第117話「じゃ、ミルは借りてくな」
「ごちそうさま。とってもおいしかったわ」
舐めたようにきれいな器を返しながら、ララはにこりと笑う。
ミオはそれを受け取りながら、嬉しそうに眉尻を下げた。
「これ、交易船の船長さんの名前と、泊まっている宿の場所です。私の名前も書きましたから、恐らく門前払いはされないと思います」
そう言って、ミカは小さな紙をララに手渡す。
「ありがとう。とっても助かるわ」
「いえいえ。ララさんのようにカミシロに興味を持ってくださる方がいて、こちらも嬉しいんです」
本当に嬉しそうに破顔する淑やかな美人板前に、ララは同姓ながらくらりとする。
繊細な料理からも察せるように、彼女はとても人想いな人物だ。
「それじゃ、早速行ってみるか?」
イールが共用の財布から代金を支払いつつ、ララに言う。
彼女はメモを握りしめ、即座に頷いた。
「善は急げっていうやつよ。早速行きましょう」
居ても立ってもいられないとばかりにそわそわと落ち着きをなくす彼女に、イールは思わず苦笑する。
「美味しいかったよ。ありがとう」
「ありがとうございました」
「こちらこそ。またのお越しをお待ちしておりますね」
イールとロミが、カウンターの向こうのミオに感謝を述べる。
彼女はほほえみを湛えてしずしずと頭を下げる。
それに見送られながら、三人は料亭みおを後にした。
路地裏の薄暗い道を通り、明るい大通りへと戻る。
「うああ、ちょっと離れるとすごくうるさく感じるわね」
再び聴覚を襲う人の騒々しい言葉の津波に、ララが思わず顔をしかめた。
イールとロミもまた、むっと眉を寄せている。
「ひとまず、件の船長さんがいるっていう宿に行きましょうか」
「つってもあたしたちはその場所を知らないぞ?」
「そうねぇ。地図もないし……」
メモに書かれているのは、船長と宿泊している宿の名前、そして簡単なミオの紹介だけだ。
さてどうしたものかと、ララたちは早速足を鈍らせる。
そこへロミがぴんと指を立てて口を開いた。
「一度塩の鱗亭に戻って、ミルさんに聞いてみませんか?」
「いいかもしれないな。同業者だし、場所は知ってるだろ」
「りょーかい。それじゃ、一旦戻りましょっか」
ロミの鶴の一声により、一行は一度自分たちの宿へと戻ることになった。
宿では二日酔いのミルと、それを看るシアが居るはずだ。
港を離れ、幅の広い通りを歩く。
市場を通り過ぎて、町の中心地から少し離れた海際に、塩の鱗亭はある。
「ただいまー」
宿の扉を開けながら、ララが大きな声で叫ぶ。
「あらおかえり。どう? 首尾は上々?」
「わ、シアが店番してるんだ」
彼女たちを受付から出迎えたのは、ゆったりとした服の上から白いエプロンを身につけたシアである。
彼女は青い髪を団子のように纏め、退屈そうにカウンターで肘をついていた。
「まあね。あのおちびはまだ寝込んでるし」
「そんなにひどいの?」
「昔からよ。そんなに気にすること無いわ」
心配そうな顔で尋ねるララに、シアは神妙な顔で応える。
今日、そんな状態の少女にライバルの宿の事を聞くのは野暮だろうか。
「何をデタラメ言ってるんですか!」
「げっ」
しかし、そんなララの懊悩を突き破り、元気な声が背後から響く。
シアが舌をちろりと見せる。
「ミル!? え、体調は大丈夫なの?」
声の主は、元気に袖を捲って箒とバケツを持ったミルである。
彼女はピンと張った長いウサギ耳を小刻みに振るわせながら頬を膨らませる。
状況に付いていけないと、三人はぽかんと口を開ける。
「おかげさまで大丈夫です。昼までゆっくり眠ったら元気になりました!」
ミルは誇示するように腕を折り曲げ、ふにふにとした二の腕を見せつける。
確かに元気そうだと三人が頷く。
「え、じゃあシアの言ってたことは……」
「ごめん。嘘よ」
「またなの!?」
てへへ、と頭の後ろを掻く彼女に、ララたちは揃ってがっくりと肩を落とす。
つかみ所がないと言うか、掴むとするりと逃げられる。
まるで海の魚を相手にしているようだとララは思う。
「シアには眠ってる間の事は任せきりだったから強いことは言えないけど……」
ぐぬぬ、とどこかもどかしそうにミルが唸る。
そんな彼女たちの様子を見て、シアはおかしそうにくつくつと喉を鳴らした。
「それで、午前中は何してたの?」
話題を戻し、シアがララたちに尋ねる。
「ギルドに行って依頼を受けてから、海でマリンリザードを釣ってたんだ。なかなか大漁だったよ」
「へえ、マリンリザード。あれも最近活発に動いてるらしくて知り合いの漁師がぼやいてたわね」
イールの言葉にシアは興味深そうに頷いた。
彼女は漁師や海に関わる仕事の人々にも広い人脈を持っているらしく、そのあたりの事情には詳しいようだった。
「普段は海底でのそのそしてるんだけど、なんだか最近になって定期的に活発になってるのよ」
「定期的に活発にねぇ。そういえば海上に飛び出してまでロミを襲ってたわね」
「あれは怖かったです……」
その時の記憶を思い返し、ロミが青い顔で震える。
凶悪な蜥蜴顔が猛烈な勢いで迫ってくるのはなかなかの迫力だったのだろう。
「大変ねぇ。普段は絶対そんなことないと思うんだけど」
「これもウォーキングフィッシュの活性化と何か関係あったりするのかしら」
「かもしれないわね」
ララの考えに、シアも頷く。
半分忘れかけていたが、彼女との出会いはそもそも活性化したウォーキングフィッシュの群から助けてもらったのが始まりである。
「そういえば、お昼はもう食べたの?」
「ええ。料亭みおっていうお店でお寿司と茶碗蒸しと天ぷらを食べたわよ」
「料亭みおかぁ。名前だけは知ってるわ」
流石はシアと言うべきか、町の片隅にひっそりと暖簾を下げる小さな店のことも存じている。
彼女にとっては不思議な異国の料理を出す変わった店という印象らしく、ララたちに感想を聞いた。
「美味しかったですよ。生のお魚は初めてでしたが、他のお魚も食べてみたいと思いましたし」
「そうだな。雑魚揚げも美味しかった。あれは酒が進む」
「ふむふむ。二人がそういうなら確かね」
「ねえ、私の意見は聞かないの?」
「だってララって変わってるから……」
シアの忌憚ない言葉に、ララは憤慨して頬を膨らませる。
しかし悲しいかな、彼女の予想は当たっているのである。
そんな会話を繰り広げるすぐ隣では、ミルがぴくぴくと耳を振るわせていた。
「ミルもそういうのには興味あるの?」
ララがそれに気づいて尋ねると、彼女はびくっと肩を跳ね上げた。
「えへへ。実はわたし、珍しいお料理が好きなんです」
「ああー……」
シアが彼女の料理を危険視するほどなのはそれが理由か、と三人の思考が一致した。
そんな彼女たちをよそにミルはシアの立つカウンターに向かい、キラキラと目を輝かせている。
「はいはい。また今度一緒に行きましょうね」
「やったぁ! ありがとう、シア」
なんだかんだといって仲のいい二人である。
そうこうしているうちに、ララはここへ戻ってきた本来の目的を思い出す。
「ねえ、ミル。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ふえ? なんでしょうか」
未知の料理に妄想を広げていたミルは、ララが取り出したメモを受け取り首を傾げる。
「この宿の場所を教えてほしいんだけど」
ララが言う。
途端にミルの赤い瞳にぶわりと涙が浮かぶ。
「ふ、ふぇ……。もしかして、うちがお気に入りませんでしたか……?」
「へ? いやいやいやそういうことじゃないわよ!?」
「そうだそうだ。ちょっとこの宿に泊まってる人に会いに行きたいだけだよ」
プルプルと尻尾と耳を振るわせる幼女に、ララとイールが慌てて弁明する。
様々な言葉を講じて何とか彼女を宥め賺し、平静を取り戻す。
「えと、星の渚ですか。はい、知っていますよ」
涙の引いたミルは改めてメモを読み、しっかりと頷く。
さすがは同業者だけあって、そのあたりはしっかりと押さえているのだろう。
「数年前にこちらに建った新しいお宿ですね。うちよりもおっきくて、従業員さんも多いです」
「他の町からやってきたっていう奴だったか。確か、この町を観光地にしようと画策してるっていう」
「そうですね。うちとは客層も違うので重大な好敵手という印象はありません。どちらかというともう一軒のお宿の方に......」
現状を思いだし、ミルの瞳から輝きが消える。
そんな彼女を慌ててまた慰める二人である。
「それで、良ければその場所まで案内してほしいんだけど……」
「うむむ……」
ララの依頼に、ミルは難しい顔になる。
「わたしにはこの宿があるので、あまり離れるわけには……」
そんなミルに軽く声を掛けたのは、カウンターで肘をつくシアである。
「いいわよ。行ってきたら?」
彼女はあくび混じりに言って、むふんと笑う。
「店番なら私に任せて。今はそれほど忙しい訳じゃないんだし、敵情視察してきたらいいじゃない」
「えっと、……いいの?」
戸惑いがちにミルが確認する。
シアはそんな彼女を振り払うように手をひらひらと振った。
「いいのいいの。この私が言ってるんだから。そうと決まればほら、行ってらっしゃいな」
「ありがとうシア! 今度お礼に何かごちそうするねっ」
「んー、あー、まあぼちぼちね」
ぱっと顔を輝かせるミル。
シアは微妙な表情になりながらも彼女を送り出す。
「シア、ありがとうね」
「たまにはこういうのもいいわよ」
「じゃ、ミルは借りてくな」
「いってきます」
「はいはい。気をつけてね」
カウンターに身を預けるシアに見送られ、ララたちはミルと連れだって宿を出る。
シアはゆっくりと閉まるドアを見て、薄い笑みを浮かべる。
「たまには気分転換させてあげるのも必要よね」
そういって彼女はゆっくりと頭をカウンターに寝かせた。
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