確認しようとしたトール。その俯いた顔にトネリコは首を振って示した。


「そうなっては、結局、街も壊れていたでありマス。〝建て直す機会を下さった〟トール卿に、だれも文句は言っていまセン。言えまショウか」


 トネリコの言葉にここでの正解を悟ったトールは、これ以上自分の犯した結果については答えを求めないことにした。


「なぜ、そこでトール卿が笑うでありマスか?」

「……」


 探求の対象が出現すれば、これに即飛び付く貪欲さがトネリコの騎士としての強み。誰であっても向けようとする――トールはあくまで自然に笑みを殺していった。

 つい、だとしてもトネリコの懸命な様子が、彼女と重なって、街での出来事を思い出すのはまずかった。


 教会にだけは、あの少女と少女にまつわる話はしてはならない。だがトロルの事は。


 エイルについて黙っていればトロルが。トロルの事を報告したいのに、それはあの少女の報告をする事になってしまう。


 なぜあの少女に拘るのか。トールはそれすら考え出したばかりだった。

 見習いであればいざ知らず、祈りに縋って、それも集中できず相応しい者に譲り、神に背を向け。


 ならば信仰を貫くため、自分で答えを出さねばと神に誓う。何はともあれ今だけは、トネリコの前でだけは常在戦場の構えで気を張っておかないと。とはいえ。


 遠征に次ぐ遠征。ベガの悪癖の具合も今のような偶然がなければ知れない。


 トネリコとも久しぶりの会話になった。


 これを言えば己の精神に純然な自信を持つ本人の機嫌を損ねる事になるが、乳に下の世話をほかの修道女に混ざってやった想い出が昨日の出来事のようにトールの心をくすぐる。


 今度は、いつこうして話せるかと、なんでもいいから会話を広げたかった。


「それにしても、貴殿達が連れ立って歩いているなんて。珍しい事も起こるんだな」

「任務です。トール卿、わたくしからも一つ、よろしい?」

「改まってだな、まあいい」

「コンコ師団長とは、お逢いになられました?」


 ベガの口から思いも寄らなかった人名が登場した事に、トールは訝しみついトネリコに視線を振った。


「なんでも稀少な魔獣が発生したとの事で、調査に出ているのでありマスよ」

「わたくしもこれから合流に向かいますの。自由奔放が無鉄砲という形で出がちで、周囲を引っかき回される方ですし。趣味も大概にしてほしいですわ」


 肩が重いと態度で示したベガ。そんな彼女の肩をトールは持ちたいが、自分も事後承諾で他の市街に滞在したので今一つ口を挟みづらかった。


「時間も押していると、私はベガ卿に現地の情報を歩きながら説明していたのでありマス!」


 外交を担う第四師団と分析担当の第六師団長が連れ立っていたのは偶然ではなかったというわけか。


 布教に周辺諸国に教会を設置する段取り、異教徒の蔓延を調査するのがベガの師団に神が与えた任務。


 その特性上、教会の人間が国境や周辺の領地を越境する権限は第四師団が一括で管理されている。


 騎士コンコが団長を務める第二師団と、第四師団は水と油の関係だった。

 第二師団の運営上、魔獣の捕獲は欠かす事はできない。


「魔獣が相手でもベガ卿なら問題ないでありまショウ?」


 軽い口調で笑ったトネリコ。


 そこに一匹の蝶が。花畑で蜜を吸い、ヒラヒラと落ちるように飛びながら重くなった腹を休ませられる場所を探していた。


「魔獣? トネリコは可愛い冗談を言いますのね。わたくしのスキルを知るなら、判っているでしょう」


 ベガの肩に止まろうとした蝶は畳んでいた脚を広げた。


 止まり木が突然透けて、蝶は困惑し急降下する。


「トール卿の剣でも、わたくしの身体には届きませんでしてよ」


 中央に立つベガの身体の向こうにいるトネリコの姿がトールには視える。

 そんなトネリコの手は透明のまま、自分に張り付こうとした蝶を叩き落とした。


 翅が千切れた蝶は地面の衝撃に呆気なく潰れた。


「教会内でスキルを使うな」

「勝手に発動する、だから仕方ありませんわ」


 無闇な殺生を神の家でしないようトールは叱責しただけだった。


「コンコ卿にしたって。調査にかまけて連絡を取ろうとしないのはいつもの事です」

「しかし今回はわけが。私も、さっきはああ言いましたが。ベガ卿も十分注意してくだサイ!」

「どういうことだ?」

「トール卿……」


 喉奥からせり上がる感情を堪えるように言ったトネリコによれば。

 コンコの位置が探知魔法に掛からない。彼女が最後に観測された地域の状況も、トネリコの術を以てしても、空白としか捉えられなかった。


 一つの国が秒読みで消失したのではない。


 初めから何もなかったとしか説明が付かなかった。


「本当に、お見掛けしてないでありマスか!?」

「私も、遠征で長らく席を空け卿には」


 逃げるようにトネリコの追求からトールは離れた。


「なんだか。トール卿らしくありまセンでした」


 探求心が騒ぐが、トネリコも今はそれどころではない。


 トールから得られないなら、別の場所から情報を収集するまで。


「しかし。遠征で忙しく……だから聴いたのに」


 時間を一刻でも無駄にしたくないベガは踵を返す、目的地――


「街ごとコンコ卿が消えた。そこに最も詳しい情報を持っているのは、その遠征とやらで滞在していた、貴方なのですから」


 ――あらがねの街。

鋼骸鉱炉ステルヌム・オス・コスターレ』を目指して。


☆★☆


「お待たせしてしまって申し訳ありません! 依頼書をお持ちしました」

「…………」

「? ――


「……、えっ?」


 名前を呼ばれた気がして。


「ああよかった。もぅ、いきなり黙ったりしないでくださいよ~」

「え、あ……すいません」


 やれやれと肩を竦めた受付嬢に、ぺこぺこと頭を下げる。


 そんな白い装束ローブを着た少女を側で見ながらソレは、彼女は考えていた。


 これは、誰だったかと。


「ハァ……ハァ。寝ぼけたエイルも、かわいいな……ッ!」


 目線が上下に揺れた。拭った拳を見れば、興奮のあまり破裂した毛細血管から噴いた血で真っ赤。


「こらこらシノさん、鼻血こぼすんなら後で床、ちゃんと拭いておいてくださいよ? 朝一番に掃除したばっかりなんですから!」


 カウンターを叩く受付嬢そっちのけで、視線はローブの少女に釘づけだった。


 シノ。それが自分の名前だっただろうか。


「シノちゃん、はい」

「えええええエイルが! わたしにハンカチを!! ぐはぁあ神!?」

「シノちゃん!」


 止血用にと清潔な拭き物を渡してきた少女に、鼻の形が変わってしまうほど出血。目の前で天地がひっくり返った。


 少女は必死に呼び掛けるが、シノは日光に焼かれた蛙のように手足をぴくぴく痙攣させ。当然だが声に応じる事もなかった。


「シノちゃん! シノちゃんしっかり!」


 身体を揺すった少女の手にも血は付いた。だが出血は、少女の〈固有ユニークスキル〉ですでに止まっていた。


「朝から105エイルは、わたしには刺激が強過ぎる」


 謎の単位に戦慄を囁くシノの目線が少女の高さまで立ち上がった。


「相変わらずのシノさんの出血量と、とんでもない……エイルさんのスキルですね」

「エイル……」


 忘れていたわけでもないというのに、思い出すようにソレ、彼女……エイルは呟いた。


 シノ。〈鬼人オーガ〉である友人には、所以あって一時的に視覚を共有、視えない自分に目の代わりになってもらっていた。


 両目を覆った白い装束ローブのこの少女こそ、エイル=フライデイ。

 ――私だ。


「E級ですと、今は受注可能なご依頼が一つしか届いていません。大抵、一週間待てば掲示板に新しい依頼が張り出されますが。どうされます?」

「もうちょっと、待ってくれませんか」

「決めないのか?」


 肩を優しくは叩くが、急かしたいシノの考えを事前に読んでいたエイルは苦笑して首を縦に振って、受付嬢に向き直った。


「まだ、全員揃ってないので」

「あいつの意見なんて聴く必要ないだろ……」

「シノちゃんたらまたそんな……あ、来ました!」


 カメムシを前歯で噛んだような顔をしたシノ越しに、エイルは扉の開く音がした冒険者ギルドの入口を見た。


「……寝坊した……」


 棒立ちに兜の裏をまさぐっていた手で髪を掻く大男。

 ギルドの集会所で彼にふり返った全員が、失神魔法を受けたように固まって、それがどうしてか判らず男は首を捻る。


「おい……貴様」


 シノが男に迫った。身体に張り付く岸壁を剥がすが如くの動作で。


「なんだその恰好は!?」


 独活の大木のように両足を付けていた男の鳩尾に肘を一発、吹き飛ばされた隙を突いてげしげしと足をシノは振り下ろした。


「その姿で! 街を! 出歩いたのか! ――頭が可笑しくなりそうだ! こんな奴がわたし達のパーティーにいて、こんな奴をエイルは待っていた! これは悪夢だ! 悪い夢! そうだそうに、決まってる!」

「シノちゃんがご乱心めされた!?」

「みんな離れろ! 巻き込まれると命はない!」


 退避する冒険者やギルドの職員達に流されながらも、エイルは近づいたシノを宥めた。


 そして、倒れるまま蹴られた大男は、差し伸ばされたエイルの手に掴まり立つ。


 確かに目のやり場に困る。兜に腰当とそれ以外は剥き出し。筋肉がぎっしり締まった腰の辺りと鋼のような胸板をしていた。

 父親以外の男性の裸の上半身を、ここでも間近に見た記憶はなく、前世にもまたエイルにはない。だがどういうわけか。


 エイルは判らなかった。


 恥ずかしい、そう思う必要は、彼の前ではないはず。


「お、おはようございます。ヨ、……」


 彼は見下ろしたエイルが口を噤んだ事に不思議そうな顔をした。


「エイル?」


 奇妙に思われても仕方がない。エイルの頭に過るのだ。


 女神の計らいで、異世界に転生。生まれ育った村を出て、冒険者として独り立ちして、この『鋼骸鉱炉ステルヌム・オス・コスターレ』で彼やシノと新しい生活を始めた。


 ――何も間違ってなんかない。


 だけど繰り返し繰り返しても、エイルの目の前が霞む。

 たとえば、なんて妄想に。


 たとえば、自分は世界中の人間に追われる大罪人。誰からも逢えば命を狙われ、ここまで何人ものの手で傷つけられ、死ぬに相応しい目に遭った。シノや彼も、自分が生きているせいで命の危険に晒された。


「エイル……?」


 心配する彼、ありもしない妄想に囚われていたエイルは、そんな彼の名前を呼ぶ事はできなかった。


 彼の名前には、妄想を現実にする力がある気がしたから。馬鹿な妄想だ、下らない妄想だ。


 笑い飛ばしたエイルは言う。シノに冒険者ギルド、街中に聞こえるように。

『彼』にも。


 なんでもないです、と。つい出来心で。

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