第22話 百年前のできごと

 おれは念を制御しながら、いろいろ思案した。


 何れにしても、こんな得体のしれない婆さんを雇うわけにもいかない。少し方向を変えながら、やんわりと断ることにしてみよう。


きよさんとおっしゃいましたっけ?」


「はい」


「身寄りの方もいらっしゃるでしょう。皆さんには相談されているんですか?」


「ありません。みんな、とうに死にました」

 簡単な答えが返ってくる。


「えっ? お子さんたちもですか?」


「子供はありません」


「そうなんですか……」

 とりあえずそう呟いたものの、ここで引き下がるわけにもいかない。

「非常に立ち入ったことを聞くようで申し訳ないんですが、御主人は?」


「先の戦争で死にました」


 先の戦争だって……?

 脳みそを高速で働かせながら、計算してみた。


 太平洋戦争が終結したのは1945年。若く見積もって、その時このお婆さんがまだ二十歳だったとしても、それに72年を足すと92歳だということになる。


 とてもそんな年には見えない。どう見たって、古希を少し超えた位にしか見えないのである。


 しかし、この人の言うことを素直に信じるとした場合、子供がないうえに、夫にも先立たれ、ほかに身寄りもないというのは、余りにも哀れである。


 このおれにだって親戚がまだ故郷にいるし、こちらから袂を分かったものの、少しは友達もいる。


 家も広いし、食費がそんなにかかるようにも見えないし、しばらく様子を見てみることにするか……。


「有難うございます。この御恩は一生忘れません」

 清さんは、風呂敷包みを脇にずらすと、頭を畳にすりつけんばかりにお礼を言った。


 おれは、彼女のこの『一生』という言葉に、少し違和感を感じたのだが、それが何故なのか、その時は分からなかった。


 清さんはやがて頭を上げると、またさっきみたいに両眼をキラキラさせながら言う。

「さて、こうなった上は、あなたのことを何とお呼びしましょうか。坊ちゃんがいいですか。旦那様にしましょうか。それともメイド服を着て、御主人様とお呼びしましょうか」

 婆さんらしからぬ冗談を言う。


 これにはずっこけてしまった。

「何とでも呼んでください」

 照れ臭さと狼狽のあまり、つい適当に答えてしまったのが悪かったのかもしれない。


 すると、

「坊ちゃんは、いくつにおなりですか?」

と聞くので、正直に

「二十五です」と答えた。

 

 いい機会だ。

 おれはストレートに疑問をぶつけてみることにした。


「清さんは、おいくつですか?」


「まあ、女子おなごに年を尋ねるもんじゃありませんよ」

 とたしなめられる。


「いやあ、済みません。御主人を先の戦争でなくしたという割には、余りにもお若く見えるものだから、つい――。足腰もお達者なようだし、失礼ですが、お肌もつやつやしていらっしゃるじゃありませんか」


「有難うございます。裏表のない坊ちゃんからそう言われると、素直に嬉しゅうございます。ですが坊ちゃん、奉公人の私に敬語を使ってはいけませんよ。人目もありますから、もっと威厳を保たないと」


 そんな……、封建時代じゃあるまいし、と思いながら、

「御主人はどこで戦死されたんですか? やはり南洋諸島かどこかで」

 と、それとなく尋ねてみる。


「いや、地中海でございますよ」


 地中海だって……?

「はい。主人は駆逐艦「榊」の乗組員でございました。今から百年前、オーストリア・ハンガリー海軍の放った魚雷により壮烈な最後を遂げました」


「えっ、じゃあ先の大戦というのは――」


「さようでございます。第一次世界大戦で、主人は戦死したのでございます」

 きよさんは、澄ましてそう答えた。

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