第9話

テーブルに置いているカフェオレを一口飲んで、瑞稀はため息を吐いた。集中しようと思っても、頭が回らない。ここ最近、ずっとこの調子だ。これではいけないと、分かっていた。だが心も体も、自分が思っているより正直なのだ。瑞稀はスマートフォンを取り出して、フォトアルバムを開いた。


「・・・・・」


そこに映っていたのは、愛しい恋人の寝顔。無防備に口を開け、すやすやと子供のように眠る涼真の写真だった。2人で出かけた帰りに彼が寝てしまったところを、こっそりと撮っていたのだ。普段カメラを使わない自分にしてはよく撮れた、と自負している。どこからか寝息が聞こえてきそうな写真は、瑞稀に愛しさと後悔を募らせた。


「・・・会いたい、な」


無意識の呟きが転がり落ちる。そんな願いを口にする資格さえないことなど、誰よりも分かっているのに。

瑞稀は画面を指でなぞって、写真をめくる。


初めて一緒に行った植物園ではしゃいでいる写真。

おいしい肉まんを頬張って笑っている写真。

くじ引きで大きなぬいぐるみが当たって喜んでいる写真。

迎えに来た車の中で眠ってしまった写真。


今までほとんど空だった瑞稀のアルバムアプリには、涼真の写真が溢れていた。どれも瑞稀に向けてくれていた表情を切り取ったものばかりで、今にも声が聞こえてきそうだった。ああ、思い出してしまった。よく通る、少し低くて明るい声。笑うと弾んで、拗ねると分かりやすい。どこからも聞こえてこないのに、彼の声は耳の奥まで残って瑞稀を離さないのだ。


『瑞稀さんがしんどい時とか、辛い時に力になりてえって思うし、頼ってほしいなって思うよ。愚痴とか言いたくなったら夜中でも電話してきて』


顔を見れなくても、声だけでも聞きたい。思わず彼に電話してしまいそうになる衝動を、瑞稀は必死に堪える。

思えば、瑞稀を「瑞稀」という名前で呼んでくれるのは涼真だけだった。会社の部下は「社長」と呼び、龍櫻会の人間は「頭」と呼び、裏社会の人間は「龍田鵬山」と呼ぶ。そんな瑞稀を、ただの「竜田瑞稀」として抱きしめてくれたのは、涼真しかいなかったのだ。役割を背負って生きている瑞稀が、唯一息を軽くできた場所。それは、涼真の腕の中だった。


「っ・・・・・」


これで正しかったんだと、彼を守るためにはこれでよかったんだと、言い聞かせていないと正気が保てなかった。瑞稀は未練を断ち切るように、スマートフォンの電源を落とす。これ以上彼の顔を見ていたら、衝動のままに会いに行ってしまいそうだった。瑞稀は真っ暗になったスマートフォンを乱雑に置き、手元の資料をもう一度見直す。その資料には、翔流が出入りしていると思われる店が連なっていた。日に日に店の名前が増えていくリストに、瑞稀は頭痛を覚えざるを得ない。最近では、龍櫻会と対立している組と手を結んだという情報も入ってきた。これはいよいよ、全面対決になってもおかしくない頃合いだ。気を抜いている場合ではない。


「はあ・・・・・」


こめかみを押さえ、頭痛をやり過ごそうとしている瑞稀のポケットが、震えた。会社用のスマートフォンが鳴動している。瑞稀は瞬時に頭を切り替えて、通話に応じた。電話をかけてきたのは、会社の方を主に任せている龍櫻会の組員だった。


「もしもし、どうした?」

『社長、お忙しいところ申し訳ありません。先ほど、警備員の方から社長に伝えてほしいことがあると言われまして』

「警備員から?不審者でもいたのか?」

『いえ、実はアポなしで社長を訪ねてきた青年がいたそうで。確か名前は・・・原田涼真、だったかと』

「・・・・・っ!!」


瑞稀の心臓が、鷲掴まれたように痛んだ。


『その原田涼真という青年が、「竜田さんに原田涼真が会いたがってると伝えてほしい」と言ったそうでして』

「・・・・・」

『お知り合いですか?』

「・・・いや、知らないな」


瑞稀の口から出た嘘は、震えてはいなかった。けれど、彼の息はどんどん浅くなっていく。


『そうですか・・・。かしこまりました』

「その警備員には悪いが、わざわざご苦労だったと伝えてくれ」

『はい』


通話を終わらせ、瑞稀は椅子の背もたれに頭を預ける。まさか、彼が会社を訪ねてくるとは思ってもみなかった。だが、彼らしいなとも思った。思いついたら即行動で、後のことはあんまり考えてなくて。そんなところも、好きだった。そんなところが、好きだったのだ。


「・・・涼真くん、」


声になるかならないか、ほとんど吐息のような。瑞稀が呼んだ名前は、部屋に溶けていく。

部屋の外から大きな声が聞こえてきたのは、その数秒後だった。


「頭!!」

「!」


血相を変えて部屋に飛び込んできたのは、竜司だった。


「どうした?」

「っ・・・これを・・・!」


竜司は脇に抱えていたノートパソコンを開いて、瑞稀に見せた。途端に、彼の顔色が豹変する。

パソコンに映し出された画像には、猿轡をされ両手を拘束された瑞稀の恋人―――涼真が映っていた。














涼真は、ひやりとした空気が頬に当たるのを感じて意識を浮上させた。ふわふわとする感覚の中、重い瞼を持ち上げると知らない景色が目に入ってくる。


「・・・・・?」


涼真は何度か瞬きを繰り返す。しかしきちんと景色を理解しても、ここがどこなのか全く分からなかった。当たりは暗くて、上の方から月明かりが差し込んでいるだけ。嫌になるほど静かで、風の音しか聞こえない。それから、よく耳を澄ますと波の音が聞こえているような気がした。


「っ・・・・・」


涼真は戸惑いながら、体を動かそうとした。が、それは叶わなかった。手が動かず、さらには口に何かを入れられている気がする。どうやら、手を何かで縛られているようだ。地面に座っていることはかろうじて分かったが、手が不自由なせいで立ち上がることもできなかった。


「お、目ェ覚めてんじゃん」

「!!」


まだ状況が読み込めていない涼真の目の前に現れたのは、翔流だった。涼真は彼を呼ぼうとして、口が動かせないことを思い出す。そんな彼の様子に笑みを浮かべながら、翔流は手に持っていたものを見せた。それは、涼真のスマートフォンだった。


「ちょっと借りるぜ~」

「・・・!?」

「お、ビンゴ~」


翔流は涼真のスマートフォンを、まるで自分のもののように軽快に操作する。パスワードでロックしているはずなのに、どうして操作できるのか。涼真の疑問に応えるように、翔流はヘラヘラと笑った。


「まあオレみたいな仕事してると、パスワードなんて簡単に分かるわけ」

「・・・?」

「オレの仕事?あー、お前に分かりやすく言うとヤクザってヤツかな。よし、じゃあツーショ撮ろうぜ、原田くん」

「!」


翔流は座り込んでいる涼真の隣にやってきて、インカメラで涼真と自分を画角に入れる。翔流はなぜかピースサインをして、そして場にそぐわない軽いシャッター音が響いた。涼真は訳が分からないまま写真を撮られ、余計に混乱する。だが猿轡を噛まされている以上、何も聞くことができなかった。


「人質の安否は向こうに教えとかねーと、交渉の材料にならねーだろ?」

「・・・?」

「あ、向こうってのは兄貴んとこな」

「!!」


兄貴、という言葉を聞いて涼真の顔色が変わる。だが翔流は説明する気があるのかないのか、楽しそうにスマートフォンを操作するだけ。どうやら、瑞稀にメッセージを送っているらしい。何のために瑞稀に自分との写真を送るのか、涼真は全く理解できなかった。


「さあ、何分で来ると思う?何か賭ける?あ、ちなみにここはとある港の廃倉庫でーす。助けは呼べねーから、大人しく兄貴を待つしかできねーよ」

「・・・・・っ、」

「あー悪い悪い。今しゃべれねーんだったな。兄貴来たらそれ外してやるから、もーちょい我慢な~」


翔流は相変わらず飄々と笑いながら、涼真の真正面にどっかりと腰を下ろす。何が楽しいのか、彼はずっと笑みを浮かべていた。自分が置かれている状況に対する混乱と、目の前の男に対する恐怖が、涼真の思考を鈍くさせる。だが、自分が今とてつもない危険の中にいることだけは、今の涼真にも理解できた。


「いやーしかし、兄貴は何だってこんなでけー図体のヤローがいいんだろうな。どっちが告ったの?もうヤッた?」

「っ、!!」

「あー悪い悪い、コイバナにしちゃ下ネタすぎた?けど、男子大学生なんて下ネタしか言ってねー年頃だろ?」


瑞稀と似た顔立ちから発せられる汚い言葉に、涼真は嫌悪感しか覚えなかった。だが翔流は意に介していない様子で、1人話を続ける。


「何でオレたちの関係を知ってんのかって聞きたそうな顔だな~。まあヒマだし答えてやるよ。とりあえず、オレが車ン中で言った話は半分嘘で半分ほんとな。オレと兄貴が腹違いの兄弟なのはほんと。んで、親父と母さんに世話になったって思ってんのも本当」


翔流はふざけたように、わざとらしく指を折って数える。しかし次の瞬間、彼の顔から笑みが消えた。


「オレが兄貴と喧嘩して後悔してるってのは嘘。オレは兄貴殺してでも龍櫻会手に入れるって決めてんだよ」

「・・・っ!?」


りゅうおうかい。

涼真の耳に聞き覚えのない単語が現れた。涼真の戸惑いを感じ取って、翔流はまたヘラリと笑う。


「あっ、何でオレがお前と兄貴の関係知ってるかって話だったな。ま、オレくらいになるといろんなとこから情報が降ってくんの。浮ついた話の1つもなかった兄貴に彼氏くんができたとなりゃ、そりゃーもう大騒ぎよ」

「・・・・・」

「しっかし、可哀想だよな~。こんなわけー学生弄んじまって。何も教えねーで守ろうとしたんだろうけど。ハハッ、無駄な努力だったな~!」


高笑いする翔流。涼真はますます訳が分からなくなって、彼の顔をじっと見る事しかできなかった。

その時、翔流が持っている涼真のスマートフォンが着信音を奏でる。翔流は上機嫌に通話ボタンをタップし、スピーカーフォンをONにした。


「もしもし~?」

『人質と話をさせろ』


通話の相手は、瑞稀のようだった。聞こえてくる声に覚えはあったが、しかし聞き馴染みがないほど、彼の声は低く迫力があった。だがその迫力をものともせず、翔流は下品な笑い声をあげる。


「おいおい、久しぶりの会話で開口一番それはねーっしょ。かわいい弟だぜ?」

『お前と話す時間なんてない。人質の無事を確認させろ』

「ったく、しょうがねーなあ。原田くん、大好きな瑞稀さんが話して―って、よ!!」

「んぐっ!?」


翔流は、涼真の顔をいきなり殴った。涼真の口内に、鉄の味が広がる。どうやら、切れてしまったようだ。涼真の呻き声に、電話の向こうで瑞稀が動揺したのが分かった。


『おい、何をした!!』

「ちょーっとパンチしただけだっつーの。コイツ丈夫そうだし、これくらいじゃ死なねーだろ」

『っ・・・!涼真くん、聞こえる?』

「!!」


翔流には何を言っても無駄だと理解したのか、瑞稀は彼を無視して涼真に呼び掛けた。それは、涼真が聞き慣れている彼の優しい声だった。


『絶対助けに行くから。もう少しだけ待ってて』


瑞稀の言葉は、涼真の体から恐怖や混乱を消した。何が起こっているのか、自分がどうなってしまうのか、全く分からない。分からないけれど、瑞稀が助けに来てくれると言うなら、そうなのだろう。瑞稀はそれだけ言って、通話を切った。翔流が不機嫌そうに舌打ちする。


「チッ、切りやがった。まーいいや。どうせそろそろ来るだろ。よかったな~、大好きな瑞稀さんに会えるぜ?」

「っ、っ!!」

「んだよ。会わせてやるって、オレ嘘は言ってねーだろ?お前マジでバカだよな~。あんな偶然にあそこ通りかかるわけねーじゃん。狙ってたんだよ、お前のこと」

「・・・!?」


狙っていた。涼真はその言葉の意味が理解できなかった。


「お前に手出せば兄貴は必ず動くって分かってたからな。拉致ってエサにさせてもらおうと思ってよ。白昼堂々誘拐なんてめんどくせーし、車に乗せる口実のために罠張ってたってわけ」


つまり、翔流は涼真を拉致するために彼をつけ狙い、彼に接触するタイミングをうかがっていた。そして接触して油断させて車に乗せ、瑞稀への脅しの材料に使おうと企んでいたということだ。身の上話をしたのも、恐らく涼真を油断させるため。そこまでして涼真を利用しようとした理由は謎だが、そこまでする何かがあるのだろう。


「あー、おしゃべりもそろそろ飽きてきたな。原田くん、ちょっとサンドバックに・・・」

「それ以上その子に近づいたら殺す」

「!!」


突然、聞き覚えのある声が聞こえてきた。涼真は暗闇の中、彼の姿を必死に探す。すると一拍置いて、月明かりの中に彼―――瑞稀は現れた。


「おー、思ったよりは早かったな」

「その子から離れろ」

「えー、どうしよっかな~。オレと原田くん、すっかり仲良しになっちまったから~」


ふざけた言葉とは裏腹に、翔流は瞬時に動いて涼真の背後に回った。一瞬のことに、瑞稀も涼真も反応できなかった。


「っ!?」

「ほら、さっさとそれ捨てねーとかわいいかわいい“涼真くん”の頭に穴が開いちまうぜ?」

「っ・・・・・!」


翔流はどこから取り出したのか、拳銃を涼真の頭に突き付けた。涼真は何をされているのか分からなかったが、瑞稀の表情を見てマズい状況なのだと理解する。


「それか、そのまま撃ってもいいけど?涼真くんに当たるだけだし」

「・・・分かった」


瑞稀は右手を上げて、懐から銃を取り出した。そしてそれを、地面に転がす。翔流は愉快そうに微笑んだ。


「さすが、賢明だな」

「お前の要求通り、僕は一人で来た。その子を解放しろ」


数時間前、竜司のパソコンに送られてきた差出人不明のメール。そこには、こう書かれていた。


『兄貴1人で来たら殺さないでやるよwww』


その一文と共に送られてきたのが、拉致されて気を失っている涼真の写真だったのだ。瑞稀はすぐに竜司にメールの発信元を探らせ、それと同時にメールから手掛かりを探させた。そうこうしているうちに、今度は瑞稀のスマートフォンに涼真から着信があった。その発信元も逆探知し、瑞稀は涼真の居場所を突き止めたのだ。


「まだ殺さないでやるけど、解放するとは言ってねーからなあ」

「お前の望みは、龍櫻会だろう。その子は関係ない」

「いやいや、関係ねーとか可哀想だろ。なあ、涼真くん」

「っ、」

「兄貴が何にも教えてやってねーから、何のことか分かってねーじゃん。なあ?」


そこで唐突に、翔流は涼真の猿轡に手をかけた。乱暴に解かれ、涼真の口がやっと自由になる。


「っ、瑞稀さん、」


長らく声を出していなかったからか、涼真の言葉は掠れていた。だが瑞稀にはしっかり聞こえていたようで、彼は苦しげに表情を歪める。


「涼真くん・・・ごめん、こんなことに巻き込んで」

「何で瑞稀さんが謝るんだよ」

「全部僕のせいなんだ」

「何が・・・」

「そう、ぜーんぶ兄貴のせいだよなあ。ぜーんぶ、龍櫻会5代目組長・龍田鵬山のせいだよ」

「くみ、ちょう・・・?」


組長という単語も、龍田鵬山という名前も、涼真にとってはすべてが初めてだった。説明を求めるように瑞稀を見るが、彼は泣き出しそうに眉を寄せるだけ。代わりに答えたのは、翔流だった。


「お前が付き合ってた目の前の男はな、龍櫻会っつー任侠一家の跡取りで、5代目の組長なんだよ。胸クソ悪すぎるけどな」

「・・・!!」

「任侠っつっても分かんねーか?ま、いわゆるヤクザだよ。そんで、龍櫻会の組長ってのは龍田鵬山っていう名前を代々襲名するわけ。だから、「瑞稀さん」なんてバカみたいに呼んでんのはお前だけなの。アイツは、龍田鵬山なんだよ」


全部教えてやるオレって優し~、なんて軽口をたたいている翔流をよそに、涼真は混乱に陥っていた。


瑞稀の正体はヤクザの組長で、瑞稀という名の他にも名前があって。何のことか理解するのに、とても時間を要した。

だが、涼真には1つ思い浮かんだ出来事があった。それは、瑞稀と深く話すきっかけとなった、あの夜のこと。泥酔した中年男性にビール缶をぶつけられたあの時、瑞稀はたった一言だけで、あの中年男性を追い払った。あの時彼から感じた、ただならぬ空気。殺気と呼ばれるような何か。瑞稀が任侠と呼ばれる世界に身を置いていて、その頂点に立つような男なら、あの時感じた圧の理由が分かる気がしたのだ。


「瑞稀さん。今の話って本当なのか?」

「・・・うん。全部、本当のことだよ。黙っててごめん」

「そっか・・・」


さすがにそれ以上の言葉が紡げなかったのか、涼真は黙り込んでしまう。瑞稀は無意識のうちに唇を噛んだ。


もうきっと、彼は二度と笑顔を見せてくれないだろう。

ヤクザ者と恋人同士だったなんて、しかもそれを明かされていなかったなんて、彼にとっては恐怖でしかないはずだ。

もう彼の隣にいることはできない。分かっている。けれど、だからこそ、この場から彼を無事に逃がすことだけが、唯一彼にしてあげられることだ。


瑞稀は表情を殺して、翔流に視線を向けた。


「翔流、お前が欲しいのは龍田鵬山の名前だろう」

「まあ、そりゃなあ。けど、今の龍櫻会をそのままもらっても意味ねーしな。カタギに手を出さねーなんて古臭いやり方やってるヤクザ、もうお前らしか残ってねーから。オレが組長になるなら、全部ひっくり返すぜ」

「・・・それが、親父や母さんの願いに背いてもか」

「そうだよ。親父と母さんが大切にしてきた龍櫻会を守れるなら、オレは2人の願いに背いてもやってやる」


兄弟の視線が交わる。こうやって向き合ったのは、6年ぶりだった。


いつもしかめ面で、けれど自分に頼ってきた相手は決して無下にしなかった父親。そんな父親を支えながら、いつもニコニコと優しかった母親。瑞稀と翔流の両親は、そんな2人だった。特に母は、自分の旦那の愛人が赤子を連れて転がり込んできても、何も言わずにその赤子ごと面倒を見るような人だった。愛人が亡くなってその赤子が身寄りを失った時、瑞稀の母は「貴方の子なら、私の子です」と瑞稀の弟として赤子を育てることを宣言したという。

そして2人は息子たちを育てながら、戦前から続く龍櫻会の『カタギには決して手を出さない』という鉄の掟に従って組を守っていた。

だが時代の流れは龍櫻会にも影響した。全盛期には500人を超える組員を抱え一大勢力を誇っていた龍櫻会も、やがて規模は半分以下に。その勢いは、衰えていくようになった。それに誰よりも焦りを感じたのが、翔流だった。このままでは、自分を大切に育ててくれた両親が守っているものが消えてしまうかもしれない。翔流は、慕っていた兄に訴えた。


『このままじゃ、龍櫻会は消える。変わるなら今だ』


だが翔流の兄は―――瑞稀は、首を縦には降らなかった。


『親父と母さんが大切にしてたものを見失ったら、それは龍櫻会じゃない』


瑞稀は、両親が大切にしていた掟を守ってこその龍櫻会だと言い、組長の名前を襲名した。そして翔流は、反旗を翻したのだ。お互いに譲れないのなら、奪うしかないと。そうして6年前は瑞稀に敗れ、組を去った。しかし翔流は、まだ諦めていなかったのだ。いつか彼からすべてを奪い取ってやろうと、ずっと機会を窺っていたのである。そんな彼が目をつけたのが、涼真の存在だった。

今まで誰も寄せ付けなかった瑞稀の傍にいつの間にか現れて、それはそれは楽しそうに笑って。初めて見た日から、涼真が瑞稀にとって大切で愛しい存在なのだとすぐに理解した。これを利用しない手はない。翔流はそう考えた。綿密に計画を練って、実行を待った。瑞稀が涼真との別れを選んだのは意外だったが、好都合でもあった。瑞稀の目を離れた方が、涼真に接触しやすかったのだ。そうして計画を実行した今、欲しかったものが目の前までやってきている。翔流は、勝利を確信していた。


「・・・分かった。僕は組長の座から降りる」


ついに、瑞稀は翔流が待ち望んでいた言葉を言った。翔流はニヤリと目を細める。


「だから、今すぐその子を離してくれ」

「いいのか?こんなガキ1人のために自分の大事なもん捨てて」

「1人だろうと、組のためにカタギの人間を犠牲にするわけにはいかない。・・・それが、彼であるなら尚更」

「っ、瑞稀さん、」


涼真が止めるように瑞稀の名を呼ぶが、彼は涼真に笑みを返すだけだった。


「こんな良い子を見殺しにしたら、親父も母さんも化けて出てくるだろ」

「ハッ、そうかよ。真面目なことで」


翔流は吐き捨てるように言ってから、涼真の拘束を解いた。そして乱雑に彼の背を蹴る。


「おら、立てよ。交渉成立だ。生かして帰してやるよ」

「っ・・・!瑞稀さん!」


涼真はふらつきながらも立ち上がって、瑞稀に駆け寄った。彼に手を伸ばして、その細い体を抱き寄せる。瑞稀はそのまま、涼真の胸に収まった。そして彼の広い背中に、手を回す。


「涼真くん、ごめん、ごめんね、こんな目に遭わせて」

「いや、瑞稀さんにまた会えただけで超嬉しい。謝らないでよ」

「ごめんね、でもこれでもう最後だよ」

「何でそんなこと言うの」

「だって僕は・・・」


その時だった。




涼真は、視界の端に何か光るものを見た。そして、気づけば体が動いていた。




「瑞稀さんっ!!」

「えっ、」


涼真は抱きしめていた瑞稀の体を、力いっぱい押しのけた。一呼吸分置いて、銃声が鳴り響く。直後、涼真を激痛が襲った。


「っ、ぐあっ・・・!?」


あまりの痛みに、涼真は立っていられなくなって地面に膝をついて倒れ込む。彼の脇腹には、銃弾がめり込んでいた。どくどくと脈打つたびに、生温かい何かが流れていく。それが自分の血だと、涼真は理解できなかった。


「りょう、ま、くん・・・、涼真くん!!」


瑞稀は一瞬だけ呼吸を忘れ、そしてすぐに状況を理解して涼真に駆け寄る。涼真は返事をしようと思うが、脇腹が焼けるように熱を持っていて声を発せなかった。


「っ・・・翔流!!お前!!」

「知るかよ!そのガキが勝手に飛び出してきたんだろうが!!」


涼真の被弾はさすがに予想していなかったのか、翔流の荒れた言葉にも動揺が滲んでいた。涼真の腹を撃ち抜いたのは、翔流が潜ませていた刺客だった。涼真が見たのは、彼が瑞稀に向けた銃口だったのだ。


「オレが組長になるとして!!邪魔になる兄貴を殺さずに生かしておくわけねーだろ!!」

「っ、クソ野郎がッ・・・!!」


瑞稀は一瞬で頭に血を昇らせ、懐から拳銃を取り出した。

だが、彼は引き金を引かなかった。いや、引けなかった。大きな手のひらが、彼を止めたからだ。


「みず、きさん、ダメだ・・・っ、」

「!涼真くん、しゃべらないで!」

「撃っちゃ、ダメだって・・・」

「っ、何を・・・!」

「死んだら、仲直り・・・できねえ、よ・・・」

「・・・!!」

「仲直りしてえって、言って、た、じゃん・・・」


涼真は浅い息を繰り返しながら、瑞稀の右手を握った。


『僕は・・・仲直り、したいかな』


涼真の脳裏に浮かぶのは、あの日見た瑞稀の顔。笑っているけど泣きそうで、怒っているようで悲しんでいた。

きっと瑞稀にとって翔流は、本当は大切な弟で。涼真には計り知れないほどの複雑な事情があるのだろうけど、憎いだけなら瑞稀はきっとあんな顔をして笑わない。今ここで止めなければ、彼は大切なものを失ってしまう。涼真は痛みに耐えながら、ヘラっと笑った。


「だいじょーぶ、おれ・・・わりと、丈夫だ、し・・・」

「っ・・・!」

「びょういん、つれてってくれ、たら・・・なおる、から・・・」

「涼真くん、」

「だから、だいじょーぶ・・・」


ぱたり、涼真の手が地面に落ちる。瑞稀が何かを必死に言ってくれているけど、もうそれを聞き取るだけの力は彼に残っていなかった。

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