第2279話 院長夫妻と蓮花研究所 Ⅵ 野々井看護師長 2
野々井看護師長とはあの後で仲良くなり、俺も実力が認められ徐々に評判も良くなって来た。
「石神先生、こないだの小児科でも講義は私も拝聴しました」
「ああ、来て下さいましたよね」
「とても有意義なものでした! それに実際に数値にあんなに変化があるなんて!」
「いや、あれは俺の実体験でしたから。子どもの頃はよく入院してましてね。南条先生という内科の先生がああいうことをしてくれて」
「そうなんですか!」
野々井看護師長はそれまでとはまったく違う態度で俺に接してくれるようになった。
俺もようやく修業時代を終わりつつあり、時間も余裕が出来て来た。
もちろん、ここからが本格的な医者修行だ。
蓼科部長のオペには毎回同席し、オペの技術を吸収していく毎日となった。
「石神先生はナースたちから大評判です」
「いや、そんな」
「でも、誰とも交際なさいませんね?」
「そりゃ、みんな仕事仲間ですからね。俺は恋愛をしにここに来たんじゃないですから」
「御立派です!」
「いやいや」
高校時代までの話は出来ない。
野々井看護師長からは、それまでの評価が180度引っ繰り返って、俺はしょっちゅう褒められるようになってしまった。
蓼科部長が院長になり、俺は蓼科部長の推薦で第一外科部長となった。
野々井看護師長が俺にお祝いの花束と、ダンヒルのベルトをプレゼントしてくれた。
「野々井看護師長、こんな高価なものはいただけませんよ!」
「いいえ、これは石神先生への感謝と期待です!」
「期待?」
「蓼科新院長から聞きました。石神先生はこの病院の大きな改革をなさるのだと」
「いや、それは院長がやることですから」
「これからも、どうか宜しくお願いします!」
笑顔で俺の手を取って去って行った。
あれほどの人に期待されたのだと思うと、俺も気が引き締まった。
数年が過ぎ、俺の第一外科部も一江が副部長となって大森と斎木も大いに頑張ってくれるようになった。
野々井看護師長が元気が無いように見えた。
普通に挨拶をするが、いつもの覇気がない。
俺は気になって、人のいない場所へ連れて行って聞いてみた。
「何かあったんですか?」
「はい?」
「最近、元気がないように見えて」
「え、そうですか。気を付けますね」
「いや、体調でも悪いんじゃないですか?」
「いえ、そんなことは。最近ちょっと暑くて寝苦しいこともありますので」
「そうですか?」
「すみません。私も結構年を取りましたから。自己管理が甘かったようです」
「まあ、無理なさらずに。野々井看護師長はうちの病院の根幹なんですから」
「石神先生!」
一瞬、野々井看護師長は目を潤ませて俺を見た。
でもすぐにいつもの凛々しい顔に戻った。
「御心配をお掛けして申し訳ありません」
「そんな。でも、何かあったらいつでも言って下さいね」
「はい、ありがとうございます」
俺は自分が心無いことを言ってしまったことに気付いていなかった。
自分にあれほど厳しい人はいないのに、病院の根幹だなんて言って余計なプレッシャーを掛けてしまった。
それから2週間後。
野々井看護師長が勤務中に倒れた。
俺が処置室へ行くと、過労だということだった。
「石神先生」
点滴を入れながら、野々井看護師長は目を覚ましていた。
「大丈夫ですか?」
「申し訳ありませんでした! 看護師として失格です!」
必死に謝られた。
「何言ってるんですか。誰よりも頑張ってる野々井看護師長なんですから。今回はちょっと無理が過ぎただけです」
「本当に申し訳ありません!」
目に涙を浮かべている。
野々井看護師長にとって、看護師の自己管理は最低限の規律だったはずだ。
それを自分が崩してしまった。
「今はゆっくりと静養して下さい。院長とも話してます。一週間は自宅で休んで下さいよ」
「いいえ、そういうわけには!」
仕事観の塊のような人だ。
聞き入れにくいだろう。
だから俺は別な話をした。
「何か困っていることがあるんでしょう?」
「!」
驚いている。
でも俺は何か問題が無ければこの人が崩れるわけはないと思っている。
自己管理が甘くなるような人間では無いのだ。
「俺に言って下さい。これまで散々お世話になってるんだ。俺が必ず何とかしますよ」
「いえ、これは……」
「野々井看護師長は、俺が一番苦しい時に助けてくれたじゃないですか。あの休憩用のベッド! あれは本当に嬉しかった! あれがなければ、俺、ダメになってたかもしれませんよ」
「いいえ、石神先生はきっとご自分で」
「嬉しかったんですよ! この病院に来て良かったって、本当に思えた! 野々井看護師長のお陰です!」
「石神先生!」
野々井看護師長は泣きながら俺に話してくれた。
野々井看護師長は今45歳。
30代の後半で結婚し、お子さんが一人いる。
旦那さんとは昨年離婚し、今はお子さんと二人で暮らしている。
今小学2年生だそうだ。
「誠一と言います。最近になって、学校でいじめられていることが分かりまして」
「そうなんですか」
「私が悪いんです。家のことをおろそかにして。だから主人にも愛想を尽かされて、子どもの面倒もろくに観れずに」
「……」
いじめの切っ掛けは、誠一君が片親であることと、性格の暗さだということだった。
恐らく、両親の離婚でショックを受けているのだろう。
子どもの小さな心の中で、そのことがどうしても解決できないでいる。
学校へも行かなくなり、野々井看護師長は苦しんでいた。
俺は野々井看護師長を車で自宅まで送り、誠一と会わせて欲しいと言った。
誠一は痩せていて、暗い目をしていた。
「こんにちは。石神って言うんだ」
「……」
俺を見ようともしないで、顔を伏せていた。
俺は息子の態度を気にする野々井看護師長を無理矢理寝かせた。
しきりに遠慮していたが、俺が鎮静剤を飲ませるとすぐに眠った。
俺は誠一にカレーを作った。
冷蔵庫にはあまり食材は入っていなかった。
部屋も汚れている。
誠一は黙ってカレーを食べ始めた。
「!」
俺はコーンの缶詰を開け、コーンスープも作った。
カレーの辛さを少し甘めのスープでリセットするためだ。
「美味しい……」
「そうか。一杯あるからな」
「……」
スプーンで一口食べ、その後は夢中で食べていた。
きっと野々井看護師長は誠一のために料理もあまり出来なかったのだろう。
誰よりも仕事に熱心で、家庭のことなどおくびにも出さなかった。
仕事を優先し、誠一が寂しがっているのは分かっていても、どうしようもなかったのだろう。
どれだけ苦しんでいたことか。
誠一がカレーを3杯も食べた。
コーンスープも全部飲み干す。
空腹だったのかもしれない。
「おし! じゃあ、掃除をするかぁ!」
「え?」
「誠一も手伝えよ!」
「え、僕?」
掃除機もあったが、音で野々井看護師長を起こしてしまう。
俺は雑巾で床を掃除し、誠一にテーブルなどを拭かせた。
「テーブルの裏と脚も拭けよな!」
「はい!」
ちゃんと返事をするようになった。
俺も雑巾で窓や電球の笠などを拭く。
2Kの部屋だったので、すぐに綺麗になった。
風呂とトイレも掃除する。
「綺麗になったな!」
「はい!」
誠一も笑った。
ちょっとした掃除だったが、部屋が見違えるように綺麗になった。
心なしか部屋が明るくなった。
俺は誠一に紅茶を淹れて、砂糖とミルクをたっぷり入れて飲ませた。
「何かをやった後の休憩はいいだろう?」
「はい!」
俺を見て笑ってくれた。
「学校でいじめられてるんだって?」
「え……」
一瞬で暗くなる。
「どうしていじめられるか分かるか?」
「全然」
暗い。
「それはな、君が弱いからだ」
「!」
俺を睨む。
「弱かったらいじめてもいいんですか!」
「いいわけないよ。人間として最低だ」
「だったら!」
俺は笑って誠一の頭を撫でた。
「間違っているけどな。でも、人間は悪いことも間違ったことも出来るんだよ。実際に今、誠一はそういう目に遭っている」
「!」
「反対に良いことも出来るし、優しくも出来る。それが人間だ」
俺はパスカルの言葉を教えた。
《人は正しきものを強くできなかった、だから強いものを正しいとしたのである。
( Et ainsi ne pouvant faire que ce qui est juste fut fort,
on a fait que ce qui est fort fut juste.) 》 ブーレーズ・パスカル『パンセ』より
「強いものを……」
「そうだ。悲しいことだけどな、それが現実だ。だから君は強くならなければいけない」
「強くですか」
「ああ。君はいじめられる苦しみを知っている。だから強くなって正しいことをしろよ」
「僕がやるんですか」
「人間はよ、やるかやらないかだけなんだぞ?」
「!」
「だからやれよ! やればいいんだよ」
「分かりました」
俺は笑って誠一の頭を撫でた。
「おし! じゃあ、明日一緒に学校へ行くぞ!」
「え?」
「俺が強さを見せてやる!」
「石神さんが?」
「そうだよ。俺が言ったことだからなぁ。俺に任せろ!」
「はい!」
俺は早く風呂に入って寝ろと言った。
誠一は俺を玄関まで見送ってくれた。
少し明るく笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます