「アンカーの成立」

倉橋くらはし。あんたはこの世界をどうしたい?)


 そう問いかけるのは『惑星科学ラボ』とロゴデザインの入ったガラスに数式を書きこむ男性で、その向かいで椅子に腰掛け『ブラックホールのその先に』と、タイトルの入った本を読んでいた女性は(ふむ?)と答え顔をあげる。


(どうもこうも、私の目標は人がより生活しやすい環境を整えることだ…ただし、その物差しはひとそれぞれであることが前提にあるがね)


 そう言うとは倉橋と呼ばれた女性は本を閉じ(…それに付け加えるのならば、人が想像したものは全て実現可能だと私は思っているよ)と答えてみせる。


(そのために必要なものは3つ。ひとつは準備のための資金。もうひとつは叶えるだけの技術。最後のひとつは…そう、時代だね)


(時代?)


 問い返す男性に(そう、時代)とオウム返しに答える倉橋。


(私たちはその点において現在大変恵まれた状況にいる。プロジェクトのために集められた潤沢な資金。有能な研究員にエンジニア。それらの事業を包括し、後進を育て、後押しができる時代。怖いぐらいに上手くいっている時代だ)


 それに男性は(そうだな)小さくうなずきペンにキャップをはめる。


(確かに…俺のようなコミュニケーション不足の人間は、ほんの30年ほど前までは、使えず価値すらない人間として、社会の片隅に追いやられていたからな)


 壁に書かれた複雑な数式。その先には何枚もの写真が貼られ、彼が開発したと思しき小型のドローンやコンシェルジュタイプのアンドロイドなどが写り込んでいた。


(あれはひどい時代だった。経済の混乱と貧富の格差。気候問題に戦争。不安と恐怖で疑心暗鬼になった人たちががさらなる弱者をいじめる時代…最悪だった)


 中途のままの数式に手を当て、憂い顔になる男性。

 考えにふけるあまりか、持っていたペンがカラリと床に落ちる。


(俺も、保護されるべき鼻つまみ者として行政をたらい回しにされて、その後に長期プロジェクトのための技術者を集めていた倉橋に出会うまでは、毎日が悪夢以外のなにものでもなかったよ)


 その言葉を受けて倉橋はペンを拾い上げると(だが、そこから先は良い方向へ社会の回復もめざましいものになったじゃないか)と、彼にペンを返す。


(悪夢を乗り切った先に何があったか。国際法の抜本的改革と、宇宙開発時代の再来。平和で安全な情報共有社会の実現のために結ばれた条約とそれに伴う教育の大幅な見直し…そして今、自分たちが、自分たちらしく生きれる社会を、夢を実現できる社会を作るために私たちは、ここにいる)


 男性はそれに(そうだな)と、ほんの少し微笑みペンを受け取る。


(そうそう、アカデミーの公式発表によれば、今後、宇宙艇を使った惑星開拓に自分の意思で姿を変えられる遺伝子操作人間デザイナーベイビーを投入するらしい。連中に先をこされる形になっちまったが、これから先は空間移動装置の時代となるはずだ)


 そして最後の数字をキュッと書き込み、ペンを閉じる男性。


(これは俺と倉橋くらはしで完成させた空間移動理論の集大成。この式は将来的に宇宙への舵をきる大元になるはずだ。名前はそう『アンカー』とでもするか?)


 そう言って振り向く男性に(良いじゃないか)とうなずく倉橋。


(楽しみだよ、五月雨サミダレ。装置が完成したあかつきには私が最初に乗り込もう)


 そして、二人が握手をした途端…辺りの景色は一変した。


(どうした、実験は失敗か?それに、私の体はどうなった)


 星々に囲まれた宇宙空間の中、クラハシの体は浮き、透けていた。


(『アンカー』の移動先は月のはず。地球内での移動も問題なく行えていたはずなのに、これは…どういうことなんだ?)


 困惑するクラハシ。その横を小さな光のようなものがすり抜けていく。


(今のはアンドロイドを構成するナノマシン。方角は地球か…?)


 ついで、ナノマシンは近場の星へと落下するとあらかじめプログラミングしてあったのか大気中の物質を集め、構造を組み立て直し、さらに無数のナノマシンとして地上へ降り注いでいく。


(これは、おそらくさらに増殖して地表を覆う。五月雨と話した『アンカー』のプログラミングと矛盾しない動きだ)


(…だが)と困惑するクラハシ。


(どうして私がここにいる。それに、この視点は…)


 ついで惑星を囲ったナノマシンが一斉に発光をし、その映像がいくえにもだぶっていく。


(惑星の形がどれもそれぞれ違う。もしや、地表に降りたナノマシンの映像が全て重なって見えている…!)


 ついで、クラハシがいたのはホタルも見覚えのある白い部屋の石棺内。


 目を覚ますなり、体を起こすクラハシだったが、弾みで石棺の内部と体を繋ぐ無数のコードの接続が剥がれ落ちる。


(なんだ、先ほどの映像は。私に…何が起こった?)


 混乱した様子のクラハシの手首に不意に回路の模様が浮き上がると、そこから齢をとった五月雨の姿が空中へと投影される。


《すまない、このような形の会話となってしまって》


 そう言って頭を下げる五月雨に(待て、何の話だ五月雨?)と問うクラハシ。


(私に、何があった。そして、ここはどこだ?)


 その質問に五月雨はため息をつくと《冷静に目を覚ましたなら聞いてほしい。君は50年前に行われた『アンカー』の実験の際、コンシェルジュたちのネットワーク混線により、肉体が消滅してしまったんだ》と答えた。


(消滅?なぜだ、私が設定したのはあくまで月であって…)


 それに五月雨は《そう、コンシェルジュの中に搭載された『アンカー』が無事起動すれば、君は生体データと記憶をトレースされた状態で月面基地へとされるはずだったんだ》と声を落とす。


《しかし、事前に『アンカー』となるために各星々に打ち上げていたナノマシンが起動と同時に一斉出力を始め、結果として君の肉体は形を保てなくなり、そのままこの世界からメモリごと消滅してしまった》


(そんな…!)と答えるクラハシ。


(では、なぜ今の私は生身ではなくアンドロイドの体なんだ?)


 それに五月雨は《それは君のバックアップメモリがかろうじて残っていたのが、コンシェルジュタイプのアンドロイドだったからだ》と答える。


《先ほども言ったが、一斉出力のせいでアンドロイドに内蔵された君のデータが消失してしまった。かろうじて残ったメモリーにも情報に欠損が多く、50年ものあいだ俺も必死に肉体を再生しようと試みたが、この体たらくでな》


《それにな》と続ける五月雨。


《データ消失の副次的な作用か、惑星間ネットワークの通信システムが四半世紀ほど使用できなくなり、経済は不安定。あげく、あの悪名高いオオグマの弁護士連中にことのしだいを嗅ぎつけられてな、多額の賠償請求と特許の一部を、惑星空間委員会に売り渡したが、最終的には自己破産することになってしまったよ》


(それは…辛いことをさせたな)


 謝るクラハシに《別に良いさ》と五月雨は続けた。


《俺は倉橋と過ごせた時間が一番楽しかったからな。保身より何より、俺は、俺のできることをしたいと思ってしたまでだ》


 そう語る五月雨の映像に何度かノイズが走る。


(…で、本人オリジナルは今なにをしている)


 その言葉に映像の五月雨は《ああ、気づいたか。死んだよ、昨年に》と簡潔に答える。


《まあ、生前に医者の薬でアレルギーを起こしてから、医療機関にかかることをひどく嫌っていたからな。死因は過労による心筋梗塞。見つかったときにはすでに事切れていて、残ったのは俺というバックアップメモリぐらいだ》


(…そこまで、私のことを気にかけていてくれたということか)


 そう、独りごちた倉橋はふうっとため息を吐くも、そこに《で、これから倉橋はどうする?》と五月雨が聞いてくる。


《さっきも言ったが、被害がサーバ全体に及んだからお前さんの個人情報はほとんど残っていない。かろうじて、アカデミー管轄の惑星環境委員会に除籍名目で名前は残っているが、この50年でずいぶんと入れ替わりもあったし、事実を知る人間はいないと思った方が良いぞ》


(…そうか)


 言うなりクラハシはすぐに棺から立ち上がり(じゃあ、これからどうするかは私次第だな)と、何かを決心したかのように室内を見渡す。


(ある意味、私はここで生まれ変わった。しかも、その肉体はネットワークと『アンカー』に繋がったコンシェルジュ型のアンドロイドだ)


《使うのか?自分の肉体を失ったシステムだぞ?》


 その言葉を受け、五月雨が疑問を投げかけるもそれにクラハシは(…ああ)と答える。


(なにせ50年も時代に取り残されていたんだ。学ぶべきこともたくさんあるし、こちらのほうで取れる責任は取っていきたい)


 ついで、彼女の体がナノマシンの性質により次第に生身のものへと置き換わり完全に皮膚が形成された瞬間、(それにだ)と続ける。


(生きている限り、世界と向き合っていきたい。自分が自分である限りは)


「…だから、ここは私の起点スイッチなんだ」

 

 クラハシの言葉が、そう耳に届いた気がした。



 

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