悪趣味な晩餐

仲津麻子

第1話混沌

 混沌カオスの裂け目と呼ばれる現象を知るものはいない。


まれに裂け目に落ちて、戻って来た者はいるのだが、たいていは夢の中の出来事だと思い込んで、すぐに日常に戻ってしまう。


そのため、それを口に出す者はいなかった。


 ここに一人の男がいる。

中肉中背で、特に目を引くような特徴もない、平凡なサラリーマンだ。

グレーの地味なスーツに、茶色い革靴。少しくたびれた革の鞄を抱えていた。


 彼は、心ここにあらずな様子で、下を向いてふらふら歩いていた。

 

 長年懇意にしてきたはずの顧客が、突然取引をやめたいと言いだしたため、慌てて駆けつけた。


頭を地面に擦り付けるほどの勢いで頭を下げ続け、なんとか一時思いとどまってもらえたが、まだ、確約は得られないまま、会社へ報告に戻る途中だった。


 足取りは重い。上司に何を言われるか。

何か失態を犯しただろうか、あれこれ考えていたが、彼にはまったく心あたりがなかった。


 夜の繁華街は人が行き交い、彼を追い越して行く男女の足取りも軽い。

これから一杯やって、うまい夕食にありつこうという、浮いた雰囲気が満ちていた。


 そこここで笑い声が響き、聞き取れはしないが、人の会話する声が賑やかに響いていた。


 それが、いつの間にか遠ざかって行き、気がつけば、彼は光のない空間に立っていた。


 背後では、ザワザワと木の枝が風になびく音がしていて、湿った草のような、少し青臭いにおいが鼻をかすめた。


 男の胸の鼓動が急に激しく打ち始めた。

会社へ戻るはずだった。いつも仕事で通っている道だ、確かにその道を辿っていたはずなのに、なぜ、こんな見知らぬ場所にいるのか。


 目の前には、見上げる程に大きな、両開きの扉があった。闇のせいで全体像はわからなかったが、石造りのかなり大きな建物だと推察された。


 横の壁には、青白い炎が燃えていて、扉の複雑な装飾を照らしていた。獅子の頭と蛇と、鳥の翼が生えた獣が彫刻された紋章が、扉を護っていた。


 恐る恐る近づいてみると、ギギギギという重たくれる音がして、扉の片側が開いた。


 まさか扉が開くとは想像もしていなかった彼は、思わず数歩後ずさりしたが、中から出て来た背の高い男に、目を惹きつけられて立ち止まった。


 そこには、黒いタキシードをまとった壮年の男が、手に燭台を持って立っていた。

少し頬がこけ、痩せてはいたが、背筋が伸びて、姿勢の良い男だった。目つきは鋭いものの、わずかに微笑んでいたので、表情はやわらかく感じられた。


「いらっしゃいませ、迷い人のお方」

男はそう言うと、半歩下がって、客人を通すための通路を開けた。

「あの……」

彼が何と答えるべきか迷っていると、目の前の男はうやうやしくお辞儀をした。


「私は、このやかた家令スチュワードを勤めております。ここは、混沌の裂け目に落ちた迷い人を、一時保護するための館でございます」

「混沌の裂け目」

彼が聞き返すと、家令はうなずいて続けた。


「はい、この世には、たくさんの糸を束ねたように、複数の世界があると言われています。なにが原因かはわかりかねますが、まれにその糸がもつれて、世界が交差する事故が起こります。その時に、はじき出された生き物が、この混沌カオス領域にさまよい出てしまうと言われております」

「ほう、その迷い人が俺だと言うのか」

彼は、突拍子もない家令の話に首を傾げた。


「さようです。迷い人は一定の時間、およそ一日程度が過ぎると、自然に元に戻ると言われておりますが、実際にどうなのかは、体験したことのない私にはわかりません。ともかく、お戻りになるまでの間、この館でお休みください」


家令に促されて、男は館に足を踏み入れた。

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