第24話  手放せるものと、手放せないもの


 一週間経っても優李は家に帰ってこなかった。一度連絡してみたら、知り合いのところに泊まるから気にするなと返事がきた。気にするに決まっているけれど、どうこう言える立場でもないのでそれ以上連絡はしなかった。

 どうやら自分は優李がいないとまともに生活ができないようだ。そう気づくまでに、時間はまったくかからなかった。まず朝が起きられない。目が覚めたときに優李がいないリビングは思った以上に胸を抉った。仕方なく朝からカップラーメンを食べたら、昼前には胃もたれを起こして大惨事だった。

 疲れて帰っても、家の中は暗く冷たい。普段どれだけ優李の存在に救われているのかを痛感した。静まり返ったリビングでコンビニ飯をのそのそと食べながら、これからどうしようと毎晩のように途方に暮れた。


「いやぁ、それはもう無理なんじゃないかな」


 今日も細身のスーツに身を包んだ南が、カプチーノの泡をちまちまと掬いながら半笑いでそう言った。頭の中を読まれたかと思って驚いたけれど、直前まで話していたプロ活動とアルバイトの両立の件についてだったらしい。

 南は広臣を勧誘してくれた芸能事務所の人間だ。年明けに正式契約をすることになり、年末に差し掛かる前に詳細を打ち合わせしようということになった。呼び出されたのは四ツ谷駅からほど近いカフェ。優李の職場が近いので少々緊張したけれど、この東京でそう簡単に遭遇できるわけもない。あまり窓の外ばかりを気にするのも南に失礼なので、とりあえず目の前のコーヒーに集中している。


「少なくとも、バイト二つは厳しいと思うよ。とりあえず一つに絞ったらどうかなぁ。僕的には派遣会社のほうが融通効くと思うしオススメ」

「あー……でもスタジオのほう、自分が使うとき割引されるんですよね」

「これからはうちの契約スタジオ使えるよ。うちの子しか割引は適用されないけど」

「ああ、そうなんですね。使うときは一人だと思うんで平気です」

「一人?」


 南は不思議そうに首を傾げた。


「今のバンド……シークレットレイニーだっけ? そっちのベースくんは?」

「解散することにしたんで」

「解散? これまたどうして……あ、もしかして、うちで広臣くんだけデビューするせい?」

「いや、それは関係なくて」


 濁すと余計気になったのか、南は姿勢を正してじっと広臣を見た。この人にわざわざ聞かせるような話でもないのだけど、聞いてもらえるなら話したい。一人きりで考えるのはもう限界だ。


「音楽をやめるって言い出したんです。俺たち幼馴染で、中学の頃から一緒にバンドやってたんですけど、どうも相手には他にやりたいことがあったらしくて……」

「あ、なんだ、そういう話か。ならいいね」


 安心したように息を吐いた南に、今度は広臣が首を傾げる番だった。


「いいって?」

「そういう理由での解散は、一番後腐れがない。音楽性の違いや一部メンバーのプロ入りをきっかけに解散したバンドは、後々元メンバー間で揉めることも少なくないからね。相手がそもそもこの業界に興味ないなら、広臣くんも遠慮なく活躍できる。人気が出てからもSNSとか怖がらなくて済むねぇ」


 予想だにしていない返答がきてたじろいだ。勝手な話だけれど、慰めの言葉がもらえると思っていたのだ。


「でも、解散までする必要はないと思うんです。シーレイは今まで通り、アマチュアバンドでやっていこうと思ってたんで。南プロって掛け持ちNGじゃないですよね?」

「他事務所のプロバンドとの掛け持ちじゃなければ構わないけど、僕が思うに、その話は相手から断られたんじゃない?」


 ぎくりとして言葉に詰まると、南は「やっぱりね」と意味ありげなを浮かべた。カプチーノの泡を再び掬い始めてティースプーンいっぱいに盛ったら、勢いよく口の中へ運ぶ。さっきから女子高生みたいな仕草をしているけれど、南は一応、事務所の代表だ。


「どうしてわかったんですか?」

「だってそのベースくん、他にやりたいことがあるから音楽をやめるって、相方である広臣くんにはっきりそう言ったんでしょ? 二人きりのバンドを組んでいてさ、相当な勇気がないと言えないよ、そんなこと。相手が幼馴染なんて近しい存在なら尚更。それだけもう彼の中で音楽への見切りはついていて、その『やりたいこと』に本気で取り組みたいってことだよ。そこまできっちり判断しておいて、片手間に音楽をやろうなんて、思えるわけないじゃない。若いのにしっかりした子なんだね」


 まるで見てきたかのような的確さに、広臣は唖然とした。


「まぁなんにせよ、僕としては非常にありがたい話だな。ベースくんを悪く言うつもりはないけど、やっぱり広臣くんにはこっちに集中してほしいし」

「俺、両方続けるってなっても、手ぇ抜いたりしないですよ」

「手を抜くとは思ってないよ。ただこっちは仕事だから、それを忘れてもらっちゃ困るんだ」

「それは、もちろん」


 当然ですと頷くけれど、南は生温い目をした。高校の頃よく教師から向けられた表情だ。小馬鹿にされているような気がしてムッとすると、南は声を上げて笑った。


「……なんで笑うんですか」

「いや、ごめんごめん。息子と喋ってるような気分になっちゃって」


 南の息子はまだ五歳だったはず。……やはり馬鹿にされていたようだ。


「この業界には色んな事務所がある。当然だけど、事務所ごとに方針も違う。アーティスティックに自由さを支持する経営者もいれば、僕みたいに金の亡者もいるわけだ。うちは儲けるためなら、みんなに多少無理をしてもらうこともある。そのあたりの覚悟をしておいてもらいたいって話」

「無理?」

「広臣くんは既存バンドの後継メンバーだから、特にかな。自分らしくない、納得できない活動をしてもらうときもあると思う。音楽を仕事として捉えていないと、それに反発しちゃう子もいるんだよね。僕は正直なところ、君がアマバンドも続けるって言ったとき不安を覚えた。外部から横槍を入れられることほど面倒なことってないからさ」


 今までは好きなように活動してきたので、曲作りも弾き方も、すべてが自分の思い通りだった。けれどプロになればそうもいかないのだろう。既存バンドに入るわけだから、先人たちとの折り合いもある。そうか、そういう窮屈さがあるわけか。だからといって契約をやめたりしないけれど、先のことを考えると少し尻込んだ。

 今の話を聞いてようやく、本当にプロになるのだと自覚した。覚悟しますと言うと、南は微笑んだ。カプチーノの泡に意識を戻して再び掬い上げながら、そういえば、と呟く。


「他バンドだけど、うちにはもう一人、君みたいに後継メンバーとして契約した子がいてね。この間突然、春フェスのアマチュア枠にエントリーしたいって言い出したんだ。趣味で弾いてる子にお気に入りがいるらしくて、随分な熱の入れようでねぇ。結局その話は白紙になったみたいで落ち込んでいたけど、そういうところ君と似ている気がするよ」


 すぐにピンときたけれど、深くは突っ込まないでおいた。今そいつの話ができる心持ちではない。そうですかと適当に流し、コーヒーの苦味で気持ちを落ち着かせる。

 南は泡のなくなったカプチーノを一気に傾けて飲み干した。テーブル上に散らかっていた書類を片付け、時間を確認して席を立つ。


「じゃあ、僕はこのへんで。また連絡するよ。良いお年をー」


 間延びした声で言い残し、南は席を立った。背中を見送っていると、なにかに気づいたように入り口で立ち止まる。どうしたのだろう。もしかして忘れ物かと広臣も立ち上がると、ちょうど入店してきた男となにやら会話を始めた。知り合いに会ったのだろう。南はちらりとこちらを見たけれど、特になにも言ってこなかったので座り直すことにした。


 ──やっぱり、もうシーレイは諦めるしかないのか。


 コーヒーを啜ってため息を吐く。なにか都合の良い妥協案はないのかと探していたけれど、そんな希望は完全に打ち砕かれた。

 南の言うことはもっともだ。自分だけがプロになれば、優李は事務所やバンドにとって厄介な部外者になる。優李自身がもう見切りをつけているのだから、自分の我儘で嫌な役目を負わせるわけにはいかない。優李のやりたいことを邪魔するのも嫌だ。ならば潔く手放すべきなのだろう。

 だけどそれはシーレイの話であって、優李の話ではない。安室優李という人間を手放すことは、どう足掻いても広臣には無理だ。


 ──あれ?


 カップの底を見つめていると、胸の中でなにかが溶けるような感じがした。

 手放せるものと、手放せないもの。自分の手にはそのどちらかしかなくて、生きていく中で取捨選択をしなければいけない。

 絶対に手放せず、誰にも傷つけられたくなく、閉じ込めておきたいほど大切な存在がある。

 それなら今、自分がすべきことはたった一つだ。簡単すぎる答えがストンと着地して、さっきまでの混沌とした気分が嘘かのようにすっきりしていた。なんだ、こんなことか。どうしてまごついていたのだろう。笑ってしまうくらいシンプルだったのに。


 トレーを片付けて店を出る。入り口付近の席で、さっき南と話していた男を見かけた。最初は気づかなかったけれど、あれは仙道だ。髪を切ったらしい。優李の唇を思い出して黒い感情が迫り上がった。しかし声は掛けないことにした。広臣が今話をしたいのは仙道ではない。それになんとなく、仙道と優李の間にはなにもない気がした。ただの願望かもしれないけれど。

 店の外はひどい曇り空だった。一雨くるかもしれない。だけど広臣の心は晴れ晴れとしている。こんな気持ちは随分と久しぶりで、今すぐ泣き叫びたいような、大声で笑い転げたいような、どちらともつかない衝動に駆られていた。


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