出会い その2

 秋人が無機質な事務所のドアと開けると、そこにはデスクで唸りながらキーボードをたたいている叔父がいた。


「来たよ、叔父さん」


 秋人の声に気が付いて、叔父の秋月潤あきづきじゅんが振り向く。


「秋人か! 本当にすまない! 今日も少し厄介なことになってしまって……」


「大丈夫だよ、叔父さん。マンションの家賃から生活費、その他学費とか諸々叔父さんが払ってくれているんだ。これくらい手伝うのは当然だよ」


「僕は何て良い甥っ子を持ってしまったんだ……!」


 叔父が感極まりながら目頭を押さえる。秋人は苦笑いするしかなかった。


「じゃあ早速申し訳ないんだけど、パソコンに詳しい翻訳内容が書いてあるファイルがあるからそれを見て欲しい」


席について関連ファイルを見ると、秋人は思わずぞっとする。


「ねぇ叔父さん、これっていつまでに終わらせればいいの?」


「今日」


 愕然とする。指定されたファイルは食品輸入に関する学術論文で、翻訳するには多大な時間と労力を必要とするのは一目瞭然だった。それを今日中に終わらせなければならないなんてハードスケジュールすぎる。


「本当はまだ時間の余裕があったんだけど、急きょクライアントの都合で今日中になったんだ。僕一人で半分近くまで終わらせたんだけど、どうしてももう一人手伝ってくれる人が必要で」


 確かに、テキストを見てみるとほとんど半分ほど翻訳は終了していた。残りの半分を二人で分ければ、終わらない量ではない。


「もちろんクライアントには特急料金をいただくけどね。それより本当にごめんよ、秋人は高校生なんだからこんな事せずに青春を謳歌すべきなのに」


「何度も行っているでしょ、叔父さん。今の生活は叔父さんのおかげであるんだから、これくらい当然だよ」


「秋人ぉ……、なんて良い子なんだ!」


 感動している叔父を横目に作業へ取りかかる。明日も寝不足確定だ。



   ◆◇◆



 秋月秋人は学校には隠している顔がいくつかある。一つ目はイギリス出身の帰国子女であること、二つ目は両親が十二歳の頃に死んでしまい、現在は叔父の元でお世話になりつつ一人暮らしをしていること、そして三つ目は英語がネイティブレベルで話せ、叔父が経営している翻訳事務所で翻訳の手伝いをしていることだ。


 秋人の父親は元々イギリスで日系銀行の駐在員として働いていたが、交通事故で父母両方が他界してしまった。ずっとイギリスで過ごしていた秋人は親族のいる日本へ行くこととなったのだが、この際に引き取ったのが秋人の父の弟にあたる叔父の秋月潤だ。


叔父は秋人のために様々な援助をし、高校生になってからは「叔父とはいえ今までほとんど会ったことのない他人と共同生活するのは落ち着かないだろう」と気を使って一人暮らしの高校生には贅沢すぎるマンションの一室まで借りてくれた。


 秋人はそんな叔父の助けになろうとネイティブレベルの英語力を生かして叔父の翻訳作業を手伝っている。


普段は自宅にあるノートパソコンへ書類を送ってもらい、オンライン上で作業を行っていたが、このように緊急性のあるものや複数人で翻訳する必要のある場合は直接事務所へ来て作業していた。今日の授業で寝不足だったのも、昨日別件で夜遅くまで翻訳していたためである。


 英語のことや帰国子女のことをまわりに話せばまた学校での秋人の評価が上がるのは間違いない。しかしそのことを話せば必然的に「両親は何をやっている人なの?」という具合に、家庭事情について聞かれてしまうし説明せざるを得ない。


両親が亡くなっていることは極めてプライベートな問題なので秋人としては知られたくない。一人暮らしの件も同様で、もし知られれば家族のことを聞かれてしまう。


もっとも、それとは別に完璧優等生を演じる秋人としては一人暮らしを知られたくない、正確に言えば部屋を見られたくない理由もあった。


ちなみに秋人の担任は諸々の事情を知っているが昨今のプライバシー保護の観点から家庭事情やイギリスで住んでいたことをわざわざクラスの前で話したりはしない。英語が話せることも、「イギリス出身ということで他の人から家庭事情を探られたくない」と入学時にくぎを刺しておいたのでバレることはない。


 かくして、秋月秋人は英語が話せることやイギリス出身であること、そして翻訳の仕事をやっていることなどを隠しつつ、学校では完璧な優等生として生活していた。



   ◆◇◆



 ある程度キリの良いところまで翻訳を終えると、時刻は午後七時を回っていた。さすがにこの時間になると、お腹が減っていた。


「そろそろお腹減ってきたし、どこかで弁当買ってくる?」


「頼むよ、レシート持って来てくれれば後でお金払うから」


 秋人は席を立つと、足早に事務所を出た。事務所があるのは繁華街とオフィス街の中間あたりなので飲食店には困らない。だが翻訳はまだ終わっていなかったのでさっさと買い物を済ませたい。


 繁華街は大勢の人でにぎわっていた。ロンドンのような大都会ではないが海原市もそこそこ大きい都市だ。目まぐるしい勢いで人が道路の上を歩いている。夏休み終わりの九月ということもあり、部活や塾が終わったであろう高校生が友人と談笑しながら歩いているのを見かける。


ちなみに海原高校の制服は、男子はワイシャツに紺のジャケットとズボン、水色のネクタイと、無難なデザインなのに対し、女子はブラウスと紺のブレザーに水色のネクタイ、水色チェックのスカートと、シンプルだが洒落たデザインをしている。制服が可愛いから入学する女の子も中にはいるくらいだ。


 楽しそうに歩く高校生たちを横目に「今日のカラオケ、みんな楽しんでいるかな」と考えながら牛丼屋へ入る。注文を手早く終えて二人分の持ち帰り用パックに入った牛丼を受け取るとすぐに店から出て、やって来た道をまた戻った。


 さっきと変わらない道をぼんやりと眺めながら次の翻訳内容について考えていると、ふと一人の女子高生が目に留まった。


 クラスで何かと話題の美少女、水川雪菜みずかわゆきなだ。

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