第2273話 挿話: 猪又一平の後悔 Ⅲ

 文部大臣賞を取ったのだから、当然プロが写真を撮っていた。

 その写真家を調べて連絡すると、文部省の許諾が無ければ写真は渡すことは出来ないと言われた。

 だから俺は必死に文部省に頼み込んだ。

 ダメと言われても、それで済ませるわけには行かなかった。

 何度も何度も何度も頼んだ。

 石神に申し訳ない。

 石神の母親に申し訳ない。

 二人がどんなに楽しみにしていたことか。

 あいつの家は貧しいことを知っている。

 石神の母親は普段は仕事で、美術館も文部省も行けなかった。

 石神の快挙は、二人にとっての大きな喜びになるはずだった。

 俺などに壊されていいものでは決してなかった。

 毎日文部省に通った。

 校長先生も協力して下さり、嘆願書を書いてくれた。

 校長先生や教頭先生、他の先生方も様々な伝手で力を貸してくれた。

 

 何とか文部省を説得し、石神に絵の写真を渡すことが出来た。

 俺が引き伸ばしや額装の費用を出すつもりだったが、校長先生や他の先生方も是非自分も出したいと言われた。

 みんな、石神のために何かをやりたがっていたのだ。

 俺はまた自分のやったことのバカさ加減を痛感した。


 俺の名前は出さないで欲しいと言ったが、安田先生が俺も一緒に手伝ったのだと石神に言ってくれた。

 石神は俺に礼を言いたいと言ったそうだ。

 だが安田先生がそれを止めてくれた。


 その後、俺は何度か迷った上で、石神が通うようになった中学校へ行った。

 石神の担任の先生に会うことが出来た。

 石神高虎という生徒が入学したが、本当に優秀で良い生徒なのだと話した。

 ただ、身体が弱い面もあるので気を付けて欲しいと。

 笑われた。


 「石神は相当先生方に人気があるようですね」

 「はい?」

 「猪又先生の他にも、校長先生や教頭先生、担任だったという島津先生や安田先生、音楽の本多先生、他にも何人もいらっしゃいましたよ」

 「え!」


 にこやかに笑う担任の先生の言葉に驚いた。

 石神のために、他の先生方もいらしていたのか。

 そして更に驚いた。


 「ここまで先生方が来られるなんて、我々も驚いてます。承知しましたと申し上げたいのですが」

 「え、何か?」

 

 石神の担任という清水先生が苦笑して言った。

 入学早々、石神は2年生に呼び出されたそうだ。

 集団リンチで締められるところを、石神が逆に20人以上も撃退して、今は実質中学の中心になったのだと。


 「でも別に、不良になったわけじゃないんですよ。石神が不良たちの中心になっただけで、何も悪いことはしていません。むしろ、あいつらの悩みを解決してやってるというか」

 「どういうことです?」

 「何か困っていると、石神が動くみたいですよ? まあ、他校との喧嘩もありますが、以前ほど無茶はありません。石神が強いですからねぇ」


 俺は呆然とし、次の瞬間に込み上げた笑いを抑えられなかった。

 今では男子からも女子からも大人気らしい。

 もちろん成績もトップで、みんなが期待しているのだと。

 俺は笑って礼を言い、とにかく石神をお願いしますと言って辞した。

 俺などの出る幕ではなかった。

 石神はやはり最高だ。






 石神の卒業後、俺はある生徒の家と揉めるようになった。

 後に言うクレーマーやモンスターペアレントというものだ。

 自分の子どもを優遇しないと猛烈にクレームを出す。

 その生徒の担任が標的にされ、俺が懸命に間に入った。

 そして後に、俺がその生徒に「指導」をしたことが問題になった。

 俺は確かに頬を叩いた。

 同級生に暴力を振るったためだ。

 しかし、その翌日、その生徒は頭に包帯を巻き、片足を引きずっていた。

 顔に酷い痣があった。

 病院で診断書も受け、俺が暴力を振るったと親が訴えた。


 校長先生も教頭先生も他の先生方も俺のことを庇おうとしてくれた。

 だけど俺は断った。

 俺は石神にもっと酷いことをしたのだ。

 校長先生たちが目撃例を基に刑事事件としては成立しないようにしてくれたが、暴力を振るったことは事実として俺が認めた。

 責任を取って教師を辞職するつもりだったが、校長から離島の小学校の教師を勧められた。

 今いる教師が校長の教え子だったそうだが、体調を崩して辞めるので、代わりに行かないかと。

 俺などに出来ることがあるのならと、その話を受けた。

 結婚した大神田先生には申し訳なく、離婚した。


 離島での暮らしは、俺を一変させた。

 全校で12人しかいない小学校。

 純朴な子どもたちのために、必死に俺が出来ることをやった。

 石神がやっていた勉強法を子どもたちに教えた。

 みんなぐんぐんと成績が良くなり、県の学力テストでも上位クラスに入った。

 俺は石神の話を子どもたちにした。

 みんな笑い、泣き、いつも目を輝かせて石神の話を楽しみにしてくれた。


 火傷を負った横倉ミユキとの友情。

 暑いので山にプールを作って、大洪水になったこと。

 ダンス大会で、他校の女子に足を刺されても最後まで踊ったこと。

 隣の家の女の子を助けるために、自分が包丁で刺されても護ったこと。

 どういうわけか身体が弱く、しょっちゅう病院に入院するので入院患者の間で人気者になっていること。

 静馬君という高校生に出会い、勉強を教えてもらったこと。

 その勉強法で石神が100点以外を取らなくなり、今みんなにそれをやらせていること。

 石神の話は幾らでもあった。

 子どもたちも、石神の話を聞きたがった。

 それはそうだろう。

 石神は最高だから。






 俺はただ一つだけ、どうしてもやり残したことがあった。

 石神に謝りたかった。

 しかしそれは許されることではなかった。

 今更石神にどうして謝ることが出来るか。

 自分がやった酷いことを毎日思い、石神に心の中で詫び続けた。


 そしてその石神から思わず手紙が来た。

 安田先生に石神の絵を燃やしたのが俺だと聞いたという手紙だった。

 覚悟はしていたはずなのに、俺は青ざめながら手紙を読んだ。


 「驚きましたが、俺が猪又先生に逆らい続け、生意気だったことは自覚しています。当然の報いと思っています」

 

 石神は続けて書いていた。


 「猪又先生にお世話になったことは忘れません。本当に楽しい時間でした。一生の宝です」


 石神はそう書いていた。

 俺は手紙を握りしめて号泣した。

 自分の小ささ、卑しさに泣き、石神の純粋と優しさに泣いた。

 すぐに石神に手紙を書こうとした。


 書けなかった。


 自分の中で積み重なったものがあまりにも多すぎた。

 何度も紙を破り何度も挑んだ。

 たった一言だけが残った。


 《ありがとう》


 石神には何の説明にもならない。

 こんなものを送られても当惑するだけだろう。

 でも、俺にはそれしか書けなかった。

 大きな紙に書いた。

 書き記せないことが大きな空白になった。

 涙が堪え切れなかった。

 そのまま、石神に送った。


 石神からまた手紙が来た。

 もう石神に書くことは無くなった。

 俺などには関わらずに、石神の素晴らしい人生を歩んで欲しかった。

 

 俺はまた次の離島へ行くつもりだった。

 そういう希望を教育委員会へ出していた。

 俺は石神に救われた。

 俺は石神に許されないことをしたが、石神を傷つけることは出来なかった。

 石神は俺などがどうすることも出来ない人間だった。

 でも、俺がダメになれば、そのことがきっと石神を傷つける。

 だから俺は一生教師として懸命に生きよう。

 俺は死ぬまで石神と会うことはないだろうが、どこにいても石神のことを思っている。

 忘れられない人間だ。


 石神に感謝し続けている。






 3月の終わり。

 俺は荷物をまとめて家を出ようとした。

 引っ越しの荷物は、明日に業者が運んでくれる。

 5年もいた島で、ここを去るのは寂しかった。


 「あー! 間に合った!」


 俺の家の前で女性の声がした。


 「良かった! もうちょっと遅れたらすれ違いだったね!」

 「どうしてここに!」


 大神田先生が微笑みながら立っていた。


 「もう十分でしょう? 校長先生に聞いていたの。あなたが立派にここで仕事をしていたのは知っているわ」

 「なんで……どうして……」


 「私はもう待てないわ。これからはあなたと一緒に行くから」

 「え?」

 「あなたは十分に苦しんだ。もういいでしょう。これからは二人で背負って行きましょう」

 「美奈子……」


 妻だった女性の名前を呼んだ。


 「はい! さあ、行きましょう!」

 

 目の前が見えなくなった。

 俺の眼から次々に涙が溢れ、何も分からなくなった。

 美奈子が俺をそっと抱き締めてくれた。


 「苦しかったでしょう。もう私が一緒にいるからね」

 「……」


 言葉も出なかった。

 顔を歪め、涙を少しでも抑えようとしたが、無駄だった。

 俺の中にはそれだけのものがあったのだ。

 美奈子は俺を抱き締め、黙ってそのままでいてくれた。


 俺は許されたわけではない。

 でも、また美奈子と一緒に生きてもいいのだろうか。





 石神の、あの優しい笑顔が浮かんだ。

 あいつの笑顔は最高だった。

 

 石神が微笑んでいてくれた。

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