第11話 待ちぼうけ

 夕日が傾きかけた頃、街から海側に向かって進んだ一角に、うらぶれた長屋が身を寄せ合うように佇んでいた。西の空にはまだ太陽が覗いているというのに、日の光には手が届かず、夜のように暗い。


 売春宿がいくつも続き、薄い壁からは鼻にかかった猥声と怒声が垂れ流しになっている。耳を塞いで通り抜けると、今度はすぐ隣の皮鞣し小屋から、獣の腐敗した悪臭が立ち込める。


 そんな暗く狭い長屋の端がジオの家だった。えた臭いと、獣の腐乱臭が交わり、形容し難い蒸れた空気は、ひどくよどんでいる。


 ジオは息を止めて足早に家を出た。それは最早習慣ですらあった。

 かん高い悲鳴が聞こえたので、ふと視線を投げ掛けると、鍵の壊れた一室で虚ろな眼の女が力なく揺さぶられていた。その黒い洞穴のような目と視線がかち合う。


 ジオは顔中の血の気が、一気に引くのを感じた。

 全身が寒い。

 ジオは駆けた。裸と見間違えるような客引きの女たちを掻き分け、夢中で脚を振り回す。

 駆け抜けなければ。絶えず走り続けなければ。

 さもなければ、足から順に凍っていって、いずれ動けなくなる気がした。


 ジオは、ある一定の年齢層の女が苦手だった。苦手というよりかは、恐怖の対象だった。穴の開いた風船から空気が出ていくように、喉からひゅうひゅうと息が漏れる。


 


 夢中で駆け抜けた先には、只の荒れた道が続いている。家はなくなり、人通りもなく閑散としている。しかし、さっきよりも広く空に開けていた。


 いちばん星が見える。

 そこでしばらく息を整えると、ジオはようやく落ち着いた。そうして、雪解けのような心地よさに、しばらく明星を眺めた。


 ノートと鉛筆、それに小さな林檎を鞄に詰め、ジオは今日も今日とてアンシュリーを目指す。

 両手から零れそうなほど、話したいことがたくさんあった。


 大工の見習いにしてもらえる。

 数字や文字がわかるようになったから。

 アンシュリーさんが、俺の未来を諦めないでいてくれたからだ。


 1番にアンシュリーさんに伝えたい。そして、心からのお礼を述べたい。

 そう思うと居ても立っても居られず、今度は暖かな足どりで路地を駆けた。


 そんな彼を後ろから引っ張るように止めたのは、聞き覚えのある声だった。


「こんばんは、最高剣闘士ジオ」


 眼鏡の男が道の真ん中に1人で立っていた。カメレオンのようにぎょろりと目を剥いた男だった。薄っぺらで細い体は、ともすると風に飛ばされてしまいそうに見える。


 名前は知らないが、見覚えのある顔だった。よく、ガリオネ卿の後ろをついて回っていた。

 話したことはあっただろうか。


「俺はもう剣闘士じゃないよ」

「どうですか、市民の暮らしは。剣闘士に戻りたいとは思いませんか?」

 男は首を傾げた。語尾を長く伸ばし、嫌に鼻につく話し方をしている。

「ない。俺、大工をすることになったから、剣闘士に戻ることはない」


 男は馬鹿にしていることを微塵も隠す様子なく噴き出した。それはむしろわざと笑っているのを見せつけているらしかった。

 人の感情に疎いジオですら、自分がひどく馬鹿にされていることが分かった。


 だからといって、どうすることもないけれど。

 でも、アンシュリーさんがこの場にいたら、憤慨するんだろうな。


 ジオは、懐かしいような、仄暗いような視線と声色を冷静に眺めていた。

 いつかの焼き鳥屋の店主と同じだ。

 あの渦の中にいる時には気が付きもしなかった。


「あなた、何人でしたかねぇ。もちろんガーデル人でも、リリアナでも、バラバリアでもない。目立つでしょう?市民として生活するのは、さぞ、さぞ、お辛いのでは?」

「辛くない、むしろたのしいよ。もう行ってもいい?行くところがあるんだ」


 ジオは眼鏡の男の横を通り過ぎようとした。ちょうど真横にすれ違った時、勿体ぶるように男が口を開いた。


「ガリオネ卿はさぞかしご立腹です。君に対してもそうだけど、あるリリアナの子どもに対して」

 ジオの指がぴくりと反応したのを、男は見逃さなかった。

 夜の足音がする。少し寒い風が吹いている。


「他の奴隷に数だのなんだのを教えた、困った奴隷がいるんです。ご存知ですか?」


 ジオが、知らない、と答えたのを無視し、男は続けた。眼鏡の奥の目が勝手に悦に入っている。


「それに、リリアナなのに語らない。そうなれば剣闘奴隷でもしてもらおうかと思っているんですがね。慈悲深い卿のこと、お話ができるかどうか最後まで見極めようとしておられる」

「子どもなんて小さくて弱いから戦っても面白くないよ」


 ジオはあえてぶっきらぼうに言った。


「ジオはもっと小さい頃から剣闘士だったでしょう?たしか、5つか、6つ?あの初戦、よく覚えてます。自分の倍も大きなダチョウを殴り殺していた」


 男の演技がかった口上を、ジオは大人しく見ていた。


「あの日に思ったのです。やはり、異民族は危険だ。鎖に繋いでおかなければならない、と。ガロの教えは正しかった」


 男は長々と続けた。

 自分がいかにガロを敬愛しているのか、異民族を縛り付ける意義、ありとあらゆる物事を、鼻にかかったような、不必要な巻き舌でもって語り続けた。

 そして、自分でその話しっぷりに陶酔していた。


 この男の話は時間を無駄遣いしすぎる。よっぽどの暇人でなければ、相手にしてもらえないんじゃないか。


「脱線しました。ともかく、年齢は関係ない。それにね、楽しみ方はたくさんあるんです。異民族の小さな頭には詰め込めないほどたくさん。例えば、強い肉食獣が鋭い牙や爪でかわいらしい子どもの柔らかい肉を裂くのだって、スリルがあって」


 言葉をぶつ切りにし、男は黙った。

 瞬きと瞬きの間、ちょうど喉仏の膨らみに、ジオの太い親指が触れたのだ。喉仏に親指、盆の首のあたりに残りの指が4本巻き付いている。

 細い首は、片手でだって簡単にへし折れそうだ。小枝でもぽっきり折るように。

 みしりと骨が軋む音がした。


「俺に何が言いたいのか、はっきり言いなよ」


 小男はジオの顔を見て、口角を耳まで引き上げた。

 殺気立った獣のような表情だった。

 毛は逆立ち、瞳は獲物を絞るように細まりつつもぎらぎらと熱を放っている。


「ほらね、ジオ。君はやっぱり闘うことが天職ですよ」


 その晩、アンシュリーはひとり待ち続けたが、ジオはとうとう現れなかった。

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