第18話  長い長い夜


 これはもしかしなくてもデートではないかと気づいたのは、愚かにも約束の日の朝だった。

 地獄のハロウィンをなんとか切り抜け、十二月最初の休日。なにを着ようか考え始めて早三十分だ。たかが服装にどれだけ時間をかけるのかと笑えてくる。だけど人生初のデートなのだから、やはりできるだけキメていきたい。もちろん、オミにとってはデートでもなんでもないことはわかっているけれど。

 クローゼットからニットやアウターをこれでもかというほど引っ張り出し、鏡の前であれこれ組み合わせる。着替え終わったときの部屋は、まるで泥棒にでも入られたのかというほど悲惨な状態になっていた。……帰ってきたら片付けよう。


 次は洗面所に向かい、まだオミが部屋から出てきていないことを確認して髪型を整えた。昔はコンプレックスでしかなかった茶色い癖毛。今ではカラーもパーマも不必要なスタイルに感謝さえしている。適当にワックスをつけて毛先を遊ばせたところで、廊下から物音が聞こえた。急いで洗面所を出ると、寝ぼけ眼のオミが部屋から出てきた。


「お、おはよう」

「んー……はよ」


 オミと目が合わせられない。同居して最初に迎えた朝以来の緊張だ。オミと二人で出掛けたことなんて何度もあるのに、今日は今までになく浮かれている。落ち着け自分。あまり浮ついていると変に思われてしまう。気を引き締め直し、入れ替わりで洗面所へ消えていったオミのために朝ご飯を並べる。もちろんトーストだ。オムレツと一緒にワンプレートに乗せ、冷蔵庫からジャムを取り出した。先週、実家から大量に送られてきた柿を煮たジャム。美味しくできているか不安だけれど、オミは基本的に甘党だからきっと大丈夫だろう。

 最後にコーヒーを淹れると、オミがちょうどリビングへ入ってきた。もう着替え終わったようで、いつものパーカーとデニム姿だった。近所のコンビニに行くときとなんら変わりない服装だ。自分との温度差を目の当たりにし、途端に恥ずかしくなった。


 ──男友達と出掛けるだけだもんな。


 オミくらいラフなのが当たり前で、鏡の前で何分も悩む自分がおかしかったのだ。

 こんな些細なことでも、恋心を捨て切れていない自分を見つけてしまう。そのたびひどく暗い気持ちになる。巨大な迷路に一人で立ち尽くしているような、途方もない寂寥感に苛まれる。

 浮かれるのはもうやめよう。デートなんて馬鹿馬鹿しい妄想だ。今日はちょっとした息抜きで、ただの東京観光。もう三年住んでいるけれど。


「お、今日ジャムだ」


 優李の胸のうちなんて露知らぬオミは、テーブルについて目を輝かせる。


「この間、実家から柿が送られてきたんだよ。煮詰めてみた」

「うん、美味い。最高」


 頬を綻ばせるオミに胸の水位が上がった。浮かれないと決めたばかりでこれだ。やはり、頭と心はいつだって一致しない。

 朝食を終え、互いに一旦自室へ戻ってから荷物を抱えて出発する。休みの日に午前中から出掛けるのは久しぶりで、オミと二人並んで朝日を受けるのはどこか変な感じだ。だいたいオミは仕事の出勤時間も遅いことが多いので、こんな時間に活動していること自体が珍しい。今日は眠くないのだろうか。ちらりと隣を見上げると、陽に照らされた金髪がキラキラと反射した。赤いコンタクトレンズが入った目はきちんと開いていて、別段眠くはなさそうだ。

 寒いな、もう冬だしな、そういえばマックの新作食ったか? なんて他愛のない話をぽつぽつと繋げて歩く。駅に着くとちょうど電車がホームに入るところで、スムーズに乗り込むことができた。平日の微妙な時間帯なのでかなり空いている。自分たちの他には老人が二人座っているだけの車両で、三人掛けの短いシートに並んで腰を下ろした。


 途中で乗り換えても車内の人口密度はほとんど同じで、老人が親子連れに変わっただけだった。上野動物園は一応名所だと思うのだけど、平日とはいえこんなに人気がなくて大丈夫だろうか。

 こちらでも短いほうのシートに座る。ふと、オミと一緒に電車に乗ったのは中学校の遠足以来かもしれないと思い出した。高校までは行動範囲が徒歩圏内だったからだ。もし奏多の身体になにかあったらと考えると、遠出なんてとてもできなかった。家が繁華街まで歩いて行ける距離だったせいもある。

 優李たちの世界は、あの小さな街で完結していた。そんな世間知らずの子供が大した見込みもなく上京するなんて、今考えても本当に無謀なことだ。


 上野動物園に着いて最初に驚いたのは、どこから沸いてきたのかと思うほどの人の多さだった。スカスカの電車からは想像もできない人だかりが駅から園のゲートまで続いている。平日なのにどうしてと思ったけれど、どうやらいくつかの小学校や幼稚園が遠足にきているようだ。引率らしき大人が列からはみ出す子供を叱っている。そういえば、自分のときも東山動物園は遠足の定番スポットだった。学校行事に選ばれる場所は、どの地域も似たようなものらしい。

 ゲートを潜るとすぐ総合案内所があり、置かれていた園内マップを手に取る。


「まずどこ行く?」

「決まってるだろ。パンダ一択」


 言うと思った。というか、今日はパンダを見にきたようなものだ。他の動物はそれこそ東山動物園で何度も見たし、これからだって帰省するたびに見られる。

 満場一致の決定でパンダを見に行くことにした。最近赤ちゃんパンダが生まれたとニュースでやっていたけれど、たぶんまだ表には出てきていないだろう。またの機会だな、とオミは残念そうにしていた。

 パンダがいるのは西園で、入口ゲートからは少々距離があった。歩きながらゾウやサルも見ていくが、どの動物を見ても二人して「東山のほうが……」と比較してしまう。意外と俺たち地元愛が強いんだな、と笑い合った。本当は東山動物園の動物たちを大して覚えてもいないくせに、随分都合のいい地元愛だ。

 西園に入ったあたりから子供の数が急に増えた。遠足のタイムテーブルと被ったらしい。優李は平気だけれど、オミは子供が苦手だ。


「オミ、大丈夫?」

「大丈夫だけど、子供すげーな。まあ俺たちも、遠足といえば動物園だったしな」

「小学校だけで三回くらい行くよね」


 芸がないのか、そもそも遠足に適した場所が名古屋にないのか、優李たちが通っていた学校では東山動物園への遠足が三回あった。そのせいで家族で動物園へ行くという選択肢がどの家庭からも消え、子供とのレジャーに頭を悩ませるお父さんたちはさぞ大変だったらしい。

 そういえば、奏多が熱を出して行けなかった遠足も東山動物園だった。優李がみかんの寒天を作るようになったきっかけの遠足だ。


 辺りを駆け回る子供たちは、寒さをものともせず顔を真っ赤にして笑っている。楽しそうだ。自分たちもあの頃、こんなふうに無邪気な顔をしていたのだろうか。

 そんなことを考えながら列に並んで待つこと数分、係員に先へと促された。前方について館の中へ進んでいく。いよいよパンダとご対面というとき、問題が発生した。

 子供が多いので自然と大人は後列で眺める形になったのだが、たまたま優李の前方にいるのが大人の男性で、この身長ではよく見えない。背伸びをしてなんとか寄宿のほうを向くけれど、見えたのはパンダのお尻だけだった。


 ──見えない……。


 なんということだ。パンダこそが目的だというのに、これではせっかくの上野動物園デビューが自分のチビ加減に腹を立てた思い出になってしまう。だけど前に出させてもらうのも恥ずかしい。仕方ないか……と諦めに入ると、オミが腕を引っ張ってきた。


「どんくせーな」


 呆れ笑いで見下ろされ、寄りかかるような形で密着する。あまりに急な接近だったものだから驚いて、オミの胸に頬を寄せたままぽかんとしてしまった。


「思ったより厳ついな。口開けると獣感がすごい。優李、見えてるか?」

「う、うん。ありがと」


 ──うわあああ。


 オミの前は子供なので、確かにこの位置ならばっちり見える。だけど心臓が暴れ回ってそれどころじゃない。目の前で笹をかじるパンダより、背後で「笹って美味いのかな」なんて馬鹿みたいな独り言を洩らす幼馴染に気を取られていた。


 ──だめだだめだだめだ。


 オミのこういう行動には、実際のところなんの意味もない。ただ地が誑しなだけなのだ。勘違いするな。浮かれるな。

 自分を戒めつつパンダの生態を眺める。笹を食べている。もう一匹のパンダも笹を食べている。食べ終わったと思うと、また笹を咥える。


「……笹食ってるだけだね」

「……だな」


 同じような会話を近くにいた子供たちもしていた。無理もない。パンダからすれば他になにをしろと、といった具合だろう。一応遊具はそこかしこに設置されているけれど、今のところ遊ぶ気はないらしい。ぼけっと空を見上げながら笹を齧る姿には、肉食獣の影も見えなかった。

 ほどなくして入れ替わりの時間がきて、係員の誘導に従い館を出る。密集から抜け出してホッと息をついた。外のひんやりした空気が美味しい。


「あー……パンダは可愛かったけど、なんかどっと疲れた感じがするな……」

「ちょっと休憩しよう。なんだかんだもう昼時だし」


 近くのカフェに寄り昼食とする。カフェ内に子供の姿はなかった。遠足といえば弁当だろうし、きっと外の広場で食べるのだろう。優李はサンドウィッチセット、オミはカレーセットを注文する。受け取り口からすぐに出てきたトレーを持ち空いている席に座ると、ガラスの向こう側で子供たちが走り回っているのが見えた。子供の体力はどうなっているんだ? すごいなと思いながらぼうっと見ていると、走っていた一人が躓いて転んだ。


「わっ、びっくりした」

「ん?」


 突然声を上げた優李に、オミは首を傾げる。


「子供が転んだみたい」

「あぁ、本当だ」

「近くに先生がいればいいけど」


 辺りを見回したけれど、それらしき大人は見当たらない。声をかけるべきだろうか。オミと目を合わせてどうしようかと考えていると、一緒に遊んでいた男の子が、転んで蹲っている子に駆け寄った。

 ガラス越しなので声は聞こえないけれど、男の子は心配げな表情をしている。なにか喋ったあと、転んだ子に手を差し伸べた。心優しい子もいるものだ。感動していると、転んだ子が取った行動に面食らった。

 男の子の手を払い除け、泣きそうな目で睨んだのだ。


 ──えぇ……。そりゃないよ。


 よほど仲が悪いのか? それにしてもその態度はひどい。人の優しさをなんだと思っているのだ。

 複雑な気分でじっと見ていると、オミがカレーを食べながらおもむろに呟いた。


「ま、あれが普通の反応だろうな」

「え?」


 普通? 差し伸べられた手を振り払うことが?


「恥ずかしいだろ。誰かに立ち上がらせてもらうなんて」

「そんなに大袈裟なことか? 手を借りるだけじゃん」

「転んだってだけでも恥ずかしいのに、心配なんてされたら余計惨めだろ」

「そ、そんなもの……?」


 捻くれすぎてやしないか、と言いたいところもあったけれど、誰かを頼ることに抵抗がある感覚には覚えがあった。自分も昔、いじめられたときに他人を頼ろうとしなかったではないか。自分だけでなんとかするべきだと思ったし、誰かに心配されること自体が恥ずかしくて嫌だった。おまえは一人じゃなにもできないと言われているみたいで悔しかった。子供ながら、守りたい自尊心がそこにあったのだ。

 優しさを純粋なる良心として受け取るのは、案外難しい。相手との間に相当な信頼がなければ、むしろ関係を悪化させてしまう恐れすらある。自分はこいつに見下されているのか? これは憐みなのか? そんなふうに疑ってしまう心が、人間には標準装備されている。


「奏多も……」


 ぽつん、とこぼすようにオミの口からその名前が出て、大きく胸が鳴った。子供の頃を思い出していたせいか、お姫様みたいな奏多の顔が思い浮かぶ。


「あいつも、本当は嫌だったのかもしれない」

「……どういうこと?」

「俺にいつも心配されるの、もしかしたら鬱陶しかったのかもしれないなって、今は思う。あいつ身体こそ弱かったけど、結構プライド高いとこもあったからな。頭も良かったし、俺なんかに保護者ヅラされんの、本音では嫌だったのかも」


 ──はあ?


「本気で言ってんの?」


 自分でも信じられないくらいに低い声が出た。オミは驚いたように、カレーを掬うスプーンを止める。


「奏多が迷惑がってたなんて絶対ありえない。オミの気持ちは、ちゃんと優しさとして奏多に届いてたよ」


 あの頃の二人を、いきすぎた友情だと思っていた人もいるだろう。オミと奏多には独特の空気があって、時折、二人だけの世界で生きているようだった。そこに伴う孤独感に、醜い自分を知らしめられたこともある。そのたび鬱々しい気分になり、三人でいることに苦痛を感じたりもした。けれどそれは同時に、優李にとってかけがえのない珠玉の時間でもあった。


 奏多の歩幅に合わせる朝。気持ちよさそうに歌う横顔を眺める目。オミが奏多だけに向ける愛情は、なによりも美しく輝いていた。

 どうかあの頃の自分たちを否定しないで欲しいと思う。後悔なんて少しもして欲しくない。そうでないと、想い合うオミたちを隣で見続けた自分がとてもむなしい。

 オミはしばらく黙ったあと、懐かしむような声で、


「奏多を不幸にしてたのは俺だったんじゃないかって、時々思うんだ」


 と話し始めた。どこを見ているのかわからない目をしている。周囲の音がぼんやりして、オミの声だけが鮮明に届いた。


「なにをするにも一緒じゃなきゃ不安で、いつか俺の見てないところで倒れたらって心配ばかりして……窮屈だったろうな。とんだお節介野郎だったわ、俺」


 自嘲気味に笑うオミに、言い知れぬ怒りが迫り上がった。

 オミの優しさをお節介なんて言葉で表現してはいけない。寄り添い合う二人の背中は、決して窮屈には見えなかった。むしろオミがいたから奏多の世界は広がっていたように思う。奏多はあんなにもオミを好きだった。自分がもうすぐ死ぬと分かっていても絶対に気取らせないよう、オミにだけは最後の最後までいつも通りの姿を見せ続けた。そんな奏多が、オミのせいで不幸だったって?


「あるわけないだろ、そんなこと」


 優李は否定し続ける。これは奏多と約束したからではなかった。優李が自分自身の意志で、あの頃の思い出を守りたいと願っている。


「きっと今頃、勝手に僕を不幸にするなって怒ってるよ」


 奏多はいつも笑っていた。怒るときもだ。優しい微笑みを浮かべて、毒々しい言葉を次々と吐き出す。その怒り方に、優李とオミはいつもたじろいでしまう。ごめんなさいと謝って、俺たち結局奏多には逆らえないよな、と苦笑いをこぼす。そんな懐かしい日々が、昨日のことのように思い出せる。


「そもそも、オミと奏多はただの友達じゃなかっただろ」

「……まあ、そうなんだけど」

「あの頃幸せそうに笑ってた奏多が嘘だったなんて、俺は思えないよ」


 本当の奏多を知っていた自信があるわけではない。答えは永遠にわからないままだ。それなら今、自分の中で思い描けられる奏多を正解としてもいいだろう。


 ──なあ、奏多。おまえはオミと一緒にいられて幸せだったよな。

 ──それともこれは、俺の勝手な願望なんだろうか。


 もしも奏多が幸せじゃなかったのなら、オミへの恋心を抑え続けた自分は……。


「……ありがとな、優李」


 オミは薄い微笑みを浮かべた。知らない笑顔だ。胸がざわついて、優李は笑顔を返せなかった。

 カフェ内が混雑してきたので、急いでサンドウィッチを平らげて店を出た。オミはすっかりいつもの調子に戻っていて、キリンやサイを見て子供のようにはしゃいでいる。地元でも見られるだろうと思っていた優李とは違い、素直に上野動物園を楽しんでいる姿が眩しい。オミは昔から感情表現が上手いのだ。まっすぐで純粋な瞳は小さい頃からずっと変わらない。どちらかというとスレた子供だったのは優李と奏多のほうだった。

 そう思えば、優李たちが二人ともオミに惹かれたのは自然なことだったのだろう。自分にはないものを持つ相手に対する感情は、嫉妬か羨望か恋のどれかと相場が決まっている。


 遠足の子供たちに混ざって園内を隈なく回り、帰路についたのはちょうど日が暮れ始めた頃だった。まさか動物園だけで一日遊び切れるとは思わず、少年心を呼び戻された勢いで土産まで買ってしまった。パンダの親子が抱きしめ合っているぬいぐるみを抱えた金髪赤目ヤンキーは、電車内でひどく浮いている。有料だからとケチらず袋を貰えばよかったと後悔した。当の本人は周囲の視線なんて気にも留めていないようだけれど……。

 乗り換えを済ませると、車内の人口密度はぐんと下がる。退勤ラッシュから逃れられたようだ。行きと同じく短いシートに腰を下ろすと、オミが思い出したように鞄を漁り始めた。なにか忘れ物でもしたのかと訊くがろくな返事はこず、うーんという唸り声だけ返ってくる。


「あった」

「なに?」

「久しぶりに聴こうぜ」


 オミが取り出したのは有線イヤホンだった。高校生の頃、階段で片方ずつ嵌めていたあれだ。受け取って装着すると、当時よく聴いていた洋楽ロックが流れてきた。

 途端、思い出が頭の中を駆けていった。朝の澄んだ空気、冷えたコンクリートの階段、身体が揺れてぶつかる肩。淡い恋の記憶だ。


 ドアの開く音が聞こえれば終わる小さな幸せ。次に耳からイヤホンが抜け落ちる。音が途切れたとき、優李は現実に強制帰還させられる。

 心には切なさが染み込み、常に湿っていた。つらい恋だった。それでもやめられなかった。今も同じだ。結局自分はこの恋を終わらせていない。あの日捨てると決めた想いは、今も胸の中に蔓延っている。


 ああ、もうだめだ。そう理解した瞬間、弾けるように言葉が転がり出た。


「俺、オミが好き」

「……え?」


 オミは小さく訊き返してきた。こちらを向く姿がガラス窓に映り込んでいる。

 一度飛び出した想いはこのまま溢れてしまうかと思ったけれど、好きだと言葉にしてしまうと、それ以外はなにも言えなくなった。オミが好き。たったそれだけのことを、他の言葉で飾る気にはなれない。

 返事を待っているオミに返す言葉が見つからず、黙りを決め込む。口を閉ざしたままの優李にオミもなにも言えなくなったようで、二人してしばらく黙り込んだ。ただ静かに電車に揺られ、暖房の生ぬるい空気が充満した空間で息をする。


 堪えきれず涙がこぼれた。他に乗客がいなくて本当に助かった。鼻水まで出てきて、時折声が引き攣った。きっとすごく情けない顔をしている。

 けれどきっと、今を逃したらもうなにも言えなくなるだろう。だから最後までちゃんと伝えるのだ。一番言わなくてはいけないことを、まだ言えていない。


「……死ぬ前、奏多に謝られたんだ」


 ぽつりと喋り始めた優李を見て、オミはいくつか瞬きをした。


「……謝る?」

「俺を犠牲にして幸せになってごめんって。それから『オミとシーレイをよろしく』って頼まれた。そのすぐあとに奏多がいなくなって……奏多はたぶん、自分がもうすぐ死ぬってわかってたんだよ」


 あの約束は支えであると同時に、呪いのように優李を追い詰めた。奏多はなにもかも知っていたのかもしれない。自分がいなくなったあとの未来、俺とオミがどうなるのかまで。


「その約束のためだけに、今日までやってきたんだ」


 優李の言葉にオミが反応する。


「どういう意味だよ?」

「俺はバンドがやりたくてここにいるわけじゃないってこと」


 そう言って振り向くと、オミは目を丸くして固まった。

 好きだと、言葉にしてしまいたかった。ここまで膨らんでしまったらもう、胸のうちには隠しておけない。本当の気持ちを伝えて楽になりたかったのだ。そしてそれは、シーレイのことについても同じだった。

 音楽を始めたのは、オミが好きだったからだ。

 ここまで続けてきたのは、奏多と約束したからだ。

 音楽の道を志す者にとって大事な主体性が優李にはない。ロックは好きだけれど、それを仕事にしたいわけではなく、世間に名を知らしめたいわけでもなく、上達したいわけでもなかった。それならなんのためにベースを弾くのか?

 ただ、約束を守る自分でいたかったからだ。

 誰かのためになにかができる人間でいたかった。いじめっ子をぶん殴ってくれたオミや、教師に言い返してくれた奏多のように、強く綺麗な人になりたかった。


 優李が音楽を続けてきたのは、オミや奏多のためですらない。二人に憧れて真似ていただけだ。二人に夢があるなら自分も一緒に追いかけたかった。自分はこの二人の幼馴染なんだぞ、と世界中に自慢したいくらい、優李にとってオミと奏多は誇りだった。

 こんな自分が弾くベースが、プロの世界で通用するわけもない。あのスーツの男はそれをちゃんとわかっていてオミにだけ声をかけたのだ。さすがプロ。あのとき、どうしてオミだけなのかと少しでも嫉妬した自分がひどく恥ずかしい。当たり前だ。音楽に対する姿勢が、そもそも自分とオミとでは比べものにならないのだから。


「──俺、音楽やめるよ」


 みっともないほど涙がこぼれ、視界がぼやけた。滲んだオミの顔をまっすぐ見て、ごめんと謝る。

 音楽の世界に限らず、社会は厳しい。自分でなにも決められない中途半端者はすぐに弾かれてしまう。優李は今まさに、社会の隅っこで踏ん張っている状態なのだ。十七歳の頃、自分の本音に気づけていたらなにか違ったかもしれない。そもそも上京さえしなかった可能性もある。しかし後悔はない。わかっている。人は誰しもこうやって大人になるのだ。夢を見たり、現実に打ちのめされたり、自分の汚さに辟易したり、他人を羨んだり。いいことと悪いことを繰り返して進んでいくのが人生というやつなのだろう。

 もうやめたい。恥を晒すのも、オミの足を引っ張るのも嫌だ。


 長い沈黙が落ちた。降りる駅に到着するまで、オミはなにも言わなかった。

 無言のまま改札を抜け、マンションまでの道のりを並んで歩く。空気は昼間よりもさらに冷え込み、息を吐けば微かに白く舞い上がった。静かな住宅街に二人分の足音が響く。東京にも空気の澄んだ街があった。名古屋も同じだ。都会は世間で言われているほど世知辛い場所ではない。けれどそれはつまるところ、誰と一緒にいるのかが大事なのかもしれない。

 十八で上京し、バイトとバンドを行ききする生活。上手くやっていたとは決して言えない。それでもこんなに穏やかに過ごせていたのは、きっとオミと一緒にいたからだ。

 自分はオミにもらってばかりで結局なにも返せていない。小学生の頃からずっと、なにも変わっていない。

 部屋に着くと、オミは珍しく靴を揃えて上がった。自室ではなくリビングへ向かう。優李も後ろをついていく。しばらくして、座るよう促された。


「コーヒー飲むか?」


 頷くと、インスタントコーヒーを淹れてくれた。豆の香りが鼻先を掠める。食卓テーブルに向かい合って座り、コーヒーを飲んだ。温かくて、苦くて、泣いてしまいそうになった。


「……どこから突っ込めばいいのか、正直わかんねぇんだけど」


 ついにオミが話し始めた。優李はできるだけ冷静さを失わないように、ぐっと腹に力を入れる。


「突っ込んでほしいわけじゃないから、言いたいことを言ってくれればいいよ」

「いやまあ、そりゃそうだろうけど。言いたいことっつってもなぁ……」


 オミは困ったように頬を掻き、もごもごと口ごもる。言いづらそうな態度に少し傷ついた。別に今さらなにを言われようと平気だ。フラれるのは覚悟の上だし、殴られるくらいのわがままを言った自覚はある。

 一分、二分。時計の針の動きをやけにはっきりと感じ取りながら、次の言葉を待ち構える。オミはあー、うー、と母音を伸ばしながら考え込み、やがて諦めたようにため息を吐いた。


「俺は──おまえを、無理矢理こっちの世界に引き摺り込んでたのか?」

「……え?」


 予想外の質問だった。

 てっきり告白に対する返事が先にくると思っていた。こっちの世界とは、音楽の世界のことだろうか。


「む、無理矢理なんて……それは違う。そりゃあ、オミと奏多がやるって言ったから俺も一緒に始めたのは事実だけど、俺だって音楽は好きだし、ベース弾くのは楽しい。ただ仕事にするほど熱意を持っていたわけじゃなくて、だからこの先プロを目指すつもりなら、俺は降りなきゃいけないって思って……」

「なんで?」

「え?」


 なんでって? 意味を取りあぐねて困惑すると、オミが続けた。


「熱意なんて人によって差があって当然だろ。おまえより俺の方が本気だったとして、それがシーレイをやめる理由にはならない。プロを目指すのが嫌なら、アマチュアバンドとして好きにやればいいじゃねーか」

「中途半端なことはしたくないんだよ」

「別に中途半端じゃねぇよ。おまえもう知ってんだろ? 俺が業界の人から声かけられてるの」


 ドキリとしてオミを見た。どうして知っていることを知っているのか。気になるけれど、今重要なのはそこではない。


「俺は話を受ける」


 ──ああ、やっぱり。そりゃそうだ。


 オミはせっかくのチャンスを棒に振るような馬鹿ではない。それでいい。だからシーレイは……。


「だけど、シーレイを捨てるつもりはなかった」


 ──え?


 オミは悲しげに言葉をこぼした。


「俺がプロ入りしても、シーレイはアマチュアバンドとして活動していくつもりだった。おまえがプロにそこまで拘ってないのはわかってたしな。どっちも続けたいっていうのは中途半端か?」

「……そんなことない」

「だろ。俺も別に半端だなんて思ってない。だからおまえがアマチュアのまま音楽を続けるのだって、中途半端なんかじゃねーよ」


 わかっている。だけどそうじゃない。そうじゃないのだ。

 真剣なオミを見て、再び涙腺がゆるんだ。急に泣き出した優李に、オミはギョッとする。


「ど、どうした。悪い、言い方がきつかったか?」

「違う……違うっ」


 違う。この局面で、いまだ本音を晒していない自分が恥ずかしかったのだ。


 ──仕事にするほど熱意を持っていたわけじゃなくて、だからこの先プロを目指すつもりなら、俺は降りなきゃいけないって思って……。

 ──オミはせっかくのチャンスを棒に振るような馬鹿ではない。それでいい。


 馬鹿は自分だ。いつまでも他人のせいにばかりしている。オミがプロになることと、自分が音楽をやめることには、なんの関係もない。

 ずるい言い方をしたのは、本音を知られたくなかったからだ。格好悪くて顔が上げられない。自分はどこまでも弱く、不誠実だ。オロオロするオミに申し訳なさが膨れ上がって、もういっそ殴ってくれと言いたいほどだった。


 ──ああ、違う。そんなことを考えている場合じゃない。


 どうして音楽をやめるのか、本当のことを言わなければいけない。


「俺、他にやりたいことがあるんだ」


 ついに口にすると、居た堪れなさで心が割れそうになった。


「……他?」


 オミが怪訝な顔で見てくる。心に小さなヒビが入る。


「バイト先の店長に、調理師免許を取らないかって言われたんだ。俺、昔から料理が好きで、だから本当はそっちの道も考えてた。高校のときからちょっとずつ試験勉強もしてた。でも本格的にそっちを目指すなら、バンド活動も続けながらじゃちょっときつい。それで──」

「だから音楽やめるっつったの?」


 冷えた声に、心臓が大きく跳ねた。恐る恐るオミを見る。心配げだった表情に、今はわずかな怒りを滲ませていた。心のヒビがどんどん広がっていく。


「で、でも、オミがそう言うならシーレイは解散せずに……」

「そうじゃねぇだろ」


 拒絶的な言い方だった。

 すぐに後悔した。自分はまた、オミのせいにしようとしたのだ。


「……ごめん」


 どうしようもない自分の愚かさに、涙がいっそう溢れた。自分が泣くべきではないのに。目元を擦ると、オミに腕を強く掴まれて止められた。オミは静かに首を横に振る。大人な対応をされて、余計恥ずかしさが込み上げた。なんだか今日のオミは知らない人みたいだ。

 ぽたぽたこぼれる涙が、テーブルの上に小さな水溜りを作る。一滴ずつ広がっていくたび、情けなさで胸が締め付けられた。


「ごめん」


 他になにも言えなくて、ひたすらごめんと謝り続けた。オミの顔はもう見えない。ただ掴まれたままの腕が火傷しそうなほど熱かった。

 返事がもらえない謝罪を繰り返していると、だんだん自分がどうして謝っているのかよくわからなくなっていった。自分はいったい、なにを懺悔するべきなのだろう。奏多との約束を守れず、シーレイを続けられないことだろうか。それとも、オミに黙って別の未来を考えていたことか。

 いや、違う。本当に謝るべきなのは……。


 ──好きになってごめん。


 あまりに卑屈すぎて口にはできなかった。

 結局これがすべての原因に思える。オミを好きになった自分が全部悪い。

 もしもただの幼馴染でいられたら、最初からもっと別の選択肢があったかもしれないのに。


 恋をしていたから、オミが優李のすべてだった。少しでも近くで生きられる道を選んでしまった。それが将来、オミと奏多を傷つけることになるなんて考え至らず、自分ばかりがつらいのだと思い込んでいた。オミを支えるなんて意気込んでいたくせに、なにも守れていないどころか、自分の手で大事なものを壊してしまった。

 奏多。シーレイ。オミ。幼馴染。ずっと一緒にいる友達。全部手のひらからこぼれていく。もう自分にはなにも残っていない。


 長い長い夜だった。静かに流れる時間が、オミからの拒否を意味していると気づいていた。空になったカップをいつまでも握りしめ、涙がこぼれ切るのをじっと耐えて待つ。最後の一滴が水溜りに落ちたとき、優李の初恋も一緒になって溶けて消えていった。



△第二章END▲



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