誠実 二〇二一年 一月二十九日 ②
バイト先のレストランはラストオーダーが終わっても、テイクアウトの注文は閉店三十分前まで受けつけていた。先に支払いを済ませた男性に梱包済みの商品を渡して、ようやく俺はカウンターの締め作業に入る。
慣れてしまえば緊急事態宣言前とあまり変わらない業務量は、裏を返せば締めの作業に取りかかる時間が遅れ、早く帰りたい愚痴と苛立ちが頭の中で悪さをする時間帯だ。グラスをいつもより手早く洗い、水の入ったボウルに漬けて置く作業を、手を滑らせないように意識しながら繰り返す。いつもなら洗うのに慎重さを要するワイングラスも、アルコールの提供を制限する要請がかかっているおかげでほんの数十秒短縮されることを考えると、ありがたいと捉えることもできる。長くいればいるほどお金は入るはずなのに、早く帰りたいという気持ちの塊は、バイト先を変えてもずっと俺の側にいる。
並行作業でカウンターの床掃除のために、洗剤を吹いて回る。水道下にあるゴミ箱も前に出すなど、細かいところまでやらないと清潔さを保てない。
「健太郎。これやったら次はゴミ袋外に出すから。床掃除終わってもゴミ箱は出したままにしといて」
明日出す食材の準備をしている雅也さんに、小さく頷く。一日店を開けると、カウンターと厨房、それぞれ二つゴミ箱を置いても、ラストオーダーが終わればパンパンになって、口を縛るのがいつも大変だ。もっと大変なのは外に出すことで、裏口のドアの段差を越えるときは二人で持つようにと、去年ぎっくり腰を起こした伸行さんが全員に厳命した。今日は俺と雅也さんが自動的にその係だ。
「あー社会人なりたくねー。働きたくねー。一生大学生のままだらだらしてーわ」
外に出た途端、雅也さんがニュッと眼の形を変えて漏らす。ラストオーダーが終わり客の入りもないと、人目のない裏口で自然と声が出る。レストラン側もマスクをしての会話を推奨しており、最低限のコミュニケーションを除き、店員である自分たちが喋っているのは特に憚られる。
「俺はそれ言える雅也さんが羨ましいっすね。これ嫌みとかじゃなくて、早く就活終わらせたいなーっていう意味で。交換します?」
就活も卒業論文も終わり、大学生としての活動のほぼ全てを終えた状態は、さぞや清々しいのだろうと思った。
「誰が就活真っ最中の奴とするか。俺は遊びたいの」
「雅也さんも就活嫌だったんすね」
「好きな奴いる?」
「……いないっすね」
業者回収用のゴミ箱に詰め替え、首を回すとポキポキと疲労を溜め込んだ音がした。
「疲れるぜ~、採用されるように立ち回らなくちゃいけないのは。理屈はわかるよ。俺たちが希望する仕事のほとんどは一人じゃ回せないんだから、会社側は一緒に働きたい奴を採用するわけじゃん。対人関係で問題起こす奴とか、会社とか関係なく絶対に嫌だし。それでも、小学校から大学まで勉強して受験も乗り越えて、最後が『面接官に好かれるよう話をしてください!解答は一社毎異なります!文句あるやつは全員不採用です!』って。本当に謎システムだよな」
不透明だ、と雅也さんは首を振る。その思いは俺も前からずっと変わらなかった。
だが――、
「俺も就活始めてからずっと、わからないことだらけだったんですけど、どうすればいいのか、最近ようやく掴めた気がしたんです」
「おっ、いいじゃーん。就活なんて早く終わらしちゃえ。その頃には誰の目も気にせず遊び回れるかもしれないし、早いに越したことねーって」
「ですね。たしか、外国で実績出したワクチンが日本にも来るらしいんで、案外雅也さんの言ったことも、すぐ現実になるんじゃないですか?」
ファイザー社が開発したmRNAワクチンは、新型コロナウイルスに効果が見込まれ、ワクチンの接種が進んでいる国では感染者が一気に減少している。緊急事態宣言真っ最中の日本でも早く導入されてほしいが、接種が始まるのはもう少し先らしい。俺が打てるように、待機列の前に並んでいる方々には、一刻も早くワクチン接種をしてもらいたい。
だが、俺の期待を疑うように、雅也さんは「えっ」と声を漏らす。
「ファイザー社のワクチンの接種が日本でも始まるのは俺も知ってるけどさ、あれって副作用が出るからメディアで批判されてなかったっけ?」
「はい?」
意味がわからなかった。
「それに、雑誌や新聞社のインタビュー記事で、打ちたくない人が半数を超えてるのもあったよ」
「はい??」
あまりのおかしさに、思わず笑ってしまいそうだった。この感覚は口裂け女とかの都市伝説を本気で信じてしまった同級生が、次の日学校で話しているときと似ている。正直なところ、雅也さんが馬鹿になったのだと思った。
実際、雅也さんが言ったことを、俺もテレビやインターネットなどのメディアを通して知ってはいた。だが、人面犬やトイレの花子さんの話を知っていても、本気で信じる人がいないように、俺もほとんど信じてはいなかった。つまり、なんの根拠もない話を、雅也さんは俺に言っているのだ。俺が都市伝説と同列に並べているものを。
公表されている中でも、エビデンスを見れば雅也さんが言及した記事はデマだってことくらい、あの人の頭で判断できないほうがおかしいだろうに。今言ったことは、本当にこの人の口から出た言葉なのか、空耳だったんじゃないかと我を疑った。そうでないのだとしたら、冗談であることを願いたい。
そんなことを考えているうちに、俺たちの体は店内に戻ってきていた。「カウンターは俺一人でもいいから」と雅也さんがカウンターで片付けを続け、俺は空いたテーブルにあるメニュー拭きをする。雅也さんを一瞥するが、彼の様子におかしなところは何もない。
さっきの話は、誰にでもあるちょっとした勘違いなのだろうと区切りをつけ、俺はメニューを一つのテーブルに集めて消毒液を吹きかける。パウチ加工された表面が橙色の明りを細かく反射するメニュー表を数えると、一つ足りないことに気づいた。おそらく、まだ残っている客のところのだ。
「これ、よく撮れてるだろ。今年の箱根駅伝は選手の顔が近くで見えて、ほんと行ったかいがあったな」
既に食事を食べ終えている中年男女二人組が楽しそうに喋っている。いつもなら、ホールを担当していた佳穂さんには、ラストオーダーの確認と同時にメニューも回収して欲しかったな~と思うくらいで、客の会話に一々気を散らすこともない。
が。
二人組からもすぐわかる位置の、A4用紙にマッキーで書かれた文字を一瞥する。
『マスク会話。お食事中以外はマスクを着用し、マスクを外しての会話はお控えください。他の方へのご配慮をお願い致します』
先月、初めてこの貼り紙を見た時は、正直やりすぎと思ったが、東京都の感染者が千人、二千人を超えてきては、そう思うこともない。ただ、前よりも色を抜き取ったような店内の雰囲気が寂しさを匂わせ、その度に、食事は三大欲求の一つというだけではなく、コミュニケーション手段も兼ねているのだと思い知らされる。
「来年もこれくらい近くで観れて、もう少し暖かければいいわね。風が強くて、選手が来るまで何度か帰りたくなったわ」
他に客もいないし、あと十分もしないうちに帰る。細かいことに口出ししなくてもいいはずだ。
「大変申し訳ありません。当店はマスク会話を実施しておりますので、お食事後はマスクを着用しての会話にご協力よろしくお願いします」
と、気づかないふりをしていたら、ホールで別の締め作業をしていた佳穂さんがやんわり注意した。位置的には俺の方が客には近いので、俺が気づいていることは佳穂さんも認知している。怠慢に対する申し訳なさからマスクの内側が熱くなっていく一方で、客の表情がふっと冷たいものに変わった。
「あ、そう。てか今食べ終わったばっかなんだけど。ねえ、それくらいわかるでしょ」
佳穂さんは自分が地雷を踏んだことに気づき、体が固まった。
こういった従業員の立場ではどうしようもないトラブルを踏んでしまうと、こちらからとれるアクションは非常に限られてしまう。そのくせ、マニュアルでは対応できないトラブルの種類はマニュアルと同じか、それ以上に幅が広い。河原で大きな石を引っ繰り返した時のように、思いも寄らないものがたまに紛れこんでいる。
どうしてこういう時の勘は当たるんだろうと、声に出したくなる。そして、佳穂さんに土下座で謝りたくなった。
「失礼致しました。お済みの皿をおさげしますね」
佳穂さんは存在しない非を詫びて、頭を傾けながら空いてから時間の経った皿を下げる。客の男性はなにかぶつぶつ小言を零していたので、俺はメニューを拭いていた手を止め、客の近くから離れたテーブルを拭く振りをする。あの場に留まって、佳穂さんをフォローできるわけでもないし、冷え切った空気の隣にいるのも危険な気がした。
だから、なにも聞かないようにするのが、一番空気を読んだ行動だと言い聞かせて逃げたのだ。
残った客が会計を済ませた後、伸行さんがアルバイトの三人を呼んだ。俺はさっきの客のことを二人の前で言われるのかとげんなりしていたが、伸行さんはわかりやすい笑顔を浮かべ、カウンター裏の冷蔵庫から焼きリンゴを取り出した。
「キャンセル出て余っちゃったから、三人で食べて」
雅也さんは「やったー」と喜びながら人数分のフォークを取りに行く。
「一日の疲れが染みるわ~。今日は帰ったら甘いもの爆買いしようかと思ったけど、もうこれだけで十分だわ」
「爆買いするほどいいことあったんですか?」
よくぞ訊いてくれた!と言わんばかりに佳穂さんは元気よく首を振る。
「実はバイト来る前になんと!卒論が終わったのよ~。長かった~。これで卒業できる~」
それはめでたいことだ。俺と雅也さんは「おめでとう!」と祝福の拍手を贈る。
「というわけで、雅也の分は貰うよ」
「絶対嫌だ。そんなに食べたいんだったら、送別会の時にでもリクエストすれば」
拍手を続けながら雅也さんは皿を腕でガードする横で、去年の送別会から一年が経とうとしていることに、俺は時間の早さを感じていた。
「あたしは今食べたいんだよ!それに送別会ではカラスミのペペロンチーノって決めてるんだよ!」
うちの店は辞める人がかなり少なく、大抵四年生の卒業や三年生のキャンパスが替わる時期に人が入れ替わる。そうすると、三月の定休日か閉店後にまとめて送別会が催される。送別会といっても盛大なパーティーではなく、辞める人たちが店内で好きな料理を頼んで、ケーキをご馳走になるほどの規模だが、送別会はシフトに入ってない人たちも来るほど、スタッフにとって重要なイベントだ。中には客として来てくれるスタッフもいるが、送別会以来顔を見ない人たちを思い出すと、今からでも寂しくもなる。雅也さんは言わずもがな、佳穂さんとはシフトで一緒になることも多く、バイトでお世話になった先輩だ。
アルバイトの繋がりがなくなってしまえば当然、彼女と会うこともなくなる。去年の送別会は、佳穂さんは一番仲のよかった人に何かプレゼントを渡していた。幸い金の使いどころが今は少ないため、選択肢自体は多い。
何がいいかな、と二人が喋っているのを眺めながら考えていると、厨房の締め作業をしていた伸行さんが俺たちで囲んでいるテーブルに来た。
「ちょっとシフトのことで相談があるんだけど、締め作業終わったら後か今やるか、どっちがいい?」
シフトと言われ、今日中に提出のやつをまだ出していないことかと焦ったが、雅也さんたちもいるので、そっちではないだろう。今でいいよね、と早く帰りたい俺たちの意見がすぐにまとまった。大方の察しはついているのだ。「もしかしてシフト減らす感じですかね?」と雅也さんが訊くと、伸行さんは申し訳なさそうに笑った。
「経営的に現状維持が難しくてね。テイクアウトとかもしてるんだけど、今のお店の状態だと、人手がどうしても余ってるから。ほんと、ごめんね」
「伸行さんは全然悪くないですよ。あたしが伸行さんの立場でも同じことをします」
俺と雅也さんも同意していた。現在、夫妻とスタッフ一人以外は、全員アルバイトで回している。俺たちアルバイトの人数を今も尚減らさなかったのは、店を回す打算よりも、伸行さんの性格だと俺は読んでいた。
だが彼の表情は、現実を映す鏡のように厳しい。
「いや、シフトを減らさないといけないのは、僕が悪いんだよ。働いている人の生活を守るのが、僕の責任なんだから。それができないのは、お客様によいサービスを提供できないのと同じくらい悪いんだ。本当に、申し訳ない」
伸行さんが一回、頭を下げた。
「一人か二人、減らしてくれるだけでもいいんだ。どうかお願いします」
床に打ちつけた声が、BGMを切った店内に響く。
胸が痛かった。こんなにも従業員思いの人が、身を切る思いで頭を下げなければいけないなんて。伸行さんの姿が、切腹をした後に内臓を抱えてうずくまる武士にも見えた。
仕方ないですよ。
喉元まで出かけたのが、すんでのところで止まる。
伸行さんは悪くない。どうしようもないはずなのだ。彼は間違っていない。ならば、俺も間違っていないはずだ。
でも、何が仕方なくて、何がそうでないかが今の俺には、はっきりと判断できなかった。かといって、他にかけるべき言葉がみつからなかった。だから、俺は最初にシフトを減らすことを名乗り出ようと思った。
「はい」
そう決心したタイミングで、すらりと細い腕が上がった。
「だったら、あたし辞めます」
申し出た佳穂さんの隣で、俺たちは瞠目した。頭を上げた伸行さんも困惑を隠せない。
「そこまでしなくても、いきなり辞めろなんて言わないから。澄谷さんも三月には卒業でしょ。だからそれまでの期間だけで、店側は助かるしさ」
「俺も就活でシフト減らそうと思ってたんで、佳穂さん辞める必要ないっすよ」
もうすぐ卒業だから。辞めることにそれほど抵抗がないのかもしれない。だが、佳穂さんはその理屈と別な気がした。
「いやいや。健太郎が減らしてもあと一人くらいは必要でしょ。あたしはお金はそこそこ貯まってるからちょうどいいんだよ」
「俺も二カ月くらい減らしても困らないから、三人で減らせばいいじゃん。いきなり辞めるのは極端だって」
雅也さんは三人で平等に減らすことを提案する。きっと伸行さんもそういう結論だったのだろう。しかし、申し訳なさから、最悪一人か二人だけでも、という含蓄が悪い方に働いたのかもしれない。
「わかった。言い直すわ。伸行さんのもあったけど、あたし的にはいつでもバイトは辞めていいから言ったの」
「だったら、三月までいろよ。いつでもいいんだろ」
「今も三月でも一緒でしょ。だったら、お店側にとってもあたしにとっても都合がいい方を選んで、何が問題なの?」
どうしてこうなったのだろう。バイトに行きたくない、立ち仕事が辛い、客がクソだという文句は裏でいくらでもあるが、辞めたいと佳穂さんの口から聞いたことは一度もなかった。
一体何があったのかと考えを巡らせると、少し前に起爆させてしまった爆弾に行き着き、その破片が胸に刺さった。
「さっきのお客さんに、何か言われたんですか?」
ばつの悪さが先行する。俺にはそれしか考えられなかった。
「関係ないでしょ!」
佳穂さんが声を荒げるのは初めてで、驚いた拍子に靴先が机の脚を蹴った。佳穂さんの目元はキツく歪んでいた。
「ま、まあ急いで考えなくていいから。次のシフトの日までじっくり考えてよ」
張りつめた雰囲気を霧散させようと、伸行さんは締め作業を再開するよう俺たちを促す。各々が散る中で、佳穂さんの表情が隠れているのが、これ以上ないほどもどかしかった。
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