第39話 蓼科文学
翼の葬儀が終わり、焼き場で待っている間、俺は一之瀬夫人に呼ばれた。
「先生、いろいろとありがとうございました」
「力不足で申し訳ありませんでした」
俺たちは焼却炉に近いベンチに腰掛けていた。
「主人には話せないのですが、翼は毎日先生の話を私にしました。先生から力づけてもらって、自分はもう大丈夫だと喜んでいました」
「……」
「本当に先生のお蔭で、翼は素晴らしい最期を迎えられたと思います。もうこれ以上のことは、私には考えられません」
「そうですか。大したことはできませんでしたが、翼くんがそう言ってくれたのなら、私もこれ以上は」
「あの子は最期に「ありがとうございました」と言いました。もう呼吸も満足にできなかったのに、確かにそう言ったんです」
一之瀬夫人は、そう言って泣き崩れた。
お前はすごい奴だよ、翼。
その後、一之瀬夫妻は離婚をした。
翼の件が理由だろうが、どうにも夫婦生活がダメになったらしい。
一之瀬夫人は俺のアドバイスもあり、家事代行の会社に就職した。
俺はというと、自覚が無いまま、どうにも不味いことになっていたらしい。
自分では割り切っていたと考えていたのだが、初めての患者の死に、深いところで変調を来たしていた。
それを指摘してきたのが、学会で偶然に出会った蓼科文学という男だった。
40代の精力的な顔、100キロはあるだろう巨漢。
指が恐ろしく太い。
一流の外科医と見受けられた。
学会の発表を聞きに来ていたらしい蓼科医師は、俺の発表の後で近づいて来た。
「お前、死ぬぞ?」
突然そう告げられた。
理由も何も分からず、俺は外に連れ出され
「引っ張られている」
と言われた。
不思議なことに、蓼科医師は最近俺が患者の死に立ち会ったことを言い当て、その患者を大事に思っていたのだろうと言った。
俺は驚いて、翼のことを詳細に話す。
話しているうちに、俺は号泣していた。
悲しみの感情も湧かないまま、号泣する自分に、俺は驚いていた。
「石神といったか。お前はなぁ、心が分解していたんだよ。若い医師にはときどきあることだ。真面目な奴に限るけどな。でも、分解したままでいると、そいつは必ずダメになる。俺はそういう医者をたくさん見てきた」
背中をでかい手でバンバン殴られたが、俺は逆に楽になっていった。
不思議だった。
蓼科文学の手が俺に触れて、俺は自分が如何に体調を崩していたかが分かった。
それが解されていた。
「おい、お前! 気に入ったぞ。俺の病院へ来い。俺が鍛え上げてやるぞ」
「いえ、今の病院を勤め上げるつもりなので、折角の……」
「ダメだダメだ! お前は俺の下につかなければ、必ず死ぬ。お前はそういう男だ」
はっきり言って、不思議なことは確かに起きたのだが、一方的に俺に言い聞かせようとする蓼科医師に従うつもりはなかった。
しかし俺の居場所を知った蓼科医師は、何度も押しかけてきた。
俺だけではなく、俺の上司や同僚にも接近し、俺の転職をしつこくねじり込んできた。
半年後、俺は蓼科医師の病院へ移っていた。
根負けしたと言うよりも、蓼科医師と話すうちに、彼の魅力のほだされたのだ。
蓼科医師は若くして理事に就任していた。
超一流の病院だ。
大学病院ではないにも関わらず、俺が勤めていた医大よりも格上だ。
40代でそういう病院の役職に就くのは異例のはずだ。
「俺はな、お前にはもっと若くして理事に就いてもらうつもりだからな」
俺が勤め始めて間もなくして、彼はそう言った。
その通りになった。
蓼科医師は病院内で有名だった。
世界的、と言って差し支えない。
彼が執刀した手術はことごとく成功していた。
そして、その多くは非常に困難なものだった。
誰もが諦めて当然、というオペも、蓼科は成功させている。
また、人間的な魅力に溢れてもいた。
豪快な見た目や言動だけではなく、繊細な性格も併せ持ち、なおかつ教養が高かった。
そして、何よりも優しい人間だった。
俺が魅惑された大きな理由は、彼の優しさと教養にあったと言ってもいい。
蓼科医師は俺と話すのを好み、俺たちは公私ともによく一緒にいた。
自宅にもしょっちゅう呼んでくれ、奥様がまた優しい方だった。
まあ、俺がこんな人間なので、蓼科医師には多大な迷惑をかけたのも事実だ。
一度や二度ではもちろんない。
そのたびに怒鳴られ、殴られ、処罰され、懲戒免職も二度ほど喰らいかけた。
蓼科文学は、ほどなく院長に就任した。
俺は理事に任命された。
四十代を前にしての理事就任は、初めてのことだった。
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