凡人たちのセッション(4)

 クラッシュシンバルの鋭い音と共に、アンプから和音が流れ出す。何度となく聴いた晴れやかなリフ。滑らかに変化するその音は手元の感触とリンクしている。


 ――なんだ、これは。


 疾走感を持って空間に響き渡る音の波に、僕は驚きを隠せずにいた。


 その理由の一つは、自らの演奏。


 連休中は基礎練習に耽っていたため、曲を弾くのは実に一週間以上ぶり。今さら譜面を忘れることはないが、いつも以上にうまく手が動かないのではないかという思いはあった。だが、そんな不安は演奏が進むに連れて薄れていく。


 指で弦を押さえる左手の感覚が、ピックで弦を弾く右手の感覚が、昨週までとは明らかに違っていたのだ。不十分なフィンガリングで乾いた音を鳴らしたり、余分な弦を弾いて無駄な音を鳴らしたりする回数が格段に減っている。コードチェンジの際に不要なスライドをしてしまう癖や、ピッキングのムラによる音の強弱のバラツキも大きく改善されていた。


 当然、プロレベルと言えるまで急激に上手くなったというわけではない。石川ほどの安定感や表現力を会得したわけでもない。しかし確実に、自身の演奏技術の向上を実感することができていた。たった一週間といえど、基礎を鍛えるだけでここまでの変化が現れるものなのか。


『堅固な基礎無しでは優れた演奏は生まれない』という、先日石川が言ってのけた言葉を、やっと今、本当の意味で理解できたような気がした。


 そして、そんな自身の変化と同等に、いや、それ以上に僕に喫驚を与える存在が目の前にあった。


 それは、コンテナ内の空気を溌剌と震わせる、圭一のドラムプレイ。


 一定のリズムを刻むビート。小気味好いシンコペーション。合間に挟まれるダイナミックなフィルイン。


 途中でテンポが走り気味になったり、同じビートの中で打音の大きさが疎らであったり、原曲に比べるとやや見劣りする部分は見受けられる。どこか固さが残っている印象だ。


 しかし忘れてはいない。これがドラムを始めてたった一週間の人間が作り出している音だということを。この目で見ているのに、この耳で聴いているのに、いささか信じられなかった。初心者とは到底思えぬほどの華麗なドラミングを圭一は披露していた。


 悪く言えば丁寧さに欠ける勢い任せなドラミング。だが経験日数を考慮すれば、十分過ぎると言えるほど、異常だとも言えるほど、完成されていたのだ。これなら圭一が合わせようと言い出すのも頷ける。


 そんな衝撃的な光景を前に僕は両目を丸くしていた。しかし、両手の動きを止めることはない。粗削りな8ビートの上でギターを鳴らし続ける。今この瞬間は驚嘆に浸っているだけではもったいないと強く感じた。


 譜面に照らし合わせれば不正確な演奏であるし、かといって妙味のあるグルーヴ感が生まれているわけでもない。それでも、たしかにアンサンブルを奏でている。人と音を合わせるということの楽しさを深く味わっていた。


 ふと、僕は石川の方へと目を遣った。僕たちの演奏を間近で聴いている彼女は顔を綻ばせながら曲のリズムに合わせて口の形を変えている。けたたましく吠える二つの楽器の音のせいで声は聞こえないが、きっと歌を歌っているのだろう。その楽しげな姿に僕も思わず口元が緩みそうになる。


 瞬く間に旋律は進み、気がつくと曲はラストのサビを迎えていた。異様に早く感じられた時の流れを惜しむように僕は強く弦を掻き鳴らす。そして、どこまでも麗らかな音色のままアウトロを奏でて演奏を終えた。


 左手で六本の弦を軽く押さえて、スピーカーから僅かに流れていた余韻を止める。轟音から静寂へと世界は移り変わった。鼓膜を細かく揺らすような耳鳴りに襲われる。しかし不快な感覚ではない。大きな高揚で、胸の奥底が震えている。


「――いいね」


 不意に石川が小さくこぼす。


 そして次の瞬間には盛大に声を華やがせた。


「いいねいいね! すごく良い演奏だったよ!」


 空世辞などではなく心の底から、といったような語勢で言う。


「篠宮くん、聞いてたより全然ちゃんと弾けてるじゃん!」


「……いや、まだまだ全然下手くそだよ」と、僕は呟いた。


 たしかに以前よりは確実に上手くなっている。押弦やピッキングの正確性は増し、その他の凡ミスの数も格段に減っていた。しかし石川の演奏に比べれば、僕のそれが未だに極めて拙いものであることは歴然だ。それゆえに、彼女の言葉に対して素直に喜ぶことができなかった。


 いや、僕のことはどうだっていい。それよりも今はもっと気にかけることがある。


「そんなことより」と、僕はドラムセットの奥へ顔を向けた。同時に石川も同じ方向を見遣る。


 二つの視線が重なった場所では、ドラムスローンに座ったままの圭一が軽く伸びをしていた。僕たちの眼差しに気付いた圭一は体勢を戻し、いつものように涼やかな微笑を浮かべる。


「いやあ、まだまだ上手くいかないものだね。一人での練習の時とは勝手が違うよ」


 いやいやいや――


「いやいやいやいや」と、僕より先に石川が吐き出した。


「ドラムを始めて一週間で今の演奏はめちゃくちゃ上手いよ! すごくちゃんと叩けてる! ビックリしたよ!」


 一言一句同意だったため、僕は何も言わずに強く頷いた。


「あ、本当? よかった、最低限お眼鏡に叶ったなら何よりだ」


「いやいや、最低限どころか十分過ぎるぐらい! 御堂くん、本当に楽器未経験なの?」


「うん、楽器だけは昔から縁がなくてね。でももっと早くに始めるべきだったよ」


 圭一は言いながら、僕の顔にその微笑みを向ける。


「こんなに楽しいものだったならね」


「……そうだな」と、その視線に素直に答えた。


 今のセッションは、ギターを弾き始めてこの数か月の、どの演奏よりも楽しかったと断言できる。奏者側としての『音楽』というものの輪郭に、初めて触れることができたような気がした。


「まあ普通の人間は圭一みたいに一週間でセッションができるほど、すぐに上手くはならないけど」


 と、薄笑い気味に僕は続ける。


「さすが天才だな」


 口を衝いて出た僕の言葉を聞いた瞬間、圭一の表情は穏やかな笑みから渋面へと変わった。そのまま大仰に大きなため息を吐く。


「あのねえ、修志くん。前々から言ってるけど僕は天才なんかじゃないんだって」


 圭一はそう言ってドラムスローンから腰を上げた。その声色には怒りというより呆れの方が強く滲んでいる。


「この世に天才はいないし、天賦の才なんてものも無い。そんな言葉はね、才能を磨こうとしない人や、向上を諦めている人の言い訳だよ」


 滔々と続けながら圭一はドラムセットを超えてこちらにゆっくりと近づいてきた。その姿に思わず身が強張る。


「理想の才能や、求める結果があってそれを得たいのなら、相応の行動をするしか方法はないんだよ。そしてそういうものは何もせずに最初からあるものじゃない」


 そして、僕の前に立つと同時に、自身の片手を顔先へ持ち上げた。反射的に、掲げられたその手のひらへ目を向ける。そこに散りばめられていたのは痛々しく膨れた大量の肉刺だった。


「この世に天才はいないよ」と、圭一は改めて言った。


「あるのは意志と努力、それだけさ」

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