誰ぞがための戦いか
ヘツポツ斎
第1話 燕人の復讐
西暦 385 年、初春。
いまだ戦火の爪痕を繕いきれずにある
対して長安城を守るよう布陣する軍勢には「
「
三人の大男が声を揃えて叫んだ言葉は、真ん中の男の代弁なのだろう。燕軍を率い、先頭に立つ美丈夫、慕容沖は、ぎり、と歯を食いしばると、こちらは自らの声にて、叫ぶ。
「戯言も甚だしい! 燕土を踏みにじり、燕人を引き裂いたは、他ならぬ
ただ一人の言葉、そのはずである。しかし軍すべてを飲み込み、慕容沖の後ろに従うひとりひとりに怒りと高揚とをもたらしゆく。
なるほど、あやういな。
あたりを見回し、
総大将の言葉に心動かされていないかと言えば、嘘になる。しかしそれよりも、なんの遮蔽物もなしに敵軍と向かい合い、誰もが牙でもむき出しにせんかとばかりの顔つきとなっているのが。誰しもが怒りと殺意にまみれ、自らの身を顧みようともせずにいるのが。
――死ぬぞ、初日は。盛大にな。
誰かがそう呟いていたのを思い出す。
こうして対陣し、ようやく意味がわかった。馮安は見誤っていたのだ、燕人らの、苻堅に対する憎しみの深さを。
馬首はそのまま、身のみで振り返り、自らの後ろに続く郎党を見る。
まだしも、人であった。
ひとまず安堵する。
馮安は、どちらかといえば腰掛けである。身も心も燕に捧げたというよりは、行きがかり上軒先を借りている、とするのが近い。引き連れるのも似たような輩である。
これならば、と思う。
これならば、まだしも死にづらかろう。
慕容沖が腕を振り上げ、
まったく、
どうしてあなたさまは、老骨なんぞを、こうもしんどくこき使われるのですか。
○ ○ ○
「沖はな、あやういのだ」
その乱れたありさまをみて、誰がそれを慕容垂だと思うだろうか。
とは言え、旧来の燕土においては「慕容垂様を追い詰めた皇族が悪い」とも思われていた節があった。それは苻堅が華北をひとたびは一つにまとめ上げ、更には華南をも版図に収めんと野望を燃やした末に失敗した大戦――
身一つで敗走する苻堅を回収、長安へと送り届けたのち、慕容垂は民の声を受け、燕土に戻ることにした。他者よりは散々に謀反を疑われたが、それどころではない。慕容垂は燕土に渦巻く反苻堅の潮流、その激しさに危惧を抱いていた。決壊するがままにすれば、いかほど無秩序な死と破壊が吹き荒れるかもわかったものではない。それは予感というより、確信でもあった、という。
出立の、前夜。
内々を集めて催された、別離の宴でのことである。
「将軍。ひと目もございます、いま少しお慎みを――」
「うるさい! 家族を心配して何が悪い!」
一息のもとに酒盃を空けると、馮安の目前に突き出してくる。馮安はため息を一つ、そこになみなみと注ぐ。
注ぎ入れているのは、すでに酒ではない。水である。無論、気づいていないはずもあるまいが。
ぐいと飲み干し、わざとらしく長々と息を吐く。ちらと馮安に向けてくるまなざしに感謝の色がうかがえたのは、ただの気のせいなのか、どうか。
「この戦ばかにわかるのは、しょせん戦ごとについてでしかない。戦いにおいては、勝ち方、負け方がある。苻堅様は最悪の負け方をされた。ならば各地で苻堅様に押さえつけられた者たちが立ち上がるだろう。沖も例外ではない。あれは甥たちの中でも、その軍才は飛び抜けている。が、悲しいかな、宮暮らしに縛り付けられ、その上――」
ぐっ、と慕容垂が涙ぐみ、言葉に詰まる。
慕容沖、慕容垂の甥。なお父が先代の燕帝、
優れた知性と卓越した
以降苻堅よりの寵愛をほぼ独占し、諸后すら夜を持て余した、と話に聞いている。立場だけで言えば、厚遇、と言えぬこともない。だが、皇帝に連なる身、兄を支え、次代の燕を担わん、と心していた者にとっては、いかほどの屈辱であっただろうか。
「馮安どの。おれがそなたに頼む筋合いではない。それは重々承知している。だが、そなた以上に暴れ馬を御すのに長けた方を知らん。沖は苻堅様を襲うだろう。ある意味で、やむなきことかもしれん。あれの味わった屈辱は、おれなんぞでは到底受け止めきれるまい。だが、だからこそ、あれを燕の地に連れ帰ってきていただきたいのだ。あれに、改めて燕を導いてもらわねばならん」
言い終わるか否か、慕容垂はごつ、と地面に額を叩きつけた。とたんに周りからの目が、次々に馮安に突き刺さってくる。
――くそ、何だこれは。逃れようがないではないか。
無防備な慕容垂の後頭部を見下ろしながら、さりとて他のところに視線を飛ばすわけにもゆかない。心を落ち着けるため白いあごひげを二度、三度としごき、それから慕容垂の肩に手を置く。
「お顔をお上げくだされ、将軍。陛下がいまだ長安にとらわれておる以上、燕の
ぴくり、慕容垂の肩が動いた。
「慕容沖どのを助け、陛下を救い出す。そして慕容垂どのが鎮撫された燕土に還御頂き、燕国光復を成し遂げる。不肖の身に負うにはあまりにも重き任ではございますが、力の限りは尽くさせていただきましょう」
のそりと顔を上げた慕容垂の顔は、何はばかることなしに涙で濡れていた。すでに齢六十をこえ、数万もの輿望をたやすく背負う乱世の雄でありながらにして、これなのだ。
――かなわんな、まったく。
慕容垂は馮安の手を取ると、さらにそこから号泣してみせた。
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