第8話 覚悟

「島から出る?」

 ジオは目を丸くした。木の実形の目が、一回り小さな丸になる。驚きのあまり言葉に窮し、アンシュリーの言葉をようやく復唱することで精一杯だった。

 暗い夜の中でもはっきりと見て取れる程、驚きを通り越して間の抜けた表情を浮かべている。


 アンシュリーが持ち掛けたのは、それほどまでに現実味のない提案だった。


 ガロン島は4つの巨大な渦潮に囲まれている。

 その激しさは遠目からでもはっきりと見て取ることができ、どんな波濤はとうすらねじ伏せて海底に押し込めてしまう。

 白い幾本もの太い海流の連なりは、大蛇に例えられるほどだ。この世のすべてを飲み込む巨大な大蛇。

 海の近くに行くだけで、ごうごうと波が吼えるのが嫌でも耳に響く。


 ガロン島は何人も出入りすることができない絶海の孤島、一般常識と呼ばれるもののほとんどを知りえなかったジオでさえ承知していた。

 ガロン島を出ることは不可能なのだ。

 

 アンシュリーはジオの困惑しきった表情を見て、ようやく自分が口にした言葉を自覚した。そしてそのまま、ああ、と声を漏らし、へなへなと地面に座り込んだ。

 感情に駆られやすい性格だとは自負している。しかし、こんなに衝動的で考えなしになったのは初めてだった。


 月明かりはまっすぐにふたりを照らし続ける。闘技場の盤も青白い光を反射している。


 アンシュリーは力なく盤を眺めた。所々で石板に混じった不純物がささやかに輝きを放っている。

 小さな火種が呼吸しているようだ。不規則で息苦しそうな、けれども強固で鋭い反射の光。


 それを認識した途端、アンシュリーは強く両手を握り、顔を上げた。

 眉を吊り上げ、口を固く引き結び、決意に満ちた眼差しをジオに向ける。

「僕は覚悟した」

 そこから先は半ばやけくそですらあった。



『 リリアナの掟 7代船長アンリの演説

 

 さぁ、星屑を瞳に灯す同胞諸君、間もなく出航の時である。聞き給え、勇壮な笛の音を。

 これから広い海へ共に繰り出そうではないか。リリーの御身は世界から去り、そのお姿を見ることは叶わなくなったが、なぁに、恐れることはない。


 人々が、そして私たちの女神が必要とする限り、リリアナは続かなければならない。

 リリーはそのお声の届かない場所へ向かわれた。

 しかし、星は今も私たちとリリーを繋いでくれる。リリーは私たちに唯一無二の役目を与えられた。海という海を巡り、島を渡り歩き、リリーのお言葉と導きを世界の隅々まで送り届けるのだ。

 それこそがリリアナの使命、瞳にかけて果たすべき誇り高い責務。


 だが、知ってのとおり、私たちの船旅は安全とは言えない。波は絶えず表情を変え、鳥たちの難解な言葉を理解するには相当の知識と努力が必要だ。


 すべてのリリアナに問う。皆、胸に手を当てて考えてくれないか。

 君は海を恐れるか、鳥たちの言葉に耳を澄ますことができるか、星を読み解くことができるか。


 …そうでない者の方が多いだろう。これは仕方のないことだ。我々は同じ血を引く別の人間である以上、この違いを埋めることは困難だ。

 同時に、私たちは語り部であり、リリーのお言葉を借りた預言者である。これもまた動かしようのない事実。

 そこで、その威信に懸け、語り伝える者の選別を提案する。


 リリアナに必要なものはみっつ。

 ひとつにどんな海をも渡りきる航海の技術。

 ひとつに物語のすべてを正しく理解し、それを語る力。

 ひとつに星々からリリーのお心を読み解く読解力。


 これらみっつを備え持った者を語り伝える者とする。

 船を操縦し、家族を導き、リリーのお言葉と世界の物語をそうあるべき者に語る、その役目はこのみっつの能力を備えた者のみが持つことにしようではないか。

 語る者であろうとなかろうと、我々は船の仲間である。語る者も語らぬ者も、替えのない家族である。役目を分担する、それだけのことだ。


 さぁ、星が見えてきたぞ。確かな輝きを備えている。リリーの思し召しだ。


 耳を澄まして海鳥の声を聞けば、潮や海の様子を伺い知ることができる。

 上を向いて星の並びを眺めれば、リリーが進むべき道筋を照らしてくれる。

 そして、肩を組めば瞳を分けた家族や仲間がいる。

 私たちの航海に、何を恐れるところがあるのか。

 さぁ、出航だ! 』


 

 苔の生えた老木のような声でアンシュリーは語った。少年の声には違いない。なのにアンリ船長が仲間たちに向かって叫んだ姿が重なった。ジオは見たことも聞いたこともない髭面の船長を思った。

 その瞳は、アンシュリーと同じように世界中の色彩を閉じ込めて爛々と輝いていたはずだ。


「僕は海を渡ってこの島に来た。リリアナにはいくつか成人の儀式があって、その内の1つが一人でガロン島へ航海し、生きて帰ってくることなんだ。だから僕は時期を見て島を出なければならない」

「脱走するってことかい?」


 ジオは一筋冷や汗を流して問うた。視線がぐらぐらと不安定に揺れ、うまく少年に定まらない。


「帰るだけだ。そもそも、今はたまたま鎖に繋がれているだけで、僕は何者にも囚われていないし何も後ろめたいことはない」


 アンシュリーは平然と答えた。

 しかし、幼い頃から鎖と共に生きてきたジオには意味がうまく理解できなかった。


 後ろめたいことはない、そうは言いつつも、もちろん誰にも打ち明けていなかった。どこから漏れてしまうか分からないからだ。虎視眈々とその時を待っている、なんて誰にも気取られてはならない。アンシュリーは細心の注意を払ってきた。


 下手をすれば、一生奴隷のまま帰ることは叶わない。石橋を絶えず叩き続けて、慎重に動かなければならない。

 だからこそ、洗いざらい伝えることがアンシュリーにとってジオへの決意表明だった。


「その時にジオも一緒に来ないか」


 ジオの表情は何度も複雑に移り変わった。それから苦虫を嚙み潰したような表情でようやく答えた。


「俺、何があっても誰にも言わない。そんなふうに思ってくれてありがとう」


 じゃあ、と顔をほころばせたアンシュリーに、ジオは俯いた。明るい夕日の色をした髪に、埃っぽい砂がまとわりついている。


「俺にとって、海は行き止まりなんだ」


 夜が規則的に明け、東の空から世界が白い輪郭に描き出されていく。

 それを遮るように暗い雲が流れ始めた。


 ごめん。

 声が深夜の奥底に置き去りになった。


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