水の中のグラジオラス

なつめ晃

第一章 真幸

第1話

今日はテスト最終日なので、いつもとは違う早い時間に駅へと着いた。

「楠木!」

「よお」

ホームに上るとクラスメイトが近づいてきた。

「ひとりか? 珍しいな。いつも一緒の弟は?」

博人ひろとは、部室に顔出してから帰るって言ってたからな」

同じ高校の一学年下の博人はサッカー部だ。

ふうん、と言った後、周囲を見回してから声をひそめて、まわりに聞かれないように顔を寄せてくる。

「おまえ、陸上部の子、振ったんだって?」

情報早いな。ついさっきの出来事だっていうのに。

「可愛い子なのに、なんでだよ」

「…髪の長い子、苦手なんだ」

それだけかよ、と呆れたように言われたが、生理的にダメなものはダメなんだ。


昔から苦手なのが海と長い髪の女性。

時々、女性の髪が腕や身体に絡みついて海で溺れる夢に、苦しくて目が覚める。

親に話すと、子供の頃、海で溺れかけたことがあって、そのせいだろう、と言われた。

鎌倉にある父方の祖父の家に行った時らしいけど、全然覚えていない。

だいたい、俺は4歳以前の記憶がないんだ。

最初の記憶は、白い部屋。

ベッドでぽつりと一人でいると、赤いミニカーが目に入った。

初めて見えた色のついたものがそれだった。

赤いミニカーを見つめていると、小さな手が見えて、手から腕、肩へと辿っていくと色白の小さな顔が見えた。くっきりとした二重瞼に左目の下に小さなほくろ。少し薄い茶色の目が、俺を見つめていた。

博人だ。

差し出されたミニカーを受け取ると、その小さな手でぎゅっと手を握られた。

その瞬間、世界に色がついて、今まで見えなかった母親や医者や看護師さんが目に入ったんだ。

今でも、赤いミニカーは部屋の本棚に置いてある。



家に帰ると、玄関に見慣れない女性の靴と小さな靴が並んでいた。

客か? こんな時間に。

「こんにちは」

話し声がする居間に顔を出すと、母方の大叔母と見たことのない小さな男の子が座っていた。

「あら、真幸まゆきくん、久しぶりね。大きくなって」

大叔母の向かい側に座っていた母が、手招きする。

「真幸、この子ね、潤一くん。大阪からきた子なんだけど、大叔母さんと話している間、2階で遊ばせてあげて」

「分かった。おいで」

じっ、と俺を見上げている小さな子に手を差し伸べると、おずおずと手を差し出した。

大きい目とおでこが目立つ。握った手が子供にしては骨張っていて、ぎょっとした。

身体は小さくてガリガリだ。

とりあえず、冷蔵庫から飲み物を取り出す。

「何がいい?」

冷蔵庫を開いて、中を見せるとおそるおそる近づいて牛乳を指差した。

5歳下の弟、好彦が最近気に入って飲んでいるブリックパックの牛乳だ。

「渋いな、おまえ」

ほかに、ジュースもカルピスもあるのに。

自分はサイダーを手にして2階へと上がる。


階段を昇って左側に小さめの部屋がふたつ。好彦の部屋と物置として使っている部屋だ。

右側は広い部屋がひとつ。

俺たちが成長した時のために、二つに分けて使える仕様に造られていたが、結局、カーテンで仕切って、そのまま二人で使っている。

部屋に入って左側が俺、右が博人の領分だ。

元々、物が少ないので博人の領域より広く見える。

「どうした? 入れよ」

珍しそうに、きょろきょろしている潤一を促して左側に誘導する。

連れてはきたものの、子供が遊べるようなものなんてあったかな。

DVDでも見せるか、それとも…。

「ゲーム、やるか?」

部屋にはゲーム用の小さなモニターを持ち込んでいた。

小首を傾げる潤一に、ゲーム機を見せてもいまいちな反応だ。

あれ?

「もしかして、やったことないのか?」

頷く潤一をまじまじと見つめる。いまどき、そんな子いるのか。

そういえば、こいつ、まだ一言もしゃべってないな。

しゃがんで視線を合わせ、顎をついと持ち上げて覗き込む。

「おまえ、しゃべれねぇの?」

目を見開いて、ふるふると顔を振る。

声は聞こえてるし、ちゃんと意味は分かってるみたいだ。

「まあ、いいや。じゃあ、教えてやるよ」

床に放り出したクッションの上に座らせ、コントローラーを持たせるが、重いのか、持つのがやっとで安定しない。

仕方なく膝に座らせ、後ろからコントローラーを支えて説明をする。

「ジャンプはこれな。走るときはこれとこれを同時に押せ。いくぞ」

好彦が小さい頃に遊んでいたシンプルなゲームをセットしてスタート。

最初はぎこちなかったが、慣れてくる意外と飲み込みが早い。

器用にタイミングよくボタンを押していく。

頭の上から、夢中で画面に見入っている表情を伺うと楽しんではいるようで、安心した。

けど。

膝の上に乗っけて、改めて思う。

めちゃくちゃ軽い。身体も手と同様、骨張っていて子供らしさがあまりないし、服を見ると着古してボロボロ一歩手前って感じがして気になる。

一体、幾つなんだ。好彦も大きい方ではないが、こんな感じではなかった。

まったく何も聞かなかったが、どこの子なんだ?

うっかり谷底に落ちて、ゲームオーバーになって我に返った。

「もう一回やるか?」

振り向いて頷く顔は、先刻とは打って変わって目がきらきらしていた。

リスタートしようとした時、下から賑やかな声が聞こえてきた。


ただいまー、こんにちはー、お腹すいたー、お兄ちゃん帰ってるの?

どたばたと階段を駆け上がる音ともに、がちゃっとドアが開く。

「お兄ちゃん、おかえりー、俺、ただいまー。あっ、何、懐かしいゲームやってんの? 俺もやるっ!」

「おかえり、ヨシ。とりあえず、ランドセル置いて、手洗ってこいよ」

そうか、今日は小学校も半日なのか。

また、ドタバタと廊下を走る足音が響いた。後で、お母さんに怒られるな。

ドアの方を向いたまま、固まっている潤一の頭を撫でる。

「あいつは、ヨシヒコ。俺の弟だよ。あいつが来るまでちょっと休憩な」

膝から下ろして牛乳を飲ませていると、同じものを手にして好彦が入ってきた。

「あ、その牛乳、美味いだろ? 俺のオススメ。で、おまえ、誰?」

矢継ぎ早に話しかけられて、潤一は目を白黒させている。

「大叔母さんと一緒にきた子だよ。潤一っていうんだ。しばらく相手してやってくれ」

「いいよ。そのゲームの裏技知ってるから教えてやるよ」

好彦が持ち前の面倒見のよさと人懐っこさを発揮して、潤一の横に座った。

ふたりが並んでゲームを始めたので、俺は部屋を出ると、足音を忍ばせて下に降りた。


母と大叔母はまだ何か話し込んでいるようだが、階段からははっきりと聞き取れない。

居間の横の客間からなら気づかれずに聞けるはずだ。庭に出て縁側から入るか。

ゆっくりと玄関のドアを開け外へ出る。

「真幸? 何してんの?」

「しっ!」

思わず指を立てて、門のところに立っている博人を外に押し出した。

不審げな表情の博人が肩を掴んできた。

「真幸、また告られたって聞いたけど…」

「その話は後だ。今、大叔母さんが来てんだよ」

「大叔母さんが?」

博人の整った色白の顔が歪む。昔から博人は大叔母が苦手だった。

簡単に潤一のことを説明すると、博人は鞄を玄関先に置いてついてきた。

客間に入り、襖一枚を隔てて居間の様子を伺う。

古い日本家屋は、声が筒抜けだ。

ぴたりと身体を寄せ合い、背後から博人の手が俺の腰を支えて襖に耳をつける。


職業柄、聞き上手な母を相手に、おしゃべりな大叔母は同じことを何度も繰り返し話しているようだった。

要約するとこうだ。

大叔母の嫁ぎ先の親戚筋の娘が父親のわからない子を産み、実母にその子を預けて蒸発した。預けられた女性も高齢なうえ、入退院を繰り返しているので幼い子の面倒を見るのは難しい。引き取り先を探すがどこも当てがなく、施設に入れるのも可哀想だ。その点、この家はお金に困っていないし、何より血の繋がらない子を育てている実績があるので、面倒を見てもらえないだろうか。


腰にまわされていた博人の手に力が入る。抑えるように博人の手に手を重ねると、何かを鎮めるように耳元で小さく息を吐いた。

大叔母の話がループし始めたところで、客間を出て門まで戻った。

何か言いたげな博人を押しとどめて、

「俺は2階に戻るから」

と先に家に入った。

階段を上がりきったところで、階下から博人が大叔母に挨拶する声が聞こえた。

「お兄ちゃん、おなかすいたー」

部屋に戻ると、開口一番、好彦が訴えてきた。

時計を見ると、12時になろうとしていた。

「そうだな、下からなんか持ってくるか」

大叔母はまだ帰りそうにない。

部屋を出ようしたとき、博人が入ってきた。

「お母さんがお寿司頼んだから、もうちょっと待っててって」

「やったー! お寿司! なら、我慢する!」

好彦が大喜びしている横で、潤一は博人を凝視している。

博人はいつもの柔和な笑みを浮かべて、潤一に近づいた。

「君が潤一? よろしくね」

「博人くんはねぇ、食いしん坊で、怒ると怖いから怒らせちゃダメだからね。いてててっ」

博人が笑顔のまま、好彦のほっぺたを引っ張った。

驚いた潤一が、慌てて俺のところまで来て足にしがみつく。

「あらら、怖がらせちゃったかな」

そう言いながら、随分、懐かれたね、と笑う。

何かを訴えるように潤一が見上げてきた。

「どうした? あ、トイレか」

「お近づきの印に俺が案内するよ」

博人が手を取り、部屋から連れ出していった。

「ねぇ、潤一って、しゃべれないの?」

好彦が、袖をひっぱって聞いてきた。

「ヨシにもしゃべらなかったのか?」

意外だ。こいつにかかって、心を開かない奴はそういない。

今までどんな生活をしていたんだろうか。

その後、寿司が届くまでの間、博人が隠し持っていた秘蔵のお菓子を分け与えてもらって、飢えをしのいだ。



寿司を食べている間、大叔母の独壇場だった。

母と、愛想がよく女性受けの好い博人がほぼ相手をしていた。

潤一に目を配りながら寿司をつまんでいると、いろいろな事が見えてくる。

まず、箸の使い方も下手だし、寿司自体も食べ慣れてないのがわかった。

何より、歳を聞いて驚いた。

8歳の小2だという。てっきり、未就学児だと思っていた。

ぼろぼろと米をこぼすのを見かねて、小さくした寿司を口元に持っていくと、嫌いではないらしく、ぱくぱくと食べる。

「潤一は、何が好き? 俺、イクラ!」

大きく口を開け、一口で食べる好彦を見て、潤一が指差したのは玉子だった。

「じゃあ、もう一個いくか?」

頷いたのを確認して、差し出すとぱくりと食べる。

なんか、雛に餌付けしてるみたいでカワイイな。

「あらあら、すっかり真幸くんに慣れたみたいね」

猫撫で声をあげる大叔母に、向かい側に座っていた博人の目が変わった。笑ってはいても、あれはかなり怒っている目だ。気づいた好彦も口を噤んで、怯えている。

そして、会話は確信へと移った。

「で、どうかしら。せっかく訪ねてきたけど、旦那さんがいないんじゃ正式な返事はもらえないわよね。戻ってくるまで預かってもらって、それから話しあって決めてもらっていいのよ」

どの口が言うんだ。わざと、父親の出張中を狙ってきたくせに。

こんなふうにされたら、人が好くて面倒見も良い子供好きな母が断れるわけがない。何より、潤一は猫の子じゃないんだ。邪魔者みたいな言い方するな。

博人からも怒りのオーラが出始めている。

相変わらず、母は当たり障りのない返事をしつつ、とりあえず潤一は家で預かると言った。


そして、潤一と潤一の荷物を置いて、意気揚々と大叔母は帰っていった。

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