出会いと始まりの音(2)
四月も終わりを迎えようとしている一日の午後。
教室には柔らかな暖かさと床板の木材の香りが漂っていた。僅かに開いた窓の隙間からは緩い風が流れ込んでくる。窓外には淡青に色取られた春の晴空が広がり、そこから散らされる淡い光によって、室内は照明を点けずとも十分な明るさに満たされていた。
紺色のブレザーを身に纏って机を並べた四十人のうちの多くが、そんな陽気な空気にあてられて首を揺らしたり、机に突っ伏したりしている。教壇に立つ男性教師の声もどこか締まりがない。チョークを握る手の動きも緩慢だ。
僕もまた、体の奥底から際限なく湧き出る眠気に襲われ、なんとか頭の位置を保とうと左手で頬杖をつく。不意に欠伸が一つこぼれた。口を大きく開く動きに伴って震えた頬に、親指を除く四本の指先が細かく擦れる。
すると頬には僅かにささくれて硬くなった皮膚の感触が伝わってきた。思い出したように一度頬から左手を外しその先端を見つめる。そこには押弦を重ねることでできるタコが浮かび上がっていた。
エレキギターを弾き始めて五ヵ月。毎日のように練習を続けていれば皮膚もこれぐらいには硬くなる。プロの奏者と比べればまだまだ柔らかい方なのだろうが。親指で押さえつけるようにしてそれぞれの感触を確かめた後、改めて頬杖をつき前方に目を遣った。
クラス替え間もない今は出席番号順に席が並べられてあり、自分は最後列に座っている。首は動かさず目の動きだけで一度教室全体を眺め回してみた。クラスメイトの約半数は一年生の時から面識がある。クラスが一緒だった者、中学が一緒だった者、それらの友達伝いで知り合った者。
残りの半数は入学して一年の間で全く口を利いたことがなかった。ともすれば存在すら知らなかった人間もいる。一学年に二〇〇人以上の生徒が在籍しているので不思議な事ではない。
だが進級して一ヵ月が過ぎた今では、そのようなクラスメイトとも何気なく会話をしている。友達百人できるかな、と躍起になっていたわけではないが、人というのは気づかぬうちに親しくなっているものだ。
しかし、そんな中で一人だけ、今なお一度も言葉を交わしたことの無い人間がいた。教壇から数えて二番目の列の廊下沿い。僕から見て右斜め前の席に、その女子は座っている。
華奢で小柄な背丈。柔和な印象を与えられる丸みを帯びた大きな瞳。軽くウェーブがかかった亜麻色の髪は顎の辺りまで伸びて、まるでそよ風に吹かれているかのように常にふわりとした柔らかい輪郭を保っている。詳らかな性格までは知らないが、友人と話している時に見せる快活そうな笑顔が印象的な少女。
石川――たしか、下の名前は彩音だっただろうか。
彼女は僕と同じように左手で頬杖をつき黒板を見つめていた。背中に退屈の二文字を背負っているのも僕と同じだ。
彼女と口を利いていない理由は特に無い。単純に話す機会が無いだけだ。中学や一年次のクラスが違えば、共通の友人もいない。席も少し離れている。廊下や登下校の際にすれ違ったことも一度もない。機会が訪れるまで無理に話そうとも思わないが。
とはいえ、石川彩音という存在には、少しばかり興味を惹かれてしまう点があった。
教室で過ごしている様を見ている限りではどこにでもいる平凡な高校生だが、ただ一つだけ、特異とも言えるものが彼女の姿には携えられている。それは四月に彼女と出会う以前から噂で聞いていたこと。
石川彩音は一年を通して、自身の右手に白無地の手袋をはめている。
春の暖かさの中でも、夏の猛暑の中でも、それを外した姿を見た者は一人としていない。登校から下校まで、授業中も昼食の際も、常に彼女の右手は白色の布に包まれている。どれほど仲の良い友人の前であってもその中身が露わになった瞬間は無いという。理由を尋ねてみた者も多いらしいが、その度適当に誤魔化され、結局真実に辿り着いた人間はいないようだ。
昨年、初めてその噂を耳にした時には一切興味が湧かず聞き流していたが、しかしいざ同じクラスになり実際にその光景を前にすると、たしかに好奇の眼差しを向けてしまうのも頷ける。
極度の寒がりなのではないかと憶測してみたが、そうすると両手に着用しないのはおかしい。噂によるとその手袋はシルク生地で作られたような薄手の代物らしく、ファッションと言うにもデザインが質素過ぎる。
何か強い拘りでもあるのだろうか。その答えが何にせよ、強固な意志を備えていないと成しえない所業だ。
僕はしばらくそのまま、彼女の後ろ姿に目を向けていた。
時折小さく欠伸をしながら、謎に包まれたその右手に持ったペンでノートに何かを書き込んでいる。視線は黒板に、机に、窓外にと、不規則に動く。窓から差し込む昼下がりの陽光を受けて後ろ髪が軽く艶めいている。
そんな光景をボンヤリと眺めているうちに放課の鐘が鳴った。
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