(10)今日は何の日?

「音喜多さん、い、いま……なんて?!」

 時計の針が午後の二時に差し掛かるころ。

 音喜多さんの思いもよらぬ一言をきっかけに、事務所の空気がにわかに色めく。

「田中さんはって……それ、本当なんですか?!」

「本当もなにも、ウソつく理由なんて無いでしょ」

「そ、そんな……どうして、そんなことがわかるんですか……」

 動揺する僕の問い掛けに、彼女は無言でこちらの手元を指さした。

「受注書、ですか……?」

 手にした資料を掲げてみせると、こっくりと彼女がうなずく。

「その分厚いファイルは全部、あたしも目を通してるからね。あんたがベソかいて濡らした頁と、さっきからガタガタガタガタ震えてる足を見れば、それが何を訴えているかくらい見当はつくよ。『大変だ! 同性同名のご遺体があったせいで、きっと取り違えが起こったんだ! どうしよう!』ってところでしょう? どうせ」

「あ、いや……そうじゃなくて……」

 無論、そんなことを訊きたかったわけではない。

 なぜ僕が抱えている不安の種を、ぴたりと言い当てられたのか――ではなく、なぜ「まだ火葬されてない」などと言い切れるのか、その根拠が知りたかったのだ。

 とはいえ、その口ぶりから察するに、僕が無意識につづけていた貧乏ゆすりが思いのほか彼女の気に障っていた様子だったので、

「そ、そんなにうるさかったですか? ……すみません」と、せめてもの謝辞を述べたのちに、あらためてその理由を訊いてみた。

 すると彼女は「あれを見て」と壁に掛かったカレンダーを指さす。

「マコ。今日は何の日だっけ?」

「えっ。き、今日ですか? えーっと……」

 僕は目を凝らして、日付の横に小さく書かれた文字を読み上げた。


 今日、四月七日は――

「――鉄腕アトムの、誕生日?」


 言った途端に、ぺちっと頭をはたかれた。

(いてぇ……)

 見ると、音喜多さんが呆れ顔で前のめりに腰を浮かせている。

「おバカ。『六曜だと何の日か』って話に決まってるでしょう」

「それ、さきに言ってくださいよ……」

 頭をさすりながら、もう一度カレンダーに目を向ける。

 六曜とは『大安』や『仏滅』などの、行事の日取りを決めたりする際に吉凶を占うための指標となるものだ。

 それで言うと、今日は――

「えっと、『友引ともびき』……ですね」

「でしょ。それで? 友引の火葬場はどうなってる?」

「……お休み、ですね」

 音喜多さんが「そうね」と頷く。

 都内の火葬場はほとんどの場合、友引の日は火葬業務を行っていない。友を引くという字面が〝道連れ〟を連想させるために縁起が悪いとされているからだ。結婚式は『仏滅』を避けて執り行われるけど、葬儀の世界では『友引』がそれにあたる。

 火葬場が休みとなれば葬儀をあげることもできないので、葬祭業者は友引か、もしくはその前日の『引き前ビキマエ』に合わせて休暇を取ることが多い。

「あんたも知っての通り、今日は友引だから火葬ができないよね。じゃあ、昨日はどうだった?」

「昨日はビキマエだから……午後三時の火葬が最終受付ですね」

「ということは、。ここまではいいよね?」

 僕は首を傾げて「いやいや」と手を振る。

「あの……話がまだ見えないんですが……。たしかに友引をはさむ都合上、六日の三時から八日の朝九時まで火葬場が利用できないってことはわかりますよ? ……でも肝心なのはそこじゃなくって、田中敦さんの火葬が『』だって話じゃないですか」

「そうだけど、それがなにか?」

「いえ、ですから……その時間は火葬場も普通に営業してるんですけど、そのことが三時以降の件と、どう関係してくるんですか」

 訊くと、今度は書類棚のほうを指して、

「あの〝お花見の写真〟見たでしょ?」

 質問に答える代わりに、さらなる問いを重ねてきた。

 彼女の指した棚の上には、遺影写真が箱に収まったまま置かれている。

「写真、ですか。……まぁ、たしかに見ましたけど」

「あの原本の写真は、田中家の喪主様が昨日わざわざここへ届けにきてくれた物なんだけど、それが何時頃のことだったかわかる?」

「えっと……」

 いったい何の話かと思ったけど、それくらいはすぐに調べがつく。

 手元の資料をぱらぱらと捲ると、

「あ……あった。わかりました」

 指でさした箇所を彼女に見せる。

「昨日の夕方五時に『喪主様が写真を持って来館された』って……申し送りにも、きちんと判が押されてますね。『写真預かり済』って書かれてますよ」

「そのとき対応したスタッフは?」

「幸田さん、みたいですね……」

 僕が口にしたその名前は、社歴で言うと僕の二年先輩にあたる人だ。会社内では最も年が近い同僚ということもあって、仕事終わりに飲みに誘われることも多く、なにかと可愛がってもらっている。

 資料によると昨日の幸田さんは、音喜多さんの代わりに会館の留守を終日預かっていたようだ。

「えっと……写真を預かった幸田さんは、そのあと喪主様をお見送りして、五時半には閉館業務を終えているみたいです。それから、本社に戻る途中で写真屋さんに立ち寄って、そこで遺影を発注してくれたみたいですね」

「ほら。そこまでわかれば、もう答えは明白じゃないの」

「な、なんでですか……?」

「だって、田中家の喪主様が来館されたのは昨日の夕方五時なんでしょう? 写真を預けるためだけに、わざわざここへ足を運んで、そのまますぐに帰ると思う?」

「いえ……」と考えながら口を開く。

「せっかく来たんですから、普通なら帰りますね」

 言って、そのときの情景を思い描いた。

 お線香の煙が立ち昇るなか、棺に向かって手を合わせる一人の女性。

 最愛のご主人とのお別れを二日後に迎える彼女は、名残惜しそうに小窓を開いて、

『おとうさん、こうして会えるのも明後日が最後なのね……』

(あ、そうか。だとしたら当然――)

 思い当たった顔に、音喜多さんが頷く。

「当然、そのときにでしょ?」

「た、たしかに……」

 そこで、はじめて合点がいった。

 そうだ。もし薫さんが六日の十時に誤って火葬されていたとしたなら、その日の夕方に喪主様が対面したご遺体はすでに別人であったはず。だとしたら、その時点で事件が発覚していなければ、おかしい。

「ついでに言うと、霊安室の香炉には今朝の時点でお線香の燃え残りがあったの。香炉は毎朝掃除してるし、いま受注している葬儀のうち仏式は田中家だけだから、誰かがお線香をあげてお参りしたとすれば、それは田中家の喪主様しかいないはず。つまり話をまとめると、こういうことよ」

 音喜多さんの人差し指がピンと立つ。

「六日の夕方五時までは、田中薫さんは地下に安置されていた」

 それから、中指が立ってピースになり、

「六日の午後三時から八日の朝九時まで火葬はできない」

 その二本の指をチョキチョキしながら、

「これらの事実を合わせれば、田中薫さんがすでに火葬されている可能性は限りなく低いってわかるでしょ? 少なくとも、六日の日に取り違えで火葬されただなんて、それだけは絶対にありえない」

「そ、そうか……そう、ですよね……!」

 言われてみれば単純な話だ。

 目の前にある情報をきちんと読み解けば素人でも分かりそうなことなのに、どうして僕はこんなことにも気づかなかったんだろう。

「田中さんのご遺体は、まだ火葬されていない……まだ……」

 噛みしめるように、その言葉を何度も何度も口にする。

 そうしているうち、胸のなかに、こんこんと温かいものがこみ上げてくる。

 音喜多さんの説いた理屈は、特効薬のように身体に沁みた。

 まるで心に刺さったトゲが、いとも容易く抜き取られて、そこから噴き出した安堵の波が全身の緊張をするりと洗い落としていくようだった。

 助かった……と、そう思った。

 ご遺体の行方は依然として知れないけど、少なくとも取返しがつかない最悪の事態だけは避けられたのだと、そのことを知れただけでも心の底からほっとした。そして同時に、気の緩みからダムが決壊したように涙がポロポロと零れはじめた。

「どうよ? これで、ちょっとは安心あんし……――って、ストップ、ストップ! 勘弁してよ、もお……なにも泣くことないじゃない」

「うぅ……ず、ずみまぜん。じ、じぶんでもなにがなんだか……」

 差し出されたティッシュ箱を受け取って、ずびー、ずびーと鼻を鳴らす。

 よかった、ほんとうによかった――と、ただそれだけを念仏のように繰り返し唱えているうちに、デスクの上はクシャクシャに丸められたティッシュがうず高く積まれて山となった。

 音喜多さんはお茶を啜りながら、頬杖をついてその様子を眺めている。なんだか肴にされているようで、あまり良い気はしないけど……ともあれ、彼女の言葉にこうして救われたのも事実だ。


 嗚呼、ありがとうございます。

 神様、仏様、音喜多さま――。


 僕はそうして、この世の生きとし生ける全てのものに感謝の念を贈るうちに、だんだんと目の前の女性がお釈迦さまのように後光を纏って見えてきて、うっかり手まで合わせてしまいそうになり、すんでのところで正気を取り戻した。


(つづく)

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