(7)大事件は突然に
手探りで霊安室の明かりを点けると、六畳くらいの小さな部屋がパッと目の前にあらわれた。
午前中は誰もお参りに来なかったようで、いまはご遺体も出されておらず、部屋はカラっぽの状態だった。
こうして見ると狭小な霊安室もそれなりに広く思えるけど、ここに棺を安置してお線香などの支度を整えれば、お参りするために部屋に入れる人数はせいぜい五、六人といったところだろう。葬儀式をあげる費用が無い場合なんかは、この霊安室で最後のお別れを済ませてから火葬場に直接向かうこともある。いわゆる
ばたん、と後ろ手に扉をしめる。
扉を背にして正面の壁は、緞帳が下りた舞台のように一面が厚手のカーテンで仕切られていた。つかつか歩み寄って、それを横いっぱいに引くと、ごうんごうんと低く唸る巨大な鉄の塊が姿をあらわす。
これが〝
遺体保存用の冷蔵庫だ。
上部に設置されたメーターが、中の温度を「四」と示している。
不思議な光景だ、と思った。
霊安室の内装は、温かみのある照明と素朴なインテリアで程よく調和がとれていて、居心地の良さが意図的に演出されている。おそらくは一般の利用者が気後れしないようにと配慮してのことだろう。何も知らずに目隠しで連れてこられたら、ここが霊安室だとはそうそう気づかないはずだ。
それに対して、この巨大な冷却装置が放つ存在感はなんとも異質なものである。
そのあまりに無機質な出で立ちからは温もりの欠片も感じられず、この部屋の落ち着いた雰囲気とは明らかに不釣り合いな代物のようで、アットホームな空間に突如として現れた〝異物〟という、そういった場違いな印象はどうしたって否めない。
いつ見ても、それらは禍々しいほどの対比をなしているように思えた。
霊安庫には、開閉用のレバーが付いたハッチのような正方形の扉が、上下二段に四つずつ並んでいる。それぞれの扉に一体ずつご遺体が収められているので、同時に保管できるのは最大で八体まで、ということになる。
扉には故人の名札が貼られており、「誰がどこで保管されているのか」が一目でわかるようになっている。名札の数から、いまあるご遺体は四体だとわかった。
霊安庫を正面に見据えて、左上から「Z」を書くように視線を走らせる。
(田中さんがいるのは……下段か)
ほっとして息をついた。
上段のご遺体を出す場合は、昇降機能付きの重たい台車をわざわざ引っ張り出す必要があるけど、下段ならそこまでの手間をかけずに済む。
目当ての扉は下段の右端。
レバーを引いて、がちゃりと開ける。
漏れ出た冷気が、ひやりと頬を掠めていった。
屈んで中を覗きこむと、霊安庫内は二メートルくらいの奥行きがあって、そこに縦向きで棺が収まっていた。
真っ白な布張りの棺だった。
扉にあるのと同じような長方形の名札が、棺の本体にも貼られている。
僕から見て、フタの手前側に拝顔用の小窓が付いているので、こっちが頭で奥のほうが足ということになる。
「さて、と――」
ここからはちょっとした力仕事だ。霊安庫から引き出した棺を、移動用の車輪が付いた
手早く済ませて、お昼にしよう。
ワイシャツの袖を捲り上げ、その腕を冷気の立ち込める中へと、ぐっと伸ばす。
指を挟まないよう気をつけながら、棺をゆっくりと手前に引いていく。
霊安庫の底面には線路のような細長いレールが敷かれており、枕木にあたる部分の一つひとつが円筒状の滑車になっているため、こうして棺を滑らせることで難なく引き出すことが出来る。
そのまま三分の一ほど外に出したところで、突き出した部分の真下にすかさず棺台を滑り込ませてから、腰を落として両手にありったけの力をこめる。
(よっこい、しょっ――!)
中腰の姿勢で棺の一端を持ち上げたまま、力士の
がらがらがらがら、と音を立ててレールの上を棺が滑る。
そのまま勢いを殺すことなく、すぽんと全身を引き出された棺は、レールを離れて速やかに棺台へと乗り上げられた。
ぷるぷると手を震わせながら、つまさきで棺台の位置を微調整して、ご遺体に衝撃を与えないよう慎重にそっと腕をおろす。
がたん、と静かな手応えを感じた。
よし――。
これで移し替えは無事完了だ。
「痛――ってぇ……」
ビリビリと痺れて手首を振る。
想像以上の重さだった。
持ち上げた感触だと、ゆうに百キロ以上はあったんじゃないだろうか。僕がこれまで運んだご遺体のなかでも、こんなに重い人は初めてかもしれない。
「まさか、ここまでとは……やっぱり音喜多さんの手を借りるべきだったかな……」
悔やみつつ、棺の周囲をぐるっと周る。
こういった白い棺は少しでも汚れていると目立つ。お客様の目に触れる前に、きちんとチェックしておこう。
「傷、汚れ……無し。
指さしながら隅々まで入念に確認する。
純白の棺は、照明の暖かな光を纏って、汚れのない輝きを放っていた。
「うん。オッケーかな」
ふぅ、と一息ついて汗を拭った。
あとはこの棺を式場まで運び終えれば、晴れてご飯にありつける。
それで僕の仕事も一段落だ。
「よいしょっと……」
霊安室の外に向けて、棺を押す手に体重をかける。
きぃきぃと軋みを立てながら、ゆっくりと車輪が回りはじめていく。
そのときだった。
(いや、ちょっとまてよ……)
そこで僕は、ふと何かが気になって思わず手を止めてしまった。
その〝何か〟というのは他でもない。
さっき棺を持ち上げたときの、この手に感じた、その〝重さ〟だ。
そうだ。
思い返してみても、やっぱりおかしい。
この棺は、なんというか、不自然なまでに重すぎる。
遺影写真で僕が目にした田中さんの容姿からすると、そのご遺体を納めた棺が、あそこまで重くなるのは明らかに変ではないだろうか。
(ただの思い過ごしかもしれないけど……念のため、棺の中も見ておこうかな……)
そう思い立ち、いったん浮かせた手を拝顔用の小窓にのばす。
なに、べつに惜しむほどの手間でもない。
こうして小窓を開けさえすれば、わざわざフタを取り外さなくても故人の顔は見れるのだから、それでちょっと中身を確認するくらい造作もないことだ――とは思ったものの、どうにか楽観視したくなる気持ちとは裏腹に、このとき何故か、とてつもなく嫌な予感がした。
足元から這い上がる不安の影が、いきなり背中へ圧し掛かってくるようだった。
それを振り払うために、こう自分に言い聞かせた。
なにを恐れているんだ、お前は。
どうせ、またいつもの心配性だろう――と。
そうさ。
そうに決まっている。
フタを開ければ、ただの取り越し苦労だったとわかるのがオチだ。
たぶん、ご遺体のほかに遺品か何かがたくさん入っていたせいで、それで過剰に重くなっていただけだろう。
それだけのことだ。
ご遺体にさえ異常が無ければ、それで何も問題は無いんだ……。
そうして僕は、祈るような思いで観音開きに小窓を開けると、それから丁重に合唱と
そこには、さきほど遺影写真で見た、あの優しい微笑みがあった――
――はずだった。
「えっ!?」
驚嘆する自分の声が、うわんうわんと部屋中に響いた。
その残響を耳にしながら、合掌も解かずに身を硬直させる。
(……だ、誰だ、この人は?!)
自分が目にしている光景が、にわかに信じられなかった。
ツルツルに剃った頭。たくましく生え揃った口髭に、毛虫のような太い眉。そして、がっしりと頬骨の張り出した四角い顔……。
そう。
棺の中で眠っていたのは、僕の知っている田中薫さんとはまるで違う、
そう思わせるほどの大きな体躯だった。
骨格からして写真とは明らかに別人だが、威圧感があるのは体つきだけでなく、その人相もかなり厳ついもので、あるいは近所の子どもたちから『カミナリおやじ』とでも呼ばれていそうな風貌だった。
少なくとも、これだけはハッキリ言える。
このご遺体は、田中薫ではない――。
受け入れ難い現実を突きつけられて、歯がカタカタと震えだす。
「うそだろ……」
まさかの事態に、慌てて棺の名札を見る。
間違いない。『田中薫』と――たしかに、そう書いてある。
ほかに同姓同名のご遺体もない。
「なのに……どうして……」
遺影写真で見たあの優しい笑みを思い浮かべながら、
しかし、瞳の中でどれだけイメージを重ねても、それら二つの顔がぴたりと合わさって像を結ぶことはなかった。
パニックに陥った思考回路は、すでに本来の働きを失っていた。
どれだけ必死になって回転させようとも、
「なぜ」
「誰が」
「どうやって」
そのような答えの伴わない疑問詞だけが、ただただ順序を入れ替えながら、ぐるぐると脳内を駆け巡るばかり。
だが、それら渦巻く疑問の数々も、やがては一点に向けて収束する螺旋のように、僕の思考を〝ひとつの結論〟へと導いた。
それはあまりに残酷で、あまりに現実離れしていたために、僕には到底受け入れることなんて出来ないはずだったのだが……。
「まさか……本当に、そんなことが……?」
定まらない視線とともに顔をあげた。
身体の震えは手から足へと全身を伝って、やがて世界を大きく揺らした。
だがこうなっては、もう認めるしかない。
(ご遺体が、取り違えられている――!)
その結論に至った瞬間、脳を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。
ぐらりと傾いで膝をついた僕は、すぐさま居ても立ってもいられなくなり、そのまま弾かれたように霊安室を飛び出した。
どうしよう、どうしよう――。
停滞する思考とは無関係に、噴き出す汗が、早鐘を打つ心臓が、この震える身体を、ただがむしゃらに突き動かしていた。
もしかしたら、取り返しのつかないミスが現実に起きてしまったのかもしれないと……そんな焦りや恐怖までもが
頭のなかは、ほとんど真っ白だった。
自分がいつしか走り出していたことすらもその記憶に定かでなく、あとになって冷静に思い返してみるまで、このとき自分が何を見て、何を感じ、何を考えていたのか、その全てが混沌たるものであった。
ただ……そんな状態にあったなかでも、僕にはただ一つだけ、はっきりと意識していたものがある。
音喜多さんの存在だ。
息せき切って階段を駆け上がるそのあいだ、自分が
彼女ならきっと、この窮地でも何とかしてくれるに違いないと――。
このとき僕は、そう強く信じていたのだ。
そして――
暖かい春の陽射しが眠気を誘う、昼下がりの午後のこと。
ゆったりと過ぎ去っていく時間の流れが、どこか心地よい倦怠感をもたらすさなかに、僕はひとり血相を変えて事務所のドアを押し開いた。
(つづく)
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