かわいいかわいいタツタさん!

柊 翠蓮

第1話

「・・・あ、」


目の前をひらりと舞った一枚の紙に、原田涼真は目をぱちぱちとさせた。

下宿近くのコンビニで深夜アルバイトに勤しんでいた大学3年生の涼真は、掃除道具片手にその紙を拾い上げる。今彼の目の前に落ちたのは、名刺だった。拾って顔を上げた先には、1人の男性。彼のものだろうか、と涼真は声をかける。


「あのー、」

「ん?」

「これ・・・」


涼真は名刺の紙面を見ながら、目の前の男性に差し出した。その時。


ぐうぅぅぅ~。


「!」

「あっ、」


涼真の腹から、獣のような声があがった。どうやら腹の獣が鳴いたらしい。涼真は一拍置いた後、じわじわと顔を赤く染める。誤魔化しようもないけれど恥ずかしくなってしまって、彼は短く無造作にセットしている茶髪頭をガシガシとかいた。


「す、すんません・・・」

「ふふ、いえいえ。ボクに何か?」

「あ、これ落ちてたんすけど・・・」


差し出された名刺を見て、男性は「ああ!」と納得したように頷く。


「ありがとう、拾ってくれたんだ」

「はい」


どうやら、この名刺は彼のものだったらしい。涼真はまだ赤い顔のまま、名刺を渡す。男性は涼真から名刺を受け取った後、彼の顔を見てクスッと笑った。


「お腹減ってるの?」

「え、あー・・・えっと、名前見て、竜田揚げみたいだなーって・・・」

「たつたあげ?」


男性はキョトンとしたあと、自分の名刺を見つめた。その紙面には、おそらく彼が所属しているだろう会社名と彼の名前が載っている。涼真が目を留めたのは、名前の部分だった。


『竜田 瑞稀』


たつたあげ、と男性―――竜田瑞稀はもう一度呟いて、そして合点がいったようで「なるほど」と頷いた。


「確かに、竜田揚げと同じ字だね」

「や、ほんとすんません・・・!さっき食ったばっかなんすけど・・・」

「あはは、そうなんだ。若い証拠だね。大学生?」

「そうっす!あそこの東名大学に通ってて」

「そっかそっか。遅い時間まで頑張ってるんだね」


瑞稀は目を細めてふわっと微笑んだ。その表情に、涼真は思わず目を奪われる。先ほどまでは羞恥で気づかなかったが、目の前に立っている彼はずいぶんと綺麗な顔立ちをしていた。濡れ羽色でツーブロックに整えられた髪、長いまつ毛と大きな瞳。肌も白く、妙な色香を放っている。どちらかといえば中性的な顔立ちで、「瑞稀」という名前がぴったりと似合っていた。こんな綺麗な人初めて見たかもしれない、と涼真は数秒言葉を忘れて動きを止める。それに気づいた瑞稀は、首をかしげた。


「ん?どうかした?」

「!あ、や、何でもないっす!」


大げさに首をブンブンと振る涼真。よく人懐っこいだのコミュ力高男だのと言われる涼真だが、さすがに「初対面で貴方の顔に見惚れていました」とは言えない。そもそも、男性相手に綺麗だと言うのは誉め言葉になるかすら分からない。


「原田~、掃除終わったんだったら品出ししてくれ~」

「あ、はい!」


聞こえてきたのは、コンビニの店長の声だった。涼真は、自分が掃除道具を持っていることを思い出す。そういえば、仕事の途中だった。


「ごめんね、お仕事の途中に」

「いや!オレの方こそすんません!」

「お仕事頑張ってね」

「あざっす!」


瑞稀にペコリと頭を下げてから、涼真は駆け足でバックヤードの方へ戻る。掃除道具を置いてから、積まれているコンテナを引っ張り出した。店長の指示通り、次は品出し作業だ。涼真はズリズリとコンテナを陳列棚の前に出しながら、腹をさする。ついさっき腹を鳴らしてしまったからか、とても空腹だ。上がり時間まであと2時間。耐えられるかは分からないが、仕方ない。


「はあ・・・帰り何か買って帰るか・・・」


2時間後のことを思い浮かべながら、涼真はコンテナの中にあるおにぎりを棚に並べる。空腹の彼にとっては、もはや苦行だ。食べ物を目の前にして、食べられないなんて。深夜バイトは時給もいいしここなら家も近いから、この仕事はそれなりに気に入っている。店長やパートの女性たちは1人暮らしの涼真を気にかけて廃棄商品をこっそり持って帰らせてくれたりするし、人と接することが好きなので接客も苦ではない。だが、こうやって空腹を覚えたときだけは、地獄のような時間だなと思う。身長185cmで元バスケットボール部であるためか、燃費が悪いらしい。食べてもすぐに腹が減ってしまう。涼真はもう一度ため息を吐いた。


「原田君、だったかな?」

「?」


ふいに後ろから声をかけられ、涼真は振り返った。そこには、先ほど言葉を交わした男性、瑞稀が立っていた。


「あれ?さっきの・・・」

「うん、さっきはありがとう。お礼ってほどでもないんだけど、受け取ってくれる?」

「え?」

「はい、どうぞ」


瑞稀が差し出したのは、小さな紙袋。涼真がいつもレジで手に取っている、ホットスナックを入れる袋だ。涼真は出されるまま、その紙袋を受け取る。まだ少し温かい。どういうことなのか分からなくて、彼は瑞稀と紙袋を交互に見つめた。


「竜田揚げじゃなくて、からあげだけど。良かったら食べて」

「えっ、えっ!?」


瑞稀の言葉に驚きながら、涼真は紙袋の口を乱暴に開けた。そこには、このコンビニで売っているからあげが5つ入ったパックが入っていた。訳が分からなくて、涼真はもう一度瑞稀の顔を見る。その様子がおかしかったのか、瑞稀は楽しそうに笑いながら付け足した。


「からあげ嫌いじゃない?」

「あ、大好きっす!」

「ならよかった。遅くまで頑張ってるご褒美だと思って」

「マジっすか!?あざーっす!」


涼真の声が静かな店内に響き渡る。店長がうるさいぞと注意してきそうだが、そんなことよりも嬉しさが勝って、涼真は飛び跳ねんばかりの勢いで紙袋を抱きしめた。


「もう、すぐ食います!怒られるかもだけど!」

「ふふ、良かった。じゃあね」

「はい!ほんとにありがとうございます!」


瑞稀はからあげと一緒に買ったであろうカフェオレを片手に、自動ドアの方へと去って行く。その背中に、涼真はテンションを上げたまま「また来てくださいねー!」と声をかけた。さすがに大声が気になったのか、レジでお金の集計をしていた店長が渋い顔で涼真に注意をしに来る。


「原田、うるさいぞ」

「あ、すんません!」


謝る涼真にため息を零した店長だったが、ふと彼の手元を見て不思議そうな表情になる。


「何でからあげ持ってんだ?」

「さっきの人がくれたんすよ!」

「さっきのって・・・ああ、カフェオレとからあげ買って帰った人か。食い合わせ悪そうだなって思ってたけど・・・」

「オレにくれるために買ってくれたっぽいんすよ!食っていいっすか!」

「いいけど、裏で食えよ。」

「はーい!」


涼真は店長の言う通りバックヤードに引っ込んでから、からあげを頬張った。空腹のときは何でもおいしいが、からあげは特に別格だと思う。もぐもぐと咀嚼しながら、またあの人に会いたいなーとぼんやり考える涼真であった。


―――・・・・・。


また会いたいな、という涼真の願いは存外あっさり叶ってしまった。


「ごめんね、服まで借りちゃって・・・」

「いやいや、気にしないでください!元はといえばオレが助けてもらったんだし!」


現在時刻は深夜2時。瑞稀が涼真の勤めるコンビニに再び現れたのは、彼と出会ってから1週間程経ったある日のことだった。そこからどうして涼真の服を瑞稀が借りることになっているかというと、事の発端は30分ほど前にさかのぼる。


「おいねーちゃん、俺の話聞いてんのか?」

「ちょっ、離してください!!」

「!」


今日もいつも通り品出しに勤しんでいた涼真の耳に、何やらただならぬ声が聞こえてきた。涼真は立ち上がって、声が聞こえてきた方へ向かう。そこには、お約束のように顔を真っ赤にした小汚い中年男性と、若い女性がいた。どうやら、酔っ払いに絡まれているらしい。涼真はため息を吐いて、2人に近寄る。深夜となると、コンビニではこういったことがたまにあるのだ。こんな光景見慣れたくはないが見慣れてしまったので、涼真はいつものように少し大きめに声を張って2人の間に割って入る。


「あーお客さん、お姉さん嫌がってますけど?」

「あ・・・!」


女性は明らかにほっとしたようだった。「こんな夜中におっさんに絡まれるとか地獄だよな」と涼真は心の中で同情する。だがそんなことは全く知らない中年男性は、不機嫌そうに声を荒げた。


「んだお前は!どっから出てきたんだ!」

「あっちから出てきたんですよー。はい離れて離れて」


涼真は中年男性の手を女性からひっぺがして、2人の距離を物理的に離す。そして男性の腕は掴んだまま、女性にだけ聞こえるように小さな声で耳打ちした。


「お姉さん、今のうちに逃げて」

「は、はい・・・!」

「あっ、おい!どこ行きやがんだ!!」


走って去っていく女性に、唾を飛ばしながら怒鳴る中年男性。涼真は呆れて、本日3度目のため息を吐いた。


「いい年こいたおっさんが何やってんの」

「うるせえ!!離せ!!」

「離したら暴れるでしょーが。とりあえず大人しく・・・」

「原田君?」


涼やかな声が聞こえてきて、涼真はパッと後ろに顔を向けた。そこには、以前からあげを差し入れてくれた瑞稀の姿があった。


「あれ、竜田さん!」

「もしかして取り込み中かな?」

「やーそれが・・・」

「なんだテメエ!!」


涼真が答えるよりも早く、中年男性が瑞稀の方へ唾を飛ばして怒鳴る。そして手に持っていたビール缶を、瑞稀に向かって投げつけた。


「ちょっ・・・!」

「!」


涼真は咄嗟に止めようとしたが、間に合わず。ビール缶は放物線を描いて、瑞稀の右肩に直撃した。ビール缶のふたが開いていたせいで、中身が勢いよく零れ落ちていく。当然、瑞稀の肩は濡れてしまった。しかし彼はなぜか、慌てた様子を見せなかった。


カランカラン、と缶が転がる情けない音が響き渡り、一瞬の静寂が訪れる。


「・・・・・・へえ?」


たった一言、だった。目を細めた瑞稀が発したのは、たった一言。だがそれを聞いた瞬間、涼真の背中を電撃のような悪寒が駆け抜ける。今まで感じたことのないような、圧。怒気というには生易しい、例えて言うなら―――殺気のような。殺気なんて今までの人生で感じたことはないが、この圧を形容するなら殺気という言葉以外が見つからない。それほどまでに、重かった。そしてそれを感じ取ったのは、涼真だけではなかったようだ。


「っ・・・・・!?」


先ほどまで好き勝手に怒鳴っていたはずの中年男性が、身を縮めて唇を震わせる。どうやら瑞稀の圧に負けて、言葉が出てこないらしい。瑞稀の様子に驚いている涼真の手の力が緩むと、それ幸いと逃げ出した。


「あっ・・・おい!」


涼真は引き留めようと手を伸ばすが、間に合わなかった。中年男性が逃げ去った後には、ビールの匂いと汚れた床が残るのみ。掃除をしなければならないのだが、涼真はしばらく体を動かせなかった。ビリビリと手が痺れているような感覚がする。実際には何ともないのだろうが、目の前の瑞稀から放たれる何かが、涼真の感覚を麻痺させているらしかった。


「あ、ごめんね・・・!床汚しちゃったね」


そんな涼真を知ってか知らずか、瑞稀はビール缶を拾い上げて眉を下げた。今の彼には、もう先ほどまでの殺気など露ほども残っていない。本当に同一人物なのかと聞きたくなるほどだ。いったい彼は、何者なんだろう。涼真の頭の隅に、疑問が残る。


「竜田さん、」

「うん?」


小首をかしげて、涼真を見上げる瑞稀。綺麗な顔が、じっと涼真を見つめた。その顔は、1週間前に見たものと同じだ。涼真は何だか幻を見たような心地になりながら、頭を振った。何者か、なんて聞いても仕方がない。とりあえずは、片付けだ。


「や、何でもないっす。てか、肩!大丈夫ですか?」

「ああ、これくらいはいいよ。僕が声掛けたタイミングが悪かったみたいだし」

「何かすんません・・・。巻き込んだ感じになっちまった」

「いいよ。原田くんに怪我が無くてよかった」

「何かタオルとか持ってくるんで、待っててください!」

「あ、別に・・・って、行っちゃった」


涼真はバックヤードに戻り、自分のリュックからタオルを取り出した。そして、今日は洗濯したばかりのパーカーを持っていることに気がつく。バイト終わりに友人の家へ泊まりに行くつもりで、着替えを持ってきたのだ。自分の着替えは友人宅でも何とかなるだろうし、肩をビールで濡らしている人をそのまま帰らせるのは気が引けた。涼真はリュックの中から、パーカーを引っ張り出す。


「竜田さん!これ使ってください!」

「え?」

「ビールで濡れたまんまなんて、臭いし気持ち悪いでしょ?洗濯してるんで、大丈夫っす!」

「いやいや、悪いよ!原田くんの着替えでしょう?」

「大丈夫っす!トイレ使っていいんで着替えてください!」

「でも・・・」

「あ、じゃあこないだのからあげのお礼ってことで!」

「!」


涼真の有無を言わさない雰囲気に、瑞稀は困惑する。だが、ここで固辞するのも何だか悪い気がして、瑞稀は差し出されたタオルとパーカーをおずおずと受け取った。


「じゃあ・・・ありがたく、使わせてもらうね」

「っす!」


そして先ほどの場面に戻る、というわけだ。トイレから出てきた瑞稀は、ぶかぶかのパーカー姿になっていた。彼はパッと見たところ身長170cm前後で、なおかつ細身だ。がっちりとしたスポーツマン体型の涼真の衣服だと、こうなってしまうのは仕方ない。


「ごめんね、服まで借りちゃって・・・」

「いやいや、気にしないでください!元はといえばオレが助けてもらったんだし!」


涼真は床を拭きながら、元気よく返事した。手慣れているのか、先ほどまで黄色い液体で汚れていた箇所はすっかり綺麗になっている。すごいな、と瑞稀は素直に感心した。涼真はふうと一息吐いてから、雑巾を持って立ち上がる。そして瑞稀の格好を見て、歯を見せて笑った。


「あはは、竜田さんとパーカーって何か意外な組み合わせっすね」

「確かに、ほとんど着たことないかも。新鮮だな」


瑞稀は余ってしまっている袖口を見つめる。その仕草が何だか可愛らしくて、涼真は心臓をドキリと高鳴らせた。


「本当にありがとう」

「や、ほんと全然いーっすよ。元々オレが巻き込んだんだし」

「きちんと洗って返すね」

「ああ、そんなんいつでもいいっすよ」

「そういうわけにはいかないよ。いつ返しに来たらいいかな?」

「あー、どうしよ。オレ明日から試験期間なんでシフト減らしたんすよね・・・」


試験期間いつまでだっけ、と涼真は上を向いて思案する。アルバイトのシフトも、先々まではパッと思い出せない。涼真は少し考えて、それから妙案を思いついたというように声を漏らした。


「LINE交換しましょ!」

「え?」

「とりあえずオレがバイト入る日送るんで、そん中で竜田さんが都合いい時教えてください。竜田さんも仕事とかあるだろうし、その方が決めやすくないっすか?」

「そう、だね」


軽く言ってみせる涼真に、なぜか少し戸惑った様子を見せる瑞稀。何か変なことを言っただろうかと、涼真は首をかしげる。


「あ、もしかしてLINEとかやってない感じですか?ならメアドとかでも・・・」

「ああ、いや。一応アプリは入れてるんだけど、ほとんど使ってなくて・・・。仕事の日はほとんど見ないから返信遅くなっちゃうだろうけど、構わないかな?」

「そんなん全然いいっすよ!オレも既読無視しがちだし。じゃあQRコード出すんで読み取ってもらって・・・」

「QRコード?」

「あー、じゃあとりあえずアプリ開いてもらっていいっすか?」


瑞稀は頷いて、言われるがままメッセージアプリのアイコンをタップする。確かに彼が言うようにアプリをほとんど使っていないらしく、ほぼ初期設定のままだった。涼真にとっては、むしろ珍しい画面だ。


「ここタップして・・・」

「うん」

「あ、出た。これでオレが読み取って・・・はい、登録しました!」

「ほんとだ、原田くんがいる」


ピコン、と通知音が鳴って瑞稀のスマートフォンの画面に涼真のアイコンが現れる。瑞稀は物珍しそうにそれを眺めた。


「そんで、竜田さんの方でも登録してもらっていいっすか?ここ押して、登録ってとこタップしてもらったらできるんで」

「えっと、ここかな。・・・あ、登録できた」

「よっし、これでオレらLINE友達っすね!」


屈託のない笑顔。瑞稀は眩しさを感じて、目を細めた。自分にこんな表情を向けてくれる存在なんて、もう久しくいない。目の前の彼に他意はないだろうが、だからこそ瑞稀にとっては眩しく思えてしまった。


「とりあえず何個かシフト送るんで!」

「うん、待ってるね」

「っす!」


満面の笑みで頷く涼真だったが、ふと何かを思い出したのか急に声をあげた。瑞稀は驚きで肩を揺らしながら、彼を見上げる。


「どうしたの?」

「そういや、竜田さんって何か買い物に来たんすよね!?」

「え?ああ・・・そういえば。すっかり忘れてたよ」

「っすよね!?すんません、こんな長々と・・・!」

「あはは、しょうがないよ。君のせいじゃないし」

「いやでも、すんません!すぐ片づけてくるんで!」


涼真は急いでバックヤードに入ってバケツと雑巾を洗い、自分の手も清潔にする。今日は明け方まで1人で店を回さなければならなかったので、他の客が来なかったのが幸いだった。


「そうだ、カフェオレと煙草買いに来たんだ」

「あ、竜田さんって煙草吸うんすね。ちょっと意外かも」

「たまにだけどね」

「へー、オレ全然吸わないからよく分かんないんすよね。あ、何番ですか?」

「んーっと・・・あ、56番だ。2箱くれる?」

「うっす。カフェオレはMでいいっすか?」

「うん、ありがとう」

「袋どうします?」

「要らないかな。ほら、今日はポケットあるし」


瑞稀はパーカーについている前ポケットに手を入れて、楽しそうに笑う。今までほとんど着たことがないと言っていたし、物珍しいのだろう。涼やかな目元からはあまり想像できない、少年のような笑顔だった。


「そのポケット何でも入っちゃうんすよ~。気を付けてくださいね」

「ええ?気を付けるの?」

「そう!スマホから財布から全部入れちゃって、パンパンになっちゃいますからね!」

「あはは、そういうことか。確かにここにポケットあると便利だね」

「そうなんすよ。んで、入れすぎて横から落ちていくっていう。あ、全部で1,520円っす」

「はーい」


瑞稀は腕時計を操作して、支払いを済ませる。いわゆるスマートウォッチというヤツだ。大人だなー、なんて涼真は独り言を零した。イメージだけだが、仕事のできる男という感じがする。彼が何の仕事をしているのかは分からないけれど、身なりから察するに羽振りはいい方だろう。だが何となく、普通の会社員には見えなかった。そういえば年齢も不詳だ。自分よりは年上だろうけど、と涼真はそっと瑞稀の顔を盗み見る。若すぎず老けすぎず、しかし絶妙な色気。見た目で推測するのは難しそうだ。涼真は帰り支度をしている瑞稀に、思い切って聞いてみることにした。


「あの、聞いていいっすか?」

「うん?」

「竜田さんって何歳っすか?」

「歳?30だよ」

「30!?」

「えっ、そんなに驚く?」

「いや、何か30には見えなくて・・・」

「あはは、老けてるかな?」

「うーん、老けてるってより年齢不詳感がすげーなって・・・。竜田さん、20年後も30で通じそう」

「それはさすがに無理じゃないかなあ。でも、確かに年齢不詳ってよく言われるかも。自分で意識したことはないけど。・・・っと、」


瑞稀の視線が、不意に手元のスマートウォッチに移る。どうやら着信があったらしい。彼はちらりと外を見て、それから涼真に右手を挙げた。


「じゃあ、今日はこれで」

「あ、はい!マジで今日はありがとうございました!」

「ううん、こちらこそ。服、ちゃんと返すから安心してね」

「っす!シフト送るんで!」

「うん」


軽快な音と共に開いた自動ドアをくぐって、瑞稀は退店していった。そして店の前に駐車されている黒塗りの車を見つけ、軽く手を挙げる。すると、運転席から強面の男が出てきた。彼は後部座席のドアを開け、瑞稀に向かって一礼する。


「おかえりなさい、頭」

「ああ。悪いね、迎え来てもらって」


後部座席に乗り込んだ瞬間、瑞稀の表情は先ほどまでのにこやかなものから一変した。すっと目元が鋭くなり、一切の感情がそぎ落とされる。それは彼―――涼真には決して見せなかった、瑞稀の本当の顔だった。運転席に戻った男は、その変貌ぶりに慣れているのか何も言わず、ため息だけを吐く。


「いえ。ふらふらほっつき歩いている頭の迎えも、俺の仕事ですので」

「それ嫌味?」

「そう聞こえるのは、悪いと思ってないからでしょう。・・・ところで、その服はどうしたんで?出かけたときはそんな服装ではなかったはずですが」


男はバックミラー越しに瑞稀の服装を見て、怪しげに目を細める。瑞稀は肩をすくめて、先ほどの出来事を手短に話した。途端に、男の顔色が変わる。


「その男の顔は覚えてますか」

「止めろ、時間の無駄だ。この店に迷惑が掛かっても悪いだろ。どうせただの酔っ払いだよ」

「ですが・・・」

「カタギには手を出さない。それがうちの―――龍櫻会の掟だ。忘れるな」

「・・・はい」

「出せ」


瑞稀が一言命ずると、男はエンジンをかけて車を発進させた。車が動き出してから、瑞稀はポケットから先ほど買った煙草を取り出し、持っていたジッポライターで火をつける。彼の好む甘い煙が、車内に広がっていく。煙を吸って吐く瑞稀の瞳には夜景が流れていくが、彼の表情は興味がなさそうなまま一つも動かなかった。


竜田瑞稀。またの名を、龍田鵬山(たつたほうざん)。彼は、戦前から続く任侠一門『龍櫻会』の跡取り息子であり、第5代目を襲名した組長であった。涼真が働くコンビニで落とした名刺は、彼が自身で興した輸入食品会社のもの。この会社自体は健全なものなので、組長の名前ではなく本名で仕事をしているのだ。そう、彼は表の顔を会社社長として生き、夜になると裏の顔で闇の中を生きているのだった。


「・・・そういえば、あのコンビニで何やら楽しそうでしたが。何かあったんで?」

「見てたのか?」

「少しだけですが」

「この服を貸してくれた大学生と話してただけだよ。別に、特別なことは・・・」


何もない、と言いかけた瑞稀の言葉が止まる。彼の手元には、スマートフォン。無機質な初期画面のまま使われているそれは、彼が昼の仕事用として持ち歩いているものだった。本職で使っているものは別にあるのだ。だから昼の仕事で使うといっても、通話をしたりメールのやり取りをするだけ。メッセージアプリなんて、ほとんど使わない。だがそのアプリに、今日から賑やかなアイコンが一つだけ並んだ。瑞稀はアプリの中にある彼の写真をタップする。画面の下には「原田涼真」と書かれていた。彼の名前は、涼真というらしい。彼に似合う名前だな、なんて何となく思った。


「頭?」

「・・・いい子だったよ、彼」

「ああ、確かに。人の好さそうな青年でしたね」

「2回しか会ってない人間に服貸すような子、お人好しとしか言いようがないよな」

「いつ返してやるんですか?」

「すぐには予定分かんないから、LINEするっす!だってさ」

「は?」


そこで初めて、瑞稀が喉の奥を揺らして笑った。運転席から怪訝な声が聞こえてきたが、お構いなしだ。運転手は呆れたように息を吐いた。


「ちゃんと返してやってくださいよ」

「分かってるって。あの年頃の子ってどんな礼がいいのかな」

「さあ、組の若いもんに聞いて下さい」

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