十六 百八十秒分の記憶 1994年 2月

 凡そ一年間続いた付き合いの間、朱夏が僕のアパートに泊まったことは一度しかない。

 二月の第二土曜日だった。

「あっ、パピプペンギン」

 玄関に入った朱夏は部屋の奥に目をり、立ち止まった。CM企画会社の新年会でビンゴ大会の景品として貰った身長四十センチの縫いぐるみを、僕は部屋の奥に置いていた。玄関のドアを開けると、とぼけた顔のペンギンと目が合う。

「帰ったとき、ペンギンの縫いぐるみに『ただいま』とか言うんでしょ」

「もちろんだ。出る時もちゃんと『行ってきます』と挨拶する」

 冗談めかして言ったが、外出時と帰宅時の縫いぐるみへの挨拶を僕は本当にやっていた。

 当時僕が借りていた部屋は、八畳の居室に二畳ほどのキッチンと三点ユニットバスがついた1Kで、五階建てマンションの最上階にある角部屋だった。

「キッチン、ほとんど使っていないのね」

 仕事のほとんどがアゴアシつきだったし、休みの日は外食か持ち帰り弁当で飢えをしのいでいたから、自炊は全くしていない。

「これって、いつのラーメン?」

 食器棚に放り込んであったカップ麺のひとつを手に取って朱夏は呆れ顔をした。

 越してきたばかりの頃、特売のカップ麺を五個買ったが、消費したのは一個だけで残りは二年間手付てつかずのまま置いてあった。消費した一個も食べたわけではない。カップにお湯を注いだまま寝てしまったのだ。注湯ちゅうとう後八時間経過したカップ麺を食べる勇気が僕にはなく、以来、カップ麺という食品に僕は好意をもっていなかった。その話をすると、朱夏は「たぁけかて。勿体もってあにゃぁ」と言いながら手に持ったカップ麺を食器棚に戻した。

 朱夏はコートを脱ぐと、ペンギンの縫いぐるみを抱えベッドの端に腰を下ろした。

「君は何て名前なの?」

 朱夏は手に持った縫いぐるみの顔を自分に向けて話しかけた。

「へえ、ハヤトって名前なの。私のお父さんと同じ名前なのね」

 僕はその縫いぐるみを「ペン公」と呼んでいた。朱夏は知らない。

「私のお父さんの名前はお爺ちゃんがつけたのよ。お爺ちゃんはハヤブサって飛行機のパイロットだったの。だから、自分の息子に隼の人って名前をつけたの」

 僕は黙って、縫いぐるみを話相手にした朱夏の一人会話を聴くことにした。 

「ねえハヤト君、聴いてちょうだい。私、仕事辞めることにしたわ。もう辞表も出しちゃった」

 初耳だった。

 勝手に決めてごめんね、と朱夏は縫いぐるみに向かってチョコっと頭を下げた。

「私のお父さんがね、今年の五月、名古屋本社に異動になるの。私、お祖父ちゃんのそばにいなくてもよくなるから君や彼と一緒に暮らせるわ。嬉しいでしょ? えっ? 彼はテレビの仕事を辞めて新潟に帰るかも知れないって?」

 朱夏と一緒に暮らせるのは確かに嬉しい。でも、問題があった。僕の実家の窮状だ。工場や家屋敷を売り払い債務さいむてたが、それでも一千万を超える借金が残っている。家族を助けるために真面まともな仕事にかなければならない。田舎に帰って仕事を探そうかとも考えていた。

 朱夏はその事情を知っている。

「彼が新潟に帰るなら私はついて行くつもりよ。えっ? いま田舎に帰っても彼には仕事がない? だったら、一緒にラーメン屋さんでもやろうかな。えっ? 彼、ろくにカップラーメンもつくれないのにって?」

 朱夏は食器棚に目を遣って笑った。

「大丈夫。美味しい台湾ラーメンの作り方を私が彼に教えてあげるから」

 朱夏は縫いぐるみの顔を僕に向けた。

「人生なんて成るように成るし、成るようにしか成らないよ。あれこれ思い悩んでも仕方ないぜ。悲しいことも辛いことも笑い飛ばして生きていく。あんたの彼女はそんな生き方が大好きなんだ。おいらも好きだ。あんたも好きだろう?」

……そう、僕も好きだ。朱夏のそんな生き方が好きだ。朱夏のやさしい生き方が好きだ。朱夏と一緒なら、きっと幸せな人生がおくれる。朱夏と一緒なら、何があっても人生にイエスと言える。

 僕は縫いぐるみに向かって頷いた。

 僕はベッドに体を横たえると、朱夏から縫いぐるみを奪って胸に抱き、朱夏の膝に頭をのせた。朱夏は僕の頬を伝う涙を指の先で拭きながら『スウィートメモリーズ』をハミングし始めた。むかし、ビールのアニメCMでヒロインのペンギンが歌っていた曲だ。

……この曲の長さは何分くらいだろう。

 記憶は刹那せつなの集合体だから、たとえ一年分の記憶でも一瞬で再現される。ただ、BGMつきの記憶は別かもしれない。三分の曲を人は三分かけて再現する。その曲と一緒によみがえるエピソードにはきっと百八十秒の長さがあるにちがいない。

 十年後も二十年後も、この曲を聴けば僕はきっと思い出すだろう。朱夏の膝の温もりと朱夏の歌声と、永遠を凝縮した一曲分のやさしい時のかたちを。

「明日の午後、横浜に行きましょ。中華街で春節しゅんせつのお祭りをやっているわ」

 馴染なじみの店がある。そこで本物の台湾ラーメンを食べようと朱夏は僕を誘った。

「朝から行こうよ」

「早起きできるわけないじゃない」

 朱夏は自分の唇を僕の唇に重ねた。


 中華街は春節の祭りで賑わっていた。特に、数年前に改築されたばかりのかんていびょう周辺は参拝の順番を待つ人々でごった返していた。僕らは人をかき分けるようにして、廟近くにあるその店に入った。テーブル数は十ほどしかない。昼時ひるどきは過ぎていたが、中に入るには二十分ほど列に並ばなければならなかった。

「裏口から入ればよかったのに。久し振りだねアヤカちゃん。お祖父さんは元気かい?」 

 店主の妻が店の奥から顔を出し朱夏としばらく話した。いつの間にか台湾語会話になっている。

 朱夏は台湾で十年間暮らした後、名古屋の高校に進学するため父母のもとを離れひとり帰国した。台湾語はもちろん、北京語も話した。

「おニイさんはアヤカちゃんの彼氏かい?」

 僕が頷くと、店主の妻は首を大きく縦に振り、台湾語で何か言った。

 客の何人かが、僕を見て笑った。 

「何て言ったの?」

「すごく好い男だって」

多謝トーシャ

 僕は合掌し、店主の妻に頭を下げた。客の何人かがまた笑った。

「本当の台湾ラーメンはね、名古屋のと違って辛くないよ」

 店主が僕らのテーブルに台湾ラーメンを置いた。

 担仔麺タンツーメンだ。台湾では「ターアーミー」と発音する。鉢が小さく量が少ない。

 担仔麺だけでは足りるまいと言って店主が持ってきたのは菜脯蛋ツァイボーナン三杯鶏サンベイジだった。  

 菜脯蛋は中に切り干し大根の塩漬けが入った卵焼き、三杯鶏は炒めた鶏肉とタイバジルを土鍋で煮込んだ料理だ。

文天祥ぶんてんしょうは知っているだろう?」

 知っている。朱夏の祖父から何度か聞かされた。

 文天祥は十三世紀宋の軍人だ。客家はっかの人である。元との戦いに敗れ俘虜ふりょとなった時、彼を気に入ったフビライ・ハンは幾度もげんへの仕官を促した。しかし、元への帰順をいさぎよしとしない天祥はえて刑死する。フビライをして「真の男」と言わしめた宋の英雄である。名古屋の九份には天祥が獄中で詠んだ『正気せいきの歌』の詩譜しふが飾ってある。

「看守が文天祥に同情して牢屋に差し入れしたのがこの三杯鶏だよ」

 そのエピソードも僕は聞いていたが、知らないふりをして店主の話を聴いた。

 近くの席に座っていた客の一人が台湾語で詩の暗唱を始めた。その客に店主が続き、やがて『正気の歌』は店内にいた客十人ほどの合吟ごうぎんとなった。清、日本、国民党と、外からの支配に耐え続けてきた台湾本省人たちは、げんこうして信念を貫いた愛国者文天祥に共感するのだろう。

「デザートは朱夏ちゃん用につくった特別製豆花タウフエーだよ」

 豆花は硫酸カルシウムで固めた豆乳に黒蜜をかけた台湾プリンだ。ブルーベリー、イチゴ、皮をむいた茘枝ライチ、黒豆が載っている。イチゴの量が極端に多い。

「青、赤、白、黒。四神ししんね」

「よく気が付いたね」

 店主は、これが青龍せいりゅう、これが白虎びゃっこ、これが玄武げんぶ、とトッピングを一つずつ指して、

「じゃあこれは?」

 最後にイチゴを指さした。

 朱雀すざく、と朱夏は答えた。

「四神のなかで一番好き。私に名前をくれた神様だもの」

 朱雀は南と夏を司る霊獣だ。南国台湾を愛する父親が朱雀にちなんで夏生まれの娘につけた名が「朱夏あやか」だった。

「火のように赤い情熱の鳥よ」

 僕は手塚治虫の漫画『火の鳥を』思い出した。火の鳥は百年に一度自らを焼き、よみがえる。何故か胸騒ぎがした。

「遠慮しないで夜まで居なさいよ。何なら泊まっていけばいい」

 店主夫婦はそう言ってくれたが、店の外にはまだ客が列をつくっている。長居するわけにはいかなかった。

「ごめんね、忙しい時に来ちゃって」

「うちは年中忙しいから、いつ来ても一緒だよ。好きな時においで」

 四月下旬に祖父と台湾へ行く。一週間ほど向こうで遊んだら、両親と一緒に名古屋に帰る予定だ。五月の連休には五人で必ず来るから、と朱夏は店主夫婦に約束した。

「五人?」

 朱夏の祖父、両親、朱夏、そして僕?

「年末には六人になるかもね」

 店のドアを開けると、壁ぎわに吊り下げられていた倒福タァオフゥがわずかに揺れた。

 太鼓やシンバル、爆竹の音が遠く聴こえた。

採青ツァイチンが始まったわ。獅子に頭をんでもらいに行かなくちゃ」

 頭を咬んでもらえなくてもいい。触ってもらうだけでも御利益ごりやくがあるのだと言う。

「こっちから獅子に触っちゃだめよ。獅子が怒って運気うんきを下げるから」

 僕らは急ぎ足で中華街のメイン通りまで歩き、そこで踊っている獅子を見つけた。

 獅子は、紅い祝儀袋しゅうぎぶくろ紅包ホンパオ」を吊るした店を一軒ずつ門付かどづけしてまわる。跳んだり跳ねたり、曲芸のような舞を披露した獅子が立ち上がって紅包をくわえると、爆竹が鳴り響き歓声があがる。獅子は店内に入り、客の頭を咬む。店の客は大喜びだ。店先に青菜あおなをつけた紅包を吊るすので採青ツァイチンと呼ばれる。

 僕たちは獅子の後をついて歩き、街を巡った。

 あっというまに日が暮れた。ネオンや電飾でんしょくが放つ極彩色の光を浴びながら、僕たちは時を忘れ、ひたすら舞獅ウウシーを追い続けた。

「今日は私、獅子に咬んでもらうまで絶対帰らない」

 朱夏は意地になって獅子を追いかけている。

 朱夏は、決意のあかしを求めている。ふと、そう思った。僕と暮らすために朱夏は仕事を辞めた。成るようになると朱夏は言う。だが、先の見えない僕との将来をそんな風に楽観するまで彼女は随分と悩んだに違いない。朱夏は迷いを捨て決意した。そのあかしを彼女は欲しいのだ。

 獅子が此方こちらに迫って来た。朱夏は後ずさりし、僕の胸に背中を密着させた。

「朱夏、結婚しよう」

 僕は朱夏の耳元で囁いた。朱夏は振り向いて僕に抱きつき、大声で「好的ハオダ」と言った。そして僕から腕を解くと、ちょうど僕らの間近に居た獅子に身体を向け、中国語で何か叫んだ。獅子は小さく見えを切り、大きくあけた口を朱夏にかざして彼女の頭をパクッと咬んだ。見物人達が「祝賀ツューハァ!」と言いながら一斉に拍手をした。爆竹が鳴り響く。近くにいた見物人の一人が両手で僕の手を握った。

 地面を染めていた街の光彩こうさいが爆竹の音に砕かれて舞い上がり、僕らの頭上に降りそそいだ。

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