第23話 甘美なる闇

 高地自然公園の静謐すぎる闇の中。

 着信を告げる無機質な呼び出し音が鳴り響いている。


 わたくしと高地湖は会話をぴたりと止めた。話を聞いていた暦は、ゆっくりとポケットから鳴り続けるスマートフォンを取り出す。村雲は何かを警戒するように尻尾を揺らしていた。


 暦が見せてくれた画面に表示されていたのは『陽炎ちゃん』の文字。


 高地湖とのやりとりでわたくしは最悪の考えにまで至っていた。けれど悲観的な妄想であってほしくて、悴む手を握り締める。

「……出てええ?」

「……どうぞ」

 普段ならしない確認をして暦は応答ボタンをタップする。彼の判断で通話はスピーカーがオンになっていた。


「天莉ちゃん?」

『こんばんはあ、月華』


 巌乃斗の声だ。

 けれど、彼女の声にはいつもない艶やかさと威圧感が含まれている。その一言と覚えのある呼び名で暦は状況が分かったらしい。


「……キミドリ、やろ」

『ああん、なんだあ。気が付いちゃうのね。さすがだわあ』


 巌乃斗の番号から巌乃斗の様な声で喋る何者かは――キミドリ。妖艶な女の式神だった。その正体に現状の不味さをわたくしは理解する。


『ねえ、近くに誰かいるのお?』

「おらん。……うちだけや」

『嘘、うそうそ、嘘。いけない子ね、月華。嘘はだめよ』


 ぞくぞくと、恐怖が背筋を這い上る。辺りに視線をやるが高校で感じた監視されている不快感はない。


「……そんなことより天莉ちゃんは? どうなっとるんや」

 恐れを隠すように、苦し気に暦は聞き返す。


『ああ、天莉? もちろん食べたけど』


 悪びれもせず、妖はしれっと答えた。


「――は? 食べた?」

 とんでもない発言に暦が虚をつかれる。


『当たり前でしょう。ずっとそうするつもりで傍にいたのよ。なかなか機会がなくて今になってしまったけれど』

 うっとりと夢見るような語り口だった。巌乃斗とキミドリの気の置けないやり取りからは予測できない、甘美で絶望的な関係の終わり方だ。


『ああでも心配しないで、天莉は無事よお。月華たち次第だけど』

 崖に追い詰められた様なわたくしたちの心地を弄ぶように、キミドリは軽やかに笑う。拒否など許さない、と言外に含まれていた。


『アタシ句珠が欲しいの』

 彼女が希望したのは、暦が首から吊り下げている妖の名だった。

『あなたの式神を持って来てちょうだい。どこがいいかしら――公園とあの男の家から離れた場所がいいわあ。ねえねえどこかいい場所なあい? 邪魔が入らなくて誰にも見つからない場所がいいわ』

「ま、待って、なあ待ってキミドリ。そんな、色々急に……!」

『うるさいわあ。天莉のこと殺すわよ』


 交渉する余地もなく刃は頭上に準備されている。望む通りにしなければ、キミドリはそれを落とすだけだ。外気のせいだけではない寒さに、わたくしたちはじわじわと蝕まれていた。


『ね? 場所よ何処かいい所なあい?』

 震えながらも暦が口を開く。

「……前、天莉ちゃんが担当しとった使われてへんビルは? 1階に学習塾入ってたとこ」

『いいわね』

「2階は確かオフィスやったけど、机とか全部運び出しとるからなんも無かったはず。建物の中やし、目立たんと思うけど」

『じゃあそこに30分以内に来てちょうだい――それと、今まで黙って話を聞いていた破邪師のお嬢さんと妖たち』

 キミドリの冷え切った声が、急にこちらへ向けられる。


『静かにしてくれてありがとう。わかっているとは思うけど、このことは誰にも言ってはだめよ。アタシのことを話したら天莉は二度と戻らないわあ。ちゃんと見てるんだから』


 淡々と。


『あ、破邪師のお嬢さんの同行は認めるけれど、月華の後ろに居てね。区域なんて発動したら許さないから。妖狐は――そうねアタシの『目』の範囲にいてほしいから来てもいいわよ、ただし建物の外で待っててほしいの』


 残酷に。


『従わなかったら天莉のこと殺すから。じゃあまた会いましょう』


 通話は切れた。


 ひどい沈黙が落ち、暦が倒れるように座り込む。彼の顔色は真っ青だった。


 これが巌乃斗天莉の結末か。

 人や妖に甘く隙を突かれてこうなった。契約していた式神に喰われたということは、術者としての能力が足りなかったということ。

 妖とはそもそも危険で邪悪なもの。村雲のような特例が僅かにいるだけで、わたくしはそれ以外を全て滅してきた。この町で当たり前のように日常へ溶け込む妖たちに感覚が麻痺していたのだ。


 キミドリを放置してはおけない。

 そして全ての術師たちは、自らのミスで命を落とすことを分かった上でこの道を選んでいる。

 だから、優先すべきは妖を――キミドリを滅することだ。


 けれど。




「ものすげえピンチじゃねえか。なあ術師ども!」

 高地湖は鼻歌でも歌い出しそうなほどにご機嫌で、勢いよくベンチへと腰かけ足を組む。

「あの食わず女房オレのこと記憶ごと一部齧りやがったな。業腹だが気持ちのいい悪役っぷりじゃねえか。殺したいほど惚れ惚れするねぇ!」

 わたくしたちとは逆に、心底楽しそうに湖の主は笑っている。相変わらずの空虚な瞳だが、この状況に興奮していることは嫌でも伝わった。


「なあ、みこっちゃん」

 弱弱しい声で、地べたに座ったままの暦に呼ばれる。彼は手元のスマートフォンを強く握りしめていた。


「うち句珠は渡したくないし、……天莉ちゃんのことも諦めたくない」


 今にも泣きそうなのに、彼は強欲にも『最善』を望んでいた。

 眼には折れない意志があり、こちらをまっすぐ見つめてくる。


 だから、わたくしの心も決まった。


「ええ、巌乃斗さんを助けに行きましょう」


 確かに、巌乃斗天莉には油断があったのだろう。人と妖に手を伸ばす優しさがあり、親身になってくれる甘さがある。短い時間で知った彼女は、そういう人物だ。

 足をすくわれる彼女を、術者として未熟だったからだとあざ笑うのは簡単だ。


 けれど、それはできない。

 だってあれは人として必要な甘さであり、彼女の強みなのだから。




「村雲、視覚を」

 何かを言う前に、彼はもうわたくしの足元に来ていた。そして黙って首を振る。


「ああ、目線を気にしてるのか? それだったら心配ないぜ。電話が来た瞬間から気持ち悪くて公園内は全部見れねえし探れねえようにした。まあ、出ちまえば意味ないが」

 キミドリに監視されていた高校の時の威圧感がないと思っていたが、高地湖のおかげだったらしい。


「あかんスマホ、圏外になってる」

 暦に言われわたくしも自身のスマートフォンを取り出すが同じ状態だった。キミドリは言葉だけでなく物理的にもわたくしたちが助けを呼べないようにしている。おそらく式神を飛ばしても公園から出た瞬間に把握されて終わりだ。


「で、どうすんだよ。そりゃあもうマンガのヒーローみたいにカッコよく解決してくれんだろ? なあ、櫛笥みこと」


 ああ、簡単に言ってくれる。

 時間の無い中必死に頭を働かせながら、わたくしは湖の畔にふと目を向けた。


「これ、いただけますか」

 暗闇の中ですぐ消えそうな小さな光を見つけた感覚。


「ああ、魔除けってことか? いいぜ所有者のじいちゃんに言っといてやるよ。でもこんなもん下級の下級にしか効かないぜ。あいつ山姥か絡新婦からの変異だろ? 昔話通りだとしても耐えられて終わりだな」

「ええ、でも一応持っていきたいのです」

「万が一ってやつか?」


 高地湖に聞かれ、内心苦笑する。

 わたくしはあの子とは違う。広範囲を破邪区域になどできないし、備えることもできない。だからこれは――。


「いいえ。一か八か、とうやつですわ」


 平凡な破邪師の無謀な賭けなのだ。

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