リマージナル・サマー

津上座

第1話 初夏

◇1




 雨が降っていた。

 雨とも言えない、とても細かい霧。次第に強まっていくことが朝の時点で予報されていた。

 そんな雨とは不釣り合いなほど大きい傘を広げ、いつも通りの速さで歩いている。


 午前8時15分。1限開始まで15分。

 自宅から学校まで歩いて20分強かかる僕に時間的余裕なんてない。どころか逆方向へと歩を進めていることは、はた目からすれば致命的に思えるだろう。


 だが遅刻の心配なんて少しもしていない。

 こちらへ歩く僕の目的地はバス停である。地図上で見れば遠回りしているように見えるが、結果的には五分ほど早く着く。

 我ながらなんとも贅沢な奴であるが、慣れとは恐ろしいものだ。雨の日にバスを使う頻度はどんどん増えていた。



 だが、それもこれも丁度今横を追い抜いて行ったバスに間に合えば、の話である。



 件のバス停までは、まだ300メートルはある。


 ……いつかはやらかすと思っていたが、そうか今日か。

 走ろう、なんて気持ちは微塵も湧いてこない。

 そうするための何かが、もとより自分には決定的に欠けていた。


 自覚している。でも何が足りないか、僕には分からない。

 世界は世界で。目に見えるそれが全てで。それなのに、マンメイドの作品のようにどこか歪で、足りない何かを求める感覚は止むことがない。大人になってしまえばすべて解決するだろう、そんな何かを。


 今抱えている嫌な思いだって、どうせ時間が解決してくれる。

 僕らは、世界の潮流にただ流されているだけ。それでいいんだ。

 義務なんて、責任なんて、負いたい奴だけ負っていればいい。



 かなり遠方で停車したバスの姿を認めた後に、自分が今まで歩いてきた方向へ振り向く。


(……どこ行こうかな)


 冷静になると、さっきのポエトリック自己正当化が虚しくなってきそうだ。

 この年になって恥ずかしい、という感覚は僕にだってある。


 何はともあれ、そうして僕――津島与一は今日のサボりを決めた。



――――

――



「こちらのものでお間違いないでしょうか?」

「はい。ありがとうございます」

「中身もご確認できましたら、こちらの書類をお願いします」



 6月2日。

 

 梅雨全盛に入ろうかとするこの頃。バスを逃した後、都会の駅まではるばると出張ったのは先日の忘れ物を取りに行くためだった。四苦八苦しながらも目当てのものはしっかり回収することができた。

 帰り道の途中で、僕は照り付ける空を見上げていた。

 掻いた手汗を制服のズボンで拭い取ってから、ポケットから手早くスマホを取り出す。


「……降水確率100パーセントじゃなかったのかよ」


 朝の時点では午後まで横一列に傘のマークを躍らせていたはずの液晶。そこに映るのは顔の付いた太陽だけ。やけにその笑顔が馬鹿にしているように感じる。

 曇りですらない。……これは訴えたら勝てる気がする。


 周りの通行人に傘を持っている人はほとんどいない。手からぶら下げた大きめの黒い傘はかなり浮いている。

 今朝の雨で湿ったアスファルトの臭いが苛立ちをさらに強めた。


 溜息をついて高性能な役立たずをポケットに突っ込む。

 そして学生鞄の中へと手を突っ込み、受け取ったものを取り出した。


 ペラペラで安っぽい作りの迷彩柄のポーチ。

 僕がいつも外出する時にこまごまする物を入れておくものだ。


 今、中に入っているのは、ペン、クリップ、それとメモ帳――これを電車に置き忘れた日に書いたメモが残っている――だけである。

 我が高校において毎年開催される謎の講演会の日だ。金髪ロン毛で中年の特別講師が言っていることは毎年意味不明かつ面白くない。生徒から不評イベント堂々のナンバーワンだと僕は思っている。なぜかなくならないけど。

 メモに遺言のように書いてある摩訶不思議な文字は、講演で話された量とは明らかに釣り合っていない。僕があの日電車で疲れて寝過ごし、これを置いてきたのは仕方のないことだったのだ。



「……はぁ」


 そんなこんなで暑い道中、だいぶ汗をかきながら家に帰ってきた時にはもう夕暮れ時だった。


 いまだに冬場の癖で、ドアノブより先に外に置いてある郵便受けを開ける。先に違うものに触れて置けば静電気も怖くないという寸法である。

 大抵何も入っていないからすぐに閉めるんだけど……あれ?


 ひやりとした感覚が指先に伝わる。

 郵便受けの底に何かが入っている。


「……?」


 薄く縦長で、手のひらよりも小さい。それに……固い?

 人差し指と親指でつまんで拾い上げた。黒いそれを裏返すと、液晶のディスプレイと三角四角……ああ、なるほど。

 これは――小型の音楽プレイヤーだ。

 今や携帯電話が音楽プレイヤーの役割もこなせる時代であり、物好きでもなければ必要になる場面のない代物である。電気屋に行けば見かけるだろうが、買おうと思ったことはない。


 なぜこんなものが家の郵便受けに入っているのだろうか?

 僕以外の2人が購入したもの、なんてことはないだろう。いかに運送業界が人員不足だとしても、商品をむき出しのまま送ることはないはずだ。

 それに裏面をよく見ると、これは明らかに新品ではない。ほとんど背面と同化しているメーカーのロゴのところ、隠し味程度に振られた塩のような金の点々が付いていた。恐らく金の塗装部分が剥げたのだと分かる。


 後で心当たりがないか聞いてみよう。


「ただいま」


 叔父さんも広夢もまだ帰ってきていないだろう、という当ては外れる。玄関先には僕の革靴よりも一回り小さいスニーカーが、綺麗に整えられた状態で置かれていた。


 靴の持ち主――広夢は形式上僕のいとこにあたる。

 従妹ではなく、従弟であるうえ、仲のいい関係でもない。一部の人が胸躍らせるような境遇とは程遠い。

 広夢はともかく、確執があって嫌っているわけではないのだ。成長してからできた同居人といきなり仲良くなるのは、壁の崩し方が分からず結構難しい。もう何年たつのか分からないけど。


 玄関を抜けてすぐはリビングだが、人の姿はなかった。恐らく自分の部屋にいるのだろう。

 深く気にせず、僕もさっさと2階の部屋に向かう。ドアを開けた途端にこもった熱気が全身を襲ってきた。いつも通りの動作でエアコンをつけるが、遠出の疲れも会ってもう限界だ。今すぐベッドに寝転がりたい。

 だが今の汗だくの状態でそれは許されざる行為である。最後の余力を整頓されずに散らばっている参考書や教科書を横に避けることに使って床に寝転がった。ブレザーをハンガーにかけるような気力はもうない。

 そうして心地よく意識を……。



 ……お腹空いたな。



 う、動きたくない。だが意識してしまった以上、頭はそれでいっぱい。眠れるわけがない。

 横になったまま、ワイシャツと制服のズボンと、後は汗の掻いた下着をのっそりと脱ぐ。白ティーシャツとスウェットという格好に着替える頃には諦めた。

 エアコンが効くまでは部屋にいても暑いだけ、そう自分に言い聞かせる。学校用に使っているリュックサックから財布を取りだして、洗濯物を持って部屋を出た。


 さっきまでいたのに熱気でクラクラしそうだ。冷気を閉じ込めておくためにも、部屋のドアはしっかり閉める。

 階段を下りて一階の洗濯機に下着とワイシャツとを放り込み、前のハンガーにズボンを吊るす。冷蔵庫を開け、キンキンに冷えたお茶を取り出す。暑い時期にこれ以外の選択肢はあり得ない。


 コップにお茶を注いでから、スマホのロックを外して通知を確認すると――何か来てるな。

 タップしてあまり役に立っていないメッセージアプリを起動する。知り合いの数が5人、同居人を除けば3人。つまりそういうことである。

 新規メッセージは2件。

 先ほど写真を撮って載せておいた、音楽プレイヤーに関しての返答であった。


『この音楽プレイヤー知ってる? 郵便受けのところに入ってたんだけど』


『うーん……ごめん。分からないや』

『知らない』


 僕の送ったメッセージに対して、少し時間をおいて叔父さんが答え、叔父さんが答えたすぐ後に広夢が答えていた。


 しかし、二人が分からないとすると――いよいよあれは何なんだ。

 どこか見たことがあるような気もするし、そもそも知り合い以外がこんなことをするとも思えないし。


 ま、考えたって仕方がない。それならそれで有効活用してやろうじゃないか。

 あることを思いついた僕は、お茶をぐっ、と飲み干す。さっきの音楽プレイヤーがリビングの長机にそのままであることを確認し、もう一度階段を上って自分の部屋に戻る。


 確かここら辺に置いておいたはずなんだけ――お、あった。

 適当に機械・コード類などを一纏めにしているケースの中から、ある白い箱を取り出す。衝動買いしたのに、端子の違いで携帯に刺せず埃をかぶっていた少し高めの有線イヤホンである。箱の中にそっくりそのまま入っていた。

 それを持って部屋を出る。


「晩飯買ってくるけど……なんかいるか?」


 広夢の部屋の前を通り過ぎた際に、部屋の中にいるであろう広夢に声をかけたが、案の定返事は返ってこない。

 分かってはいるけど、一応ね。どうせ自分で何か買っているだろう。

 ささっと一階に降りて、音楽プレイヤーを掴んでポケットの中に入れる。


 僕もさっさと買ってきてなにか食べよう。もうモタナイ。ゾンビ化スル。


 玄関で使い古した白いスニーカーを履いて、ドアを開けて外に出る。財布から家のカギを取り出して施錠はしておいた。

 外は帰ってきた時よりいっそう日が沈んで薄暗く、というかもうあと何分もしないうちに辺りは真っ暗になるだろう。玄関先の常夜灯ももう点いているし。

 この辺りはそんな人通りの多い場所ではないため、家を出たばかりの道は明かりもない。遠くに見える雲とそれに少しだけ絡まった赤い陽がお世辞にも綺麗とは言えない、絵心のない僕が美術の時間に描いたグラデーションのように混沌としていた。


 僕はズボンのポケットからユーズド感溢れる音楽プレイヤーを取り出し、ジャックにコードを指して持ってきたイヤホンを耳にはめた。


 電源が入るかどうかはさっき確認しておいた。

 暗い中に、背面と同じロゴマークがディスプレイの光で浮かび上がる。

 さて、どんな曲が入っているのだろうか。唯一入っている『タイトルなし』のフォルダーを選択する。


 あれ?


 フォルダーの中には『不明』と書かれた曲が入っていた。しかしそれは一つだけ。

 デフォルトで入っているであろう曲なんかもすべて削除されている。この端末の中の曲を聴きながら歩こうと思っていた僕の当てはいきなり外れた。

 だからといってこのイヤホンでは携帯に挿すことも出来ない。


 しょうがない、と機能欄の所にあったループ再生の機能をオンにしてから、僕は曲を再生する。


 今夜は熱帯夜。

 たまに吹いてくる風がすきっ腹を通り抜けていくのは特別に気持ちいい。それぐらいは我慢するさ。


 両耳へ流れるそれは、歌のない曲だった。

 落ち着いたテンポで、それでいてとびきりノリノリで、分かるようで分からない掴みどころのないような曲で……夜に出歩くのには最高だ。

 不思議と涙が出るような懐かしさを感じたのはどうしてだろう。


 近くのスーパーまでは歩いて10分弱。人が通らないような裏道を音楽のリズムに合わせて、僕1人だけが存在する世界で体を揺らしながら歩いた。


 人に会うこともなく、ノリノリの気分のままで目的地まで辿り着いた。他の建物に比べて圧倒的に光っているからわかりやすい。

 スーパーの中は流石にまあまあの盛況ぶりだ。僕は音楽を止めずに、他人に気を付けながらささっと弁当のコーナーへと向かう。

 今日の日替わりは……アジフライ弁当か。まあ悪くないしこれでいっかな。あいや、やっぱこっちの新作のコロッケの方にしよう。よし決定。

 もはや僕のお腹の調子も限界近く、悩んでいる暇はない。経験上、新作買っとけば結局正解。たとえ美味しくなくても美味しくないという新発見があるからな。


 菓子パンやスナック菓子の誘惑を断ち切り、レジではきちんとイヤホンを外してコロッケ弁当を買った。

 いつもの習慣でレシートを受け取る。

 財布は覚えていないぐらいずっと前から使っていて、ぐちゃぐちゃぎっしり。何か固い物に引っかかって上手く入らないことさえある。

 整理する気なんて、ね。もはや起こるわけがない。


 財布をズボンのポケットに再度突っ込んで、イヤホンも付け直す。弁当としっかり貰った割り箸が入ったビニール袋をさげてスーパーを出る。

 ……もう真っ暗だ。

 そんなに長居していたわけではないが、もうすでに日は沈んでしまっており辺りは完全に真っ暗になっていた。

 物凄く明るい場所にいたせいで目が慣れていっそう暗く感じる。

 僕は再度音楽をかけなおして、行きと同じようにゆらゆらと体を風に任せるように歩き出した。そんな格好いい感じではないだろうけども。


 行きとは少し違った道を通り、ちょうど帰り道の途中で古い公園に差し掛かった時だった。


「痛っ」


 目を瞑って歩いていたら、道路の小さな段差に思いっきり蹴躓いた。

 躓いた拍子にポケットに入れておいた音楽プレイヤーとイヤホンとの接触が悪くなったのか、流れていた音楽がプツンと止まった。

 有線だとよくあるんだよな。イヤホンはともかく機械の方は新しくはないだろうし、しょうがないことなんだろうけど。


 単なる接触不良だろうと思って何度か刺し直してみるが、なぜか一向に音楽は流れてこない。何度も試行しているうちに、スーッと昂っていた気持ちが一気に冷めていく。

 はあー。まあいいや。

 それ以上音楽を聴くのを諦めてイヤホンをポケットにしまった。



 …………代わりに耳に入ってくるのは圧倒的なまでの静寂。沈黙。無音。



 感情の落差によってか、夜の闇はより暗い。

 それ以上でもそれ以下でもない、さっきまでと変わらないはずの僕1人だけが存在する世界。見慣れているはずの夜の街、のはずなのに。

 世界が広すぎて、ひとりである自分に恐怖を抱いた。


 まるで何かに警戒を促すかのように、必要以上に研ぎ澄まされた五感がどんどんと頭の中をいらない情報で埋め尽くす。

 なにか、変だ。


(……!?)


 そして目の前の光景に、踏み出そうとした足さえも止められる。

 目の前の壁沿い、公園入口。車止めの逆U字のポールに、いつのまにか『あの』黒衣の少女が座っていた。

 組んで宙に投げ出された足は、切れかけた街頭に照らされて雪のように白く、変わらない黒衣と長すぎる黒髪がよりいっそう際立っている。顔はよく見えなかったが、それだけですぐに先日の少女だと分かった。


「……何なんだよ?」


 心臓が鼓動を打つ速度はいつもよりも早くなっていく。先日通りの強烈な存在感、違和感を醸し出している少女に対して、しかし自分が嫌悪といった類のものを一切抱いていないことに驚く。

 少女は僕の声にはやはり答えず、ふっ、と軽やかに立ち上がる。


 そしてこちらを向き、――酷く綺麗で感情の読めない微笑みを浮かべた。


 ……分からない。少女が何をしたいのか全く分からなかった。

 そんな状況に混乱する僕を置いて、少女は公園の中へと静かに歩いて去っていく。


 その場に取り残された僕は少しの間、もう見えない彼女の姿を目で追い続けていた。

 しばらくしてやっと、自分が握っているビニール袋とその中身の存在について思い出す。原始的な欲求も、もはやどこかにいっていた。


 早く帰ろう、そう思った時だった。



 ――ザ……ザザ……ザザ。



 何かがズレたような、世界のルールが変わってしまったような、感じたことのないような悪寒が体を駆け巡った。


 鋭敏化していた五感の中で、まず初めに違和感を訴えていたのは公園の周りに植えられている草木を感じていた嗅覚であった。


 息を吸い込んだ鼻の奥に――こびりつく鉄さびの臭い。


 カチリ。すぐ近くの大通りの赤信号が青に変わる。

 瞬間、曲がった車のフロントライトは僕の周りの景色を一瞬だけ明らかにした。


 そしてコンマ何秒かの後、少女を追っていた視覚が異常をはっきりと捉えた。

 瞬間のうちに世界は固定され、刹那を無限に引き延ばす。


「……はっ、ふっ、はっ」


 呼吸が荒い。

 自分の体が自分でコントロールできなくなっていく。

 視界は大地震が起こっているのかと錯覚するほど定まりを欠いていく。

 辛うじて網膜の奥へと像を結ぶ。

 それがなんであるのかを脳が拒否して受け止められない。

 額から汗が大量に噴き出る。

 オーバーヒートを起こした機械のように頭の中は熱い。

 ただただ呆然と目の前の惨状を見つめることしかできない。



 ――それは『人ではない』、人だった。



 左足。

 右足。

 左腕。

 切断、されている。

 唯一残った右腕が握るべっとりと血の付いたのこぎり。

 乱雑に置かれた左手が奇妙なものを描いていた。


 意味が分からない。/見覚えがあった。

 ただその死体から感じるのは、何かを歪にずらされているような嫌悪感だけだった。


 永遠にも思えるこの空間の中で、必死に後ずさりをした足が自分の足に絡まる。


 浮遊感の中、さらに狭まる視界の奥に、映る人間。


 死体から黒い『ナニカ』が溢れ出して――光が通り過ぎたように僕の視界は暗転した。



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