誠実 二〇二〇年 八月二十二日 ①

   二〇二〇年八月二十二日

   東京都感染者数二五六人


 仙台の空は、夜がちゃんと暗くて少し安心する。リビングのソファに寝っ転がってアイスを食べながら動画を観れるのは、どこにいても変わらない。

 去年のお盆はほとんど地元の友達と遊んでいた。そういう意味で今回はまともな帰省で、卒業してから毎年あった高校のクラス会もないから、ずっと過ごしやすかった。

 クラス会に一昨年参加した時、茶髪にカールをかけ東京の服装をしてすっかり別の生き物になった女子と一緒に「ピアス開けた」と嬉しそうに見せてくる志保が、どうしようもなく忘れられなかった。同時に志保を見る度、制服の紺のスカートをめくった志保の白い肌と、イケなかった自分の下腹部の黒い思い出が蘇る。結局、二年付き合ってだめだったし、高三の夏に同じクラスだった夏紀とも無理だったからどうやら責任は俺にあるらしい。その時の雰囲気は、受験に失敗したときよりも酷かった気がする。あげくに、夏紀には「病気なんじゃないのー?」って言われて、次の日は何も頭に入ってこなかった。

 見かけ上、自分の体は普通の人と変わらない。でも、体の一部が普通からはみ出ていることを、付き合っている人が理解した時の顔は二度見てきた。人とは違うことを夏紀のように『おかしい』と言われた時は、外側だけでもまだへらへら笑えた。

『仕方ないね』

 俺は志保の口から出たとき、この言葉が嫌いになった。

スマホの上画面から細い通知バーが降りる。考えごとで、動画を何分か見逃していた。

 真子  『旅行先ここでいい?』

 LINEを開くとURLが下に貼ってあった。タップするとGoogle Mapsに切り替わり赤いピンが所在地を示す。小さく笑いながら、『いいよ マジありがとう』と返しスタンプを送る。

 志保と真子は似ている。バニラとチョコだったら、必ずチョコを選ぶところとか。それでいつも俺がバニラを選ばされる。バニラ好きだし、今もバニラ食ってるからいいんだけど。授業中の肘の付き方とか、横顔の輪郭とか。違うところも結構思い浮かぶけど、耳の形とか、筋肉の付き方とか、「仕方ないよ」って言わないところとか。

 画面の向こう側では犯人がちょうど逮捕され一話が終わったところで、兄の裕太がパン一で脱衣所から出て来た。「おらどけ」と扇風機の当たる場所を奪おうとする裕太に「どかねー」とうつ伏せになって抵抗する。しかし、裕太は扇風機の首を自分のところに曲げてしまった。

「アイス何本残ってた?」

 冷凍庫に手を突っ込んだ感覚を思い出しながら「チョコ二本!バニラゼロ!」と答え、脚を掻く。

「は⁉お前バニラ食ったの?チョコ嫌いなんだよなー」

「うっせーなー。贅沢言うなよ」

 二つ上の裕太は、俺が第一志望にしてた国立大学を理工学部で現役合格した。地元だったらあまり親にも迷惑がかからないから、と実家から通っている。俺が東京の私立にいるのは、同じ大学の社会学部に二点足りなくて落ちたからだ。

 風呂が空いたのでアイスの残りを手早く食べていると、包装袋を破りながら兄はじっと見つめてきた。

「……なに?」

 兄は頭に被せていたタオルをばさりと外す。

「そういやお前、就活はこっちでやんの?」

「……兄貴は髪戻したんだ」

 前来たときは茶色かった髪の毛が、いつの間にか黒に戻っていた。

 本来なら被ることのない就職期間も、裕太が修士課程に進んだせいで一緒だ。と言っても、理系の裕太と文系の俺が同じ職種になることは考えにくい。

「おう。で、どうすんの?」

 前にも一度、同じようなことがあった。四年前の馬鹿みたいに暑かった日の夜、俺が勉強終わりにバニラアイスを食べていたときに、裕太は「大学どこいくの?」と訊いてきた。あの時はなんて返したのか覚えていない。

 就職を考え始めたとき、地元か東京で就職するかは真っ先に考えた。多分裕太もそうだ。収入、職場、家族、環境。俺は過ごした時間で、どちらが楽しかったかで決めた。俺は大学で知り合った拓実たちとの時間がずっと楽しかった。

「こっちには戻らないよ。東京で就活する」

 卒業した後に会うことは少なくなるが、仙台にいたらもっと機会が減る。それに、向こうには真子がいる。「ふーん」と裕太は生返事をして、半分残ったアイスを一気に口に放り込んで言った。

「東京で付き合ってる女と今何ヶ月目なの?」

 うわ、と俺は顔を顰める。嫌なことを思い出した。

「もうすぐ三年目」

「おまえ志保ちゃんと付き合ってたときは、俺のとこの大学じゃなくて千葉の国立大学行くって言ってたよな」

 そうだ。あの時はまだ志保と付き合ってて、その次の週に俺は童貞を捨てて――。

「俺と違ってつき合い長いからなー」と笑った兄が、表情とはまったく別の思いを皮の下に隠している。じゃなかったら、前と同じことを訊くわけがない。

「ちゃんと自分で決めろよ?」

 伸ばした足の指が何かとぶつかる。首だけ起きてソファーの先を見ると、カバーが掛った望遠鏡の三脚だった。

 二人分の誕生日プレゼントに望遠鏡を買ってもらった時は、生き方という言葉の意味も知らず、ただ図鑑に描いてある星座の形を信じていた。説明を見るまで、星座は星が誕生した瞬間から名前が決まっているものだと信じていた。

 黒のパレットを黄金色に架ける天の川。

――ほら、デネブから斜めに十字架を切るような形がはくちょう座だ。

――あれ?

――それは南だから……わし座だな。あとはこと座がその上にある。はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガを繋げば夏の大三角だ。

――はくちょうとか、こととか、全然見えないね。俺の絵の方がまだ上手いよ。

――そうかもな。知ってるか?俺たちが見てる星はな、もの凄く遠いところから光を放って、その光は何年もかけてここまで届くんだ。

――じゃあ、あの星も、あの星も、たくさん離れてるのに?同じ星座なの?

――たくさん?ああ。星と星の間は、俺たちが一生走ってもたどり着けない距離で離れていて、その点を線で結んで、星座とするんだ。だから、健太郎が違うように見えたら、それでいいんだ。

 高校でも、大学でも、やりたいことがあって、大学に入ったわけじゃなかった。高校のときに進路相談室の横に貼られていた模試のグループ枠で、偏差値順に並んでいた学校を俺は選んだだけだ。中学の頃も、勉強がそこそこできたから、同じような感覚で高校に入った。俺と同じくらい勉強ができた奴で、スポーツ推薦を貰って私立に行ったやつもいた。そいつはどこの大学に行ったかは知らない。何人か普通科とは違う高校に行ったやつもいた。商業科、工業科も何人かいた。音楽科に進学した髪の長い女子は海外の大学に行って、クラス会には来なかった。偏差値という基準を知る前は、ずっと裕太の後ろを追っていた。

 みんな何かしらの道を選んだ。俺はやりたいことを選んで進学した裕太とも違う。普通のカテゴリーに入ることすら選べなくて、暫定的に足を踏み入れているだけなんだろう。

「まあ、俺的には別にお前が大きな流れに身を置こうが誰に流されようが、知ったこっちゃないけどさ。最終的に必要になるのは金なんだよ。俺やお前の学費払うのにも、家族食わせていくにも、親父やお袋が働いた金であって、降って湧いてきたもんじゃねーんだよ」

 裕太も自分で選んだ道に進もうとしている。

「だから、しくじるなよ」

 だけどこういう時、何かを滅茶苦茶にぶっ壊したい衝動に駆られる。もっと時間が欲しい。色々な企業を見て、ゆっくりと考えられるだけの時間を。

 そういう兄貴は、と言い返そうとしたがやめた。裕太は多分しくじらない。こういう時、ぽかやるのはいつも俺だ。言っても惨めになるだけだ。

「うっせー。わかってるよ」

 結局、俺がしくじらなければいいだけの話だ。裕太もそこは理解してるから、多くは言わないはずだ。再び洗面台に向かおうとした裕太が「そうだ」と俺の方を向いた。

「就活で困ってることあれば、親父に訊けば。今は採用の統括やってるからさ」

 俺は虫に刺された脚を兄貴に見えるよう上げた。

「……もう訊いたよ」

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