Take off, Our Baby

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

序  時の抽出

 およそ三十メートルの幅を保ちながら圧延整地あつえんせいちされた路が真っ直ぐに延びている。いくぶん深緑色しんりょくしょくに縁取られた僕の影が路面右側に尾をくように落ちているから、この路が向う先はおそらく北だろう。

 路は僕の視力が及ぶぎりぎりの彼方かなたで、オレンジ色をわずかに含む高輝度の光にもれかすみ果てている。

 路の真ん中を彼が歩いている。

「彼?」

 一歳くらいの子供だ。僕の視界には、その男の子一人しかいない。

 その子が着ているベージュのオーバーオールには見覚えがある。

 腕を上下させてバランスをとり、足の裏を地面に押しつけるように歩く。歩みをおぼえたばかりだ。後ろに倒れ頭でも打ったら大変だと僕は心配する。

 彼は靴を履いていない。僕は路面に触れてみる。掌に体温ほどの温かさを感じて僕は安心する。

 空気がやわらかい。春のはじめだと思う。

 僕に背を向けて歩くその子の顔が、何故か僕にははっきりと見えている。

 口をキッと結び、視線を少し宙に浮かせている。好奇心をあらわにした彼の表情に、僕は心地よい懐かしさを感じる。

 まばたきの間さえ勿体もったいない、見ることも聞くことも楽しくて仕様しようがない。そんな顔つきを、僕はむかし、随分とむかし、見たことがある。何回も、見たことがある。

「ハヤトじゃないか」

 僕は呼びかける。彼は僕の子だ。去年の春、生まれた。未だつかまり立ちがやっとのはずだけれど。

「歩けるようになったんだね、隼人」

 隼人の歩く姿を見て、僕は愉快になる。

「隼人、父タンと一緒に歩こう」

 呼びかけるが、隼人は振りかえらない。視線を前に向けたまま独りで歩いて行く。無視された僕は少しがっかりする。

 背に人の気配がある。

 美子だ。

「ヨシコ、ハヤトは何処に行くんだろう?」

 ふり向いて、妻の美子に言う。

 けれども、美子に僕の声は聞こえていない。美子には僕の姿も見えていないようだ。

 隼人の背に笑顔を向けて、美子は「かわいい、かわいい」と何度も繰り返す。でも、美子の声も僕には音として伝わらない。

 風景に音がない。そう気づいて、僕は耳に触れてみる。

 僕には聴こえない声で「かわいい」を連呼しながら、立ち尽くす僕を追い越し美子は隼人に続く。

 二人と僕との間隔がどんどんあいて、僕はたまれないほど不安になる。僕を無視して歩いて行くのは僕の長男と僕より二回ふたまわりも年下の妻なのに、僕の気分は親に置きざりにされた子供のそれだ。

 僕の時はとまっている。僕と母子の隔たりは、「時」の隔たりだ。僕はそう感じる。

 隼人の歩みが速度を増す。美子も小走りになる。

 美子は走っている。でも彼女は急ぎ足の隼人に追いつけない。やがて彼女は、追跡をあきらめ立ち停まる。

 突然、僕は視覚を失った。

「ういたわ」

 美子の声が遠くきこえる。その声に十数人分の拍手が重なる。

 やがて、わずかな風に希釈きしゃくされ、その音も消えていく。

 僕は消えた風景を取り戻そうと、閉じたまぶたに力を入れた。

「消える風景か」

 青木の声がきこえて僕は眼を開けた。額に汗の冷たさを感じる。

カチッという小さな音がした。青木は何時もボールペンの先でボイスレコーダのボタンを押す。僕は身を起こした。

 青木はカウチから離れ、コーヒーを淹れ始めた。

 粗挽きにしたモカの豆をスプーンで無造作にドリップに入れる。

「拍手をしていた連中が誰かわかるか?」

 僕は首を横に振り、カウチから両脚を下ろした。

 青木がドリップにお湯を注ぐ。もう少しゆっくりと注げばいいのにと僕は思う。

 青木茂は臨床心理士だ。幾つかの大学や高校でスクールカウンセラーをしている。僕が勤める夜間高校にも一週間に一日、顔を出す。一緒に食事をすることが多い。

 青木はコーヒーカップを僕に渡した。

「人は、忘れたいから忘れる。そんな説がある」

 想起障害そうきしょうがい、記憶喪失、選択性部分健忘……

 青木は、医師ではないので診断をする資格はないが、と前置きをして術語じゅつごを並べた。

「気になって仕様がない。脳髄のうずいすみにできたしこりみたいだ」

 僕が相談した時、青木は重病人と対面した新前の医師のように、一瞬暗い顔をした。

「どんな人間にも一つや二つ、完全に忘れている過去がある。全く見憶えのない風景の中に自分が立っているなんて写真、お前、持ってないか?」

 こんな所、行ったことあったっけ? 写真の端っこに書いてあるメモの筆跡は自分のものだ。幾つかの記録を組み合わせ、何とか辻褄つじつまの合うエピソードを再現してみる。でも納得がいかない。写っているのはたしかに自分だが、その写真が担保する物語に自分が登場したという確信がどうしても持てない。

「俺のアルバムには、そんな写真が何枚もあるぜ」

 自分が見せた暗い表情がクライエントに与えた不安の度合いを探るように、青木は僕の眼をじっと見た。

「心身症が出るほどではないと思うけどね」

 青木は優しい顔つきに戻って言った。

 僕には思い出せない過去がある。そして僕は、それを思い出せと僕自身に命じている。


 ドリップポットの細い注ぎ口で宙に水平の輪を描きながら、美子は静かにお湯を注いでいる。

 小粒の茶色い泡を無数に立てコーヒーの粉が小さく膨らむ。美子は左手の掌をドリップに向け、その膨らみを出来るだけ長時間保たせようと唇をわずかに動かして呪文を唱える。

「ペニャデアモールトゥリステーサ」

 呪文の意味はわからない。アラビア語のオマジナイだろうと美子は言うが、スペイン語かポルトガル語のような響きを感じる。

 ドリップポットをテーブルに置き、美子は「よし」と言う。淡い茶色の膨らみがサーバーの底に吸い込まれるようにゆっくりとしぼんでゆく。

 美子はコーヒーが抽出される様子を、ドリップから最後の一滴が落ちるまで見まもり、もう一度「よーし」とささやく。

 圧され抑えられていた芳香が一斉に噴き出し、我が家の部屋という部屋をたちまち支配する。

「時間をかけないと美味しいコーヒーはれられないわ。コーヒーはね、根気で淹れるのよ」

 半ば呆れ顔の僕に向かって、美子はさとすように言う。

「大きなコーヒーノキじゃないと豆は沢山採れないの。コーヒーノキを大きく育てるには五年くらいかかるそうよ。摘みとって、発酵させて、乾燥して、選別して、遠くの港に運ぶ。ほとんど人の手でやってる。途方もない時間がかかっているの。それを一分やそこらで淹れたら申し訳ないでしょう?」

 コーヒーを美味しく淹れる人には、「時」を抽出する才能があるのだと美子は自慢する。

「私が淹れたコーヒーには琥珀色こはくいろの時間がたっぷりと含まれているの」

 美子はいつもと同じフレーズで話をまとめ、僕にカップを渡した。

「青木先生のコーヒーもモカマタリ?」

「そうだよ」

「美味しいの?」

「苦いだけだ。あいつには時を抽出する才能はない」

 コーヒー通を自負する青木は、自家用の豆を自宅近くの専門店にあつらえている。

「店で一番高価たかいモカを真っ黒くなるまで深煎りさせるんだぜ。イタリアンローストしたモカなんか飲めたもんじゃない。もったいない」

「カウンセラーだからでしょ。自分もクライエントも興奮させないようにしてるのよ、きっと」

 コーヒーを強焙煎きょうばいせんするとカフェインが分解して興奮性が弱くなる。香りは失われるけど、と美子は解説した。

「あいつが、そこまで考えているとは思えないね」

「一度目の高校の時、お酒かコーヒーを飲む夢を見るか、って訊かれたことがあるわ。青木先生に」

 美子は一度、高校を中退している。一度目の高校のスクールカウンセラーも、その後、何年かして入学した夜間高校のカウンセラーも青木だった。

 美子は両掌で包むようにコーヒーカップを持ち、それを小さく揺らした。

……コーヒーを飲む夢なら見たことはありますけど。

「お父さんとお母さんが一緒にコーヒーを飲むことは?」

……ええ、二人ともコーヒーは好きですから。

「コーヒーを最初に飲んだのは?」

……中学一年の時です。

「それまで飲んじゃいけないって言われていた?」

……ええ。カフェインが成長を阻害するって。

「青木先生が言いたかったこと、何となくわかっていたわ、私」

 美子はコーヒーカップを傾けて中を覗き込み、砂糖の溶け具合を見た。

「煙草でもお酒でもなくて、私にはコーヒーが大人の象徴だったの。早く大人に成りたいって思っていたわ。大人になればあれこれ思い悩まなくて済むんじゃないか。そう思っていた」

「早く大人になりたくて、焦って二まわりも年上の男と結婚したのかい?」

「かもね」

 美子は両手でコーヒーカップを持つと、供物くもつを捧げるように目の高さまで持ち上げた。

「あっ、私の彼が、お目覚めよ」

 泣き声も笑い声も、呼ぶ声も聴こえない。でも僕たちにはわかる。

 隼人が目を覚ました。

「彼もきっとモカが好きよ」

 大人になるまで飲ませるつもりはないけどね、と美子は続けた。

 リビングの戸を開けて寝室を覗く。

 寝室の広さは六畳だ。フローリングの床には幅広の布団と枕以外何も置いていない。

 隼人はハイハイの格好で首をあげ僕に向かって笑顔を見せる。何もしないで見ていると、体を揺すって抱っこをせがむ。

 僕は、コーヒーカップを置いて、自分の子供を抱っこしに行く。

 抱っこは、立っち抱っこでないといけない。座ったまま抱いていると、隼人は泣き出す。立つと泣き止む。そして、僕の腕の中で僕を見上げて笑う。

……君と初めて会ったのはいつだっけ?

 僕は自分の子供に問いかける。

 何十年も前から、この子と僕は知り合いだった。そんな気がする。

 あと半月で隼人は一歳になる。 

 


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