(17)不審な人物

 鬱屈した心がみるみる陰っていくその一方で、チーン――と音がしてエレベーターの扉が開き、薄暗い地下の片隅にひとすじの光が差し込んだ。

 扉の開いた先に一歩踏み出しながら、あっけらかんとして音喜多さんが言う。

「じゃあ、とりあえず事務所に戻って仕切り直すとしましょうか」

 そうして乗り込むあとにつづき、僕も歩き出した矢先のこと。

「あっ、ちょい待ち」

 唐突に振り返った彼女は、僕の胸元に顔を寄せると、ひくひくと鼻を動かした。

「まだ、ちょっと臭うね」

 言って、霊安室へと通路を後戻りする。

 閉まりかけた扉を、僕は『開延長』のボタンで押し留めた。

 しばらくして、戻ってきた音喜多さんが手にしていたのは霊安室に常備されている消臭剤のスプレー缶だった。

 さきほど不詳の棺を元通りに霊安庫へと戻した音喜多さんは、その直後に、あれと同じスプレーを一缶まるまる使い切る勢いで部屋中に景気良くぶちまけていた。なにもそこまで――とも思ったけど、ああでもしないと、あれほどの腐敗臭を完全に消すことは出来ないのだろう。事前に通路へ避難させられていた熊男の棺は、おかげでその難を逃れたというわけだ。

「はいはい。おまたせ」

 走り寄ってきた音喜多さんが噴射口を僕に向ける。そして「はい、目ぇ――」つむって、と言い終わらないうちに目の前でそのトリガーが引かれた。

「う゛ぇ……っ!」

 ご遺体のそれとは別の意味で強烈な匂いが、頭のてっぺんからつまさきまで、たっぷりと全身に降り注ぐ。

 げほげほ咳き込む僕の身体を、あらためて匂った音喜多さんは、

「――うん。これでおっけーね」

 まったく悪びれずに、しれっと隣に乗り合わせてきた。

 それから、こちらの顔を覗きこんで、

「顔色、ちょっとは良くなったかな?」

「ええ。おかげさまで……。あの、すみませんでした……」

 僕は暗い目を伏せたまま、ぼそりと謝罪を零した。

「どうしたの急に……落ち込んでるの?」

「いえ……」

 落ち込むどころの話ではない。

 これは絶望だ。

 なにせ、ろくに手がかりも掴めないまま完全に行き詰ってしまったのだから……。

『田中さんのご遺体は、不詳の棺に眠っている』と、そう信じて疑わなかった。

 それこそが唯一にして最後の希望だった。

 それが、たったいま、こうして無惨に打ち砕かれた。

 大見得をきって披露したその推理も、いざフタを開けてみれば「とんだ的外れだった」と思い知らされるだけの結果に終わった。いたずらに現場を引っ掻き回しただけに留まらず、挙句の果てには霊安室に悪臭までもを放つ始末だ。

 さんざん苦労したわりに、何一つ得られるものがなかった。

 そのショックはあまりにも大きい。

 腐乱死体を前にして醜態を晒したこともあり、巻き込んでしまった音喜多さんに対しても、恥ずかしいやら申し訳ないやらで立つ瀬がない思いだった。

「ほんとに、すみませんでした……ご迷惑をかけてしまって……」

「あたしのことは別に、気にしなくていいけどさ……。だから言ったでしょう? 素人が小説みたいに推理で解決なんて、できるわけないじゃないの」

「おっしゃる通りです……」

 気落ちした肩に、音喜多さんの手がそっと添えられる。

「まぁ……でも、ほら。あんたのぶっ飛んだ発想には色々と驚かされたわ。正直、ちょっと面白かったし。これもある意味、いい経験にはなったんじゃないの」

 普段と変わらない、なんともぶっきらぼうな口ぶりだったけど、その言葉の端々からは気遣うような思いやりもまた滲み出ていた。

「音喜多さん……。これから……どうしましょうか……」

 掠れた声でそう問いかける。

「アテがはずれてしまった以上、この館内には……もう他にご遺体を隠しておけるような場所なんて存在しませんよね……。だとすると、田中さんは会館の外の……どこか遠くに持ち去られてしまった可能性も……」

 言うと、彼女は横目で「かもね」とだけ呟いた。

「そうなったら……残念ですが、僕たちにはもう打つ手がありません」

「そう。そっか……じゃあ、諦めるんだ?」

「……」

 悔しさに、返す言葉もなく押し黙る。

 階数ボタンの〝3〟が押されて扉がゆっくりと閉まっていく。足先から全身へと浮遊感に包み込まれていくなかで、彼女は僕の返事を待つことなく「まぁ、それでもいいんじゃない?」と軽い口調で、そう言った。

「それでもいい? ここまできて、諦めても……ですか?」

「まぁね。そりゃあ、あたしだって乗りかかった船だし、あんたの気が済むまで付き合ってあげても良かったんだけどね。……でも、他ならぬ探偵さんが『ギブアップする』ってんなら、助手のあたしがとやかく言う筋合いはないよ」

「そうは言っても……僕たちには担当者としての責任が……」

「責任ったって……あんたがそこまで気負う必要なんてないでしょ。やれるだけのことはやったんだから、あとのことは〝上の人〟にスパッと丸投げするってことで、いいんじゃないの?」

「上に丸投げ……それでいいんでしょうか、本当に……」

「いいでしょ、べつに。会社で不祥事が起こったら責任を取るのは上の人間。そういうもんだって相場が決まっているんだから」

「そういうもんですかね……」

「そういうもんよ。楽して椅子にふんぞり返っているような連中は、有事の際に責任を取るために、それが許されてるってワケ」

 その言葉に、僕はまじまじと彼女のことを見つめて思った。

 日頃から楽して椅子にふんぞり返っているのは、なにも本社の人間だけに限らないだろ――と。

 さすがに、口には出さなかったけど。

 でも、その一言で随分と気が楽になった。

 音喜多さんと探偵ごっこに興じた時間は、ほんの束の間の出来事に過ぎなかったけど、僕はこのとき久々に彼女の顔をまともに見れたような気がした。

 エレベーターはゆるやかに上昇していき、階数表示の〝1〟が光る。

「しっかし遅いわね」

 視線を上げて音喜多さんが毒づいた。

「このエレベーター、たかだか三階まで上がるのにどんだけ時間かかるのよ」

「いや……元々そういう設計なんだって、前に自分で言ってたじゃないですか。だから『階段で行きましょう』って僕は――」

 言いながら無意識にポケットをまさぐる。

 いまの「遅い」という言葉を受けて、なんとなく時間が気になった。

 取り出した携帯の待ち受け画面には二時四十分と表示されている。

「どうしたの?」と音喜多さん。

「あ、いえ……本社の人、まだ来ないのかなぁって……」

 いまになって気づいたけど、音喜多さんが本社に連絡してから、もうかれこれ一時間ほど経っている。時間的にはとっくに来ていてもおかしくないのに、やけに〝遅い〟ような気がしてならない。

 はたして到着はいつになるのだろうかと顔を曇らせると、それについて音喜多さんは「取り込み中で、すぐに会社を出られなかっただけでしょ。心配しなくても、もうすぐ着くよ」と、さほど気にしていない感じだ。

「いや、そうは言っても本社から会館までは三十分で来れる距離ですよ? いくらなんでも時間がかかりすぎじゃないですか。音喜多さん――」

 その瞬間を、僕は見逃さなかった。

「ほんとうに、本社に連絡したんですか?」

 悪気なくその一言を放った、そのとき。

 まるでお線香の煙のように、彼女の横顔から、ふっ――と表情が消え去った。


 階数表示の〝2〟が光る。


「……ちょっと、いきなりなんなの?」

 そして次の瞬間には、またいつもの奔放な調子に戻っていた。

「人聞きの悪いこと言わないでよ。ちゃんと連絡したっての」

「そう……ですよね……」

 なんだろう。

 いま彼女の顔色に垣間見えた一瞬の変化は、いったい……。

 気のせいかと思い直そうともしたけれど、それでもモヤモヤは消えることなく、むしろ猜疑心となって僕の心に芽吹きはじめる。

(あっ……!)

 そして脳内に、ふたたび起こる騒めき。

 人知れず激しくなる動悸。

(この感覚は……)

 あのとき感じたものと、よく似ている。

 そうだ。

 さっき事務所で話し合いをしていたときの、あの違和感と同じものだ。

(これは……ひょっとして……!)

 脳内の釣り糸に、なにかが掛かったような確かな手応え。

 慎重に手繰り寄せれば、その先は、あの違和感の正体に繋がっている気がした。

 いまなら、それがわかるかもしれない。


 ――〝3〟が光った。


 目的の階にエレベーターが停止した。

 全身を包んでいた浮遊感がするりと解けていく。

「あーあ。疲れた疲れた。なんだかのど渇いちゃった」

 扉が開くなり「ようやく着いたか」と足早に歩き出す音喜多さん。

「あ、そうだ。マコ、事務所に戻ったらお茶のおかわり淹れてくれない? お寺様用に買ったお菓子もあるからさ。ここはひとつ憂さ晴らしでいっしょに食べ――」

 振り向いた彼女の言葉は、そこでぴたりと止まった。

 その視線を一身に受け止める僕は、エレベーターの中に黙して佇む。

「なに? 地下に忘れ物でもした?」

 その呼びかけにも応えることなく、まっすぐ前を見据えたまま、飼われた鳥のように、その場を離れようとはしなかった。

「ちょっと、聞いてる?」

 痺れを切らした彼女が、自動扉のすぐ手前まで歩み寄る。

「どうしたの? 突っ立ってないで早いとこ事務所に戻ろうよ。さっき途中で切り上げた映画も、今頃はちょうどクライマックスだしさぁ。あたし、ビショップが真っ二つになる場面だけは見逃したくないんだけど」

「音喜多さん」

 遮るようにして声をあげた。

「ちょっと、いいですか」

「なに。そんな、こわい顔して……ひょっとして、ネタバレNGだった?」

「いえ、映画のことじゃなくて……」

 ごほん、と咳払いして言う。

「ひとつだけ、わかったことがあるんです」

「わかったって……なにが?」

「……今回の事件のことで、ちょっと」

 すると、彼女は「まーた、はじまったよ」と言いたげに眉根を寄せて、

「あんたねぇ……推理はもう諦めたんじゃなかったの? それともなに? また新しい隠し部屋でも思いついたっての?」

「いえ、残念ながら……ご遺体の在り処も、事件の真相も、その辺はもう皆目見当もつきません。はっきり言って、お手上げです」

 ただ――と、重石をかけるように先をつづける。

「実を言うと……たったいま僕は、この葬儀の関係者で一人だけ……不審な人物がいることに思い当たったんです」

「不審人物ぅ?」

 音喜多さんが腕組みをする。

「それって、なに? 『』とでも言いたいわけ?」

 僕は、ゆるゆるとかぶりを振る。

「犯人かどうかまでは、まだ……。でも、その人が事件の鍵を握っているのは間違いないと思うんです。詳しい話を聞き出すことができれば、もしかしたら真相に辿り着くことができるかもしれません」

 音喜多さんは視線をどこか遠くに置いて、いくつか知った顔ぶれを思い描いているようだった。しかし目ぼしい人物が浮かばなかったのか、すぐに手をあげて降参の意を示す。

「……だめ、あたしにはわかんないわ。勿体ぶらずに教えてちょうだい。その不審者ってのは、どこのどいつよ」

「それは――」

 いよいよ、ここが正念場というやつだ。

 この一言を口にすれば、もう後にはひけないだろう。

 すぅーっと深く息を吸って、僕ははっきりと、その人の名を指摘した。


「不審な人物というのは――


 



(つづく)


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