第7話 馬蹄橋の七灯篭(中編)


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 僕の右腕は綺麗に真っ直ぐ伸びている。伸びて、その指先は此処のベンチ側の灯篭から数えて七番目にあたる灯篭を指している。それから順に親指を立て人差し指を伸ばし、中指、薬指、小指を順に折って、手をピストルの様に象る。

 それから半目を瞑る。瞑れば灯篭が視野の中でズレなく正確に止まる。

 それはまるで的の様に。

「――存外、あちらと此方、距離は近いですね」

 その言葉に老人が肩を揺らす。それが老人の過去の何かに触れたのか、僅かに時がずれて、今この瞬間この場に引き出されたかのような緩慢さと動作に見えた。

「調べたところでは」

 僕の言葉は狙いをすましている。それは何か?

 見える七番目の灯篭か。

 それとも誰かの心の内か。

「火野龍平があそこで肩を撃たれたのは、夜の九時を過ぎた…そう九時十五分ごろ。露店の人だかりと喧騒も自然に散会し始めた矢先でした」

 僕はふうと息を吐く。

「でもまだここにあった射的の露店はまだ沢山の人だかりで溢れていて、棚に飾られたおもちゃを狙う小さな狩人達はまだまだ帰る気配は無かった」 

 僕は右腕の手首に左腕を添える。それはまるでそこに本物のピストルがある様な重さを手首に感じたからだ。その重さとは何だろう。過去という時間を引きずるように背負ってきた人の心の重さだろうか。それとも唯、単にここに居ただろう狙撃手の欲望を感じからだろうか。

「…その頃、丁度或るおもちゃがこの射的の棚から落ちた。それはこの日一番の品物で、倒産した会社が造った模型プラモデル。それは或るテレビ番組で出ているロボットのプラモデル。当時の少年達の夢や希望を持ったロボット…だった」

「なんや?あんた見たことの様に言うやないか?」

 僕はふふと笑った。

「ええ、勿論見たわけではないですがね、調べたんですよ。仕入れ帳簿をね」

「帳簿やと?」

「ええ、ご存じないですか?テキヤとはいえ、組合があってちゃんと仕入れ簿があるんですよ。知らない筈はないでしょう?」

「……?」

 そこで僕は可笑しくなって腹の底から笑いだす。あまりの可笑しさに思わずピストルを手放そうとしている自分が居る。

「何が可笑しいんや?」

 老人が眼鏡の縁を抑えて僕の笑い声に食いかかる。僕は慌てて声を抑えた。そして押さえて、しかし愉快さを噛み殺しながら言った。

「いやいや、是はねぇ真っ赤な嘘でさぁ」

 どこの方言とも言わぬ口調で老人へ応える。

「嘘やと!!」

「ええ、嘘も嘘嘘。真っ赤な嘘」

「君はおちょくるんか!!儂を」

「ああでも、嘘ではなかった。だって昔の記事に書いてありましたもん」

 言って僕は顔だけを老人に向ける。

「明石の辰が警察官に言ったそうですから――この日一番のブツが落ちた時が丁度腕時計で九時半だったと。一番のブツを落とされた訳だからその時刻を忘れていない、不審に思うなら組合帳簿でも見たらいい、とね」

 老人が睨む様に僕を見ている。

「アハハ、違いますかね?それともそれはその場しのぎの嘘でしたか?」

 そして次の瞬間、

「バァン!」

 僕は大きな声で響く様に言った。それとほぼ同時に僕は弾が発射して僅かにピストルの銃口が上がる真似をして、それから老人に振り返った。

「その時ですよ、露店中の無数のコルク鉄砲の発射音に交じって本物のピストルから弾が発射されたのはね」


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「その時…やと?」

 老人が目を細める。僕の視線は老人を見ずに指先から放たれた弾道を追っている。それは一直線に伸びて行き、そしてやがて灯篭へと迫り、そこで

「…そうなんです」

 弾丸は灯篭の灯である蝋燭を消すと、やがてその場に立つ若者の肉体へとめり込んだ。

「つまり灯篭はですね」

 僕はピストルを構えたまま言った。

「暗闇の中で目標を定める為の目印であり…」

 僕はにやりとする。

「その目印を撃てば必ずその向こうの目的に当たる、つまり灯篭は、いや灯篭の蝋燭は相手と自分を繋ぐための正確な直線状の通過点だったんです。つまり灯篭の蝋燭を撃てば弾丸は必然的に正確に直線で飛び…目標に正確に当たる。謂わば闇夜での狙撃における明かり的の役割でもあったです」

 僕はそこで老人に振り替える。老人は何も言わず黙したままだ。

 黙した向こう側へ僕は語りかける。そこに居る誰かにでも伝えようとして。

「狙撃手と灯篭さえきちんと直線上であれば、つまりその直線上にいる火野龍平に着弾するのは間違いないことなんです。そしてそれは夜でなければならない。何故なら犯人はここで姿を見られる訳にはいかない。常に夜の闇に潜む悪魔であり続けなければならないのですから」

 僕は悪魔を探すように目をくるりと回して、やがて目を見開く。そこに悪魔を見つけた僕はやがて言った。

「田中竜二…」

 老人が目を細める。細めると杖先をコツコツと鳴らした。

「竜二は色きちがいじゃなく、あんたは悪魔でもあるというのか?」

「そうですね」

 言ってから僕は老人へ振り向く。その時僅かに川面を昇る風に頬が当たった。

「でもね、本当の悪魔をあなたは知ってるんじゃないですか?アカシノタツ、もう一つの通り名を持つ『証の竜』であるあなたは…違いますか?猪子部銀造さん」

「そのあだ名を君はどこで!?」

 老人が激しく杖を突いた。

「一体、何が言いたい??」

「つまり『双竜』ですよ」

 老人が激しく身体を動かす。動かして老人は杖の先を立てて、僕をまるで貫こうとでも言うような気迫で迫った。

「何を言いよるんじゃ!!オマェ」

「見たんですよ、仕方ないじゃないですかね」

 僕は縮れ毛のアフロを掻きながら言う。どこか申し訳なさそうに。

「…見た?見ただと?何をだ?えっ?一体何をだ?どこで、さぁ言ってみろ?」

「はい、それならば言います」

 僕は掻く手を止めた。

「実は僕は明石の雲竜寺で見たんですよ。戸川瀧子の墓の側にある双樹の落ち葉に埋もれていた小さな墓」

 老人がぎくりとして顔を上げた。

「寺に聞くとあれは代々、この地で死んだ無縁仏を供養する墓なんだそうです。そして無縁仏簿があるんですよ」

「…お前、見たんか?」

 老人が目を剥く。まるで真実を覗いたのを避難する目で。

「ええ、簡単でした。まぁ――僕の祖父が戦争当時ここら辺の空襲で焼け死んで、此処に埋葬されたので知りたいって言ったらら無縁仏簿を見せてくれて」

 頭を再びぼりぼりと音を立てて掻く。

「そこに書かれていた名前があってね…誰だと思います?」

「知らん!!」

「筈はありませんよ」

 言葉尻を取って老人へ言葉を投げる僕。

「書いてあったの『田中竜二』、遺骨として受け取りと書いてあり、見れば没年は東京オリンピックが開催された前年の1939年と在りました」

 僕は老人から目を話して灯篭に目を遣る。先程とは逆に奥から順に追ってゆく。やがて最後の灯篭へ目を遣りながら、僕は呟くように言った。

「一体、泉南の病院で過日亡くなった田中竜二は誰なんですか?それに…猪子部銀造にはテキヤ仲間内では二つの通り名があるんでしょう?生まれた土地の名と…」

 僕は振り返り、杖先を立てたまま動かない老人へと数歩近寄りながら、杖先を指で押すと僕は眉間に皺を寄せた。

「秘密を打ち明けられても決して明かさないという『証の竜』という意味深な通り名がね」


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 沈黙にも彩色があるとすれば、今の老人の沈黙は何色だろうか。見上げる空のような青かもしれないし、木々の色映える森の緑かもしれない。

 いや、と僕は思った。

 それは違う。

 どちらかと言えばそんな森の木々の奥深くに細む『闇』のようなそんな漆黒かもしれない。光届かぬその奥底に照らされた沈黙こそが今の老人の沈黙の『色』と言えるかもしれない。

 沈黙を押し破るように老人の唇が動いた。動きながら僅かだが濡れた舌先が見えた気がしたのは気のせいだろうか。

「…よくもまぁそこまで短期間で調べたもんだ」

 関心と満足と軽蔑、そうした感情が混ざり合った言葉と共に沈黙を奥へと押しやり、やがて老人は帽子の鍔先を上げて、顔を陽光の中に晒す。黒縁の眼鏡の奥で見えるのは年輪を経た老樹の険しさかもしれない。

「ほんなら…あんた、雲竜寺の向かいの中華そばやに行ったんやな?そこで『たこべぇ』に会(お)うた訳か、俺の別名を知っていると言うことはそこでテキヤ仲間だったあいつと会ったな?」

 僕は頭を掻く。それはとても恥ずかしく、照れていた。

「…ええ、まぁ。それはですね本当に偶然なんですよ。偶然雲竜寺へ行った時に腹がへりましてねぇ、ぐぅと腹が鳴りやんしょ?そうしたら面前に中華そば、それも手ごろな値段。それに中々の繁盛店、そうと見ればあっし一目散に駆け出しました」

 まるで江戸時代頃の東海道を旅する股旅者のような口調で僕は話す。この瞬間、僕は過去の時間を旅する股旅者。何も背負うもの無く飄々と風の中を生きる。それだけの何も知らぬ男がひょいと暖簾をくぐり席に座った。

 そこで荷物を下ろして僕は席に座った。それだけだった。

「そしたらね。店主が来て言うんですよ。あんたテキヤさんってね?」

 僕は声をかけられたときの様に顔を上げる。

「いいや違いますよ、そう言ったんですよ。そしたらね、向うが言うんです。

 ――いや、てっきり何となくその風を方で切る様な股旅みたいな身のこなし方がね、昔の俺の兄貴によく似ててね、そのどこか飄々としたところっていうか、何とも言えぬ人を食ったようなところがね」

 僕は肩を竦めた。

「いや、不思議じゃないですか。いきなり見も知らずの他人を見てそう言うなんて、でも僕は瞬時にこれは店主の客に対する愛嬌ある挨拶というか商売上の饒舌だと気付いた時、なんかピン!と来たんですよ。実はこの雲竜寺に来たのは勿論、戸川瀧子さんのことを調べたくて来たわけですが、ただもう一つ気になることが此処にはあってね。だから言ってみたんですよ。外れてもいいからと思って思い切って――そうですか?似てましたか?もしかしてその兄貴って『明石の辰』じゃないですか?って」

 老人は僅かに瞼を閉じた。

「それで?」

 僕に聞く。

「ええ、相手は驚きました。

 ――そう、その通りだ――と。それから言うんです。

 ――オメェは兄貴に知り合いかい?って

 僕は言いました。息子ですと。

 一瞬、深く何か視点が揺れ動く不思議な沈黙が店主の心の中で在ったたようですが、それを振り払うようにへぇと笑うと向こうが言います。

 ――だからか、兄貴に間違えてもしょうがない。

 彼は満面の笑みを浮かべて言います。


 ――俺は昔『たこべぇ』って言われて少年自分兄貴に可愛がられたんや。知ってるか?あんたの親父『証の竜』って言われた仲間内の秘密を絶対漏らさない男の中の男だってことを――

 僕はね、そこであれ?と思ったんです。不思議ですよね、僕は秘密を守る男なんて意味じゃ言っていない。でも彼は秘密を守る男って言う。意味の食いちがいも甚だしい。だから僕はもう一度言おうとした…んですが、止めて『そうです』といったんですよ。実は或る事実をここで引き出したくて」

「事実?」

 僕は頷く。

「そうです。その事実とはつまり僕が『たこべぇ』に言った次の言葉です――そっかぁ、じゃあここが不審火で焼けた雲竜寺の別邸だったんですね、そこにあなた方は家を建てられた訳だ――」


 ――不審火。


 その言葉で老人は再び立ち上がらんばかりに杖を激しく叩き鳴らした。

 陽の光に照らしだされていた老人の顔はまるで火にあたって溶けだした楼の様になってドロドロになり、激しく燃える不審火に照らし出された憤怒の夜叉のような貌つきになってゆくのが僕には見えた。


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 ――よくも、そこまで


 そんな老人の憤怒と言えない感情が塗りつぶされた言葉で出てきそうなほど唇を噛みしめている老人。

 その憤怒に少しでも何かを投げつけてより一層炎を燃え上がらせたいと考えている自分が居る。

 それはいつの瞬間か。

「禿げた頭を叩いて『たこべぇ』は僕に言いました。

 ――そう、良く知ってるねぇ。じゃそのお辺の下りを息子さんは聞いてるんかな?そう、この土地を斡旋してくれたのも、兄貴よ。ここは元々雲竜寺の別邸宅だったんだ。それが昭和の東京オリンピック前に不審火で燃えちまってな…、その空き地だったのをこの俺に貸してくれたんだ、それも土地代は取らずだぜ、何て気前のいい話なんだ――

 僕は話を聞きながらでも黙っていたんです、すると『たこべぇ』何か黙っている僕に急に我慢できなくなったのか言いました。

 ――ああ、すまねぇ、何ていうかまぁつまりあることに対する兄貴からの交換だったんだよ。まぁそれは言えねぇけどな」


 ――交換条件…?


「僕はね、瞬時に言いました。

 ――ああ、それなら親父から聞いたことありますよ。良いっすよ、知ってますから。

 僕はね、この時かまをかけたんです。まぁここはいっちょテキヤの息子になったつもりで『たこべぇ』に吹っ掛けた訳でさぁ。するとね、言うんです。彼が耳に口寄せて。

 ――ピストル強奪事件の時のアリバイを証明した証としてね、この土地を親父さんから借りたんだよ、知ってるよね、その事?

 僕はこの時こそ、ほくそ笑んだことは無かったですよ。内心これはしめしめと思いました。それでさも知ってるかのように僕は言いました。

 ――はい、非道い話だと親父が言うてました。

『たこべぇ』は頷いて言いました。

 ――確かに兄貴はここらへんで暴れまわって手のつけられねぇクソガキ時分があったが、唯犯罪が出来るような男じゃねぇ。だから俺は兄貴の為にアリバイを証明したんだ。実際あの時、俺達は山口の萩で仕事してたんだ。いや、そうしといたんだ、ひひひ、兄貴の為にねぇ。

『たこべぇ』は満面の顔で言いました。その彼を見て、僕はもう一つ聞いたんです。

 ――あのさぁ、「証の辰」って言うぐらいだから仲間内の誰かの秘密を今も守っているんだろうか、親父って」

 老人は唇を噛みしめている。それは其処から今でも手を伸ばして何かが出て来るのを抑えているのかもしれない。

「――ああ、どうかな。『ネズミの九』の駆け落ち先とか、『寅の万次』が神戸のヤクザ連中と喧嘩したした時の逃げ先場所とか、まぁあの頃は方々にヤクザなのなんだの危うい輩と喧嘩しては逃げたりする奴らが多くてなぁ…未だにそんなやつらは色んな所にひっそりと潜伏してるんだが、兄貴はそんな奴らを面倒見て金迄貸して逃亡させたり、中には逆に事件を起こした奴等の証人になったりしてるし、本当に義理堅くて男の中の男なのさ。本当に良くできた兄貴で、まるで普段の生活でもそうだったのかもしれんぇねぇな。やっぱ雲竜寺ってのは真言密教寺だからさ、そこが生家で育った訳だしな」

 しかしそこで『たこべぇ』は黙ったんです。

 だから僕は聞いたんですよ。

 ――何か…あるんですか?

 彼が言います。

 ――まぁ息子にも言えねぇことかもしれないが仲間内じゃ今でもある秘密を隠してるんじゃないかって言われてることがあってな…」


 ――秘密


 これこそ、僕が炎に投げつけたい言葉だった。

「――秘密だぜ、これはあんたが息子だしそれに、もう何十年も過ぎたことだからいうけどな、あくまで噂だぜ、噂――

 僕は身を乗り出しました。すると彼が言いました。

 ――自分の兄弟を殺した犯人を庇ってるんじゃないかって」


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 ぼうと燃え上がる音が聞こえた気がした。それはもしかすると、老人のこころの中で未だに燻り続ける不審火が大きく火の粉を上げて燃え上がった音かもしれない。

「勿論、僕は『たこべぇ』にそれを知ってるなんか言いません。唯。ぽかぁんとしていたんですよ?分かります?こんなことあるのかなと?僕はね、ちょっとした劇団の練習の合間を見て、電車に乗り明石まで来た。唯、それだけなのに、何故、これほどまでの多くの情報を一度に拾えるのか…それもピンポイントに…まるで時間という扉を塞いでいた強力なボンドが経年劣化して剥がれ落ちて行く…まるで時間の重さに耐えられず、落ちて…」

「煩い(うるさい)!!うるさい!!」

 老人がけたたましく叫ぶ。誰もいない南河内の奥深い石造りの橋に並ぶ七つの灯篭に老人の声が反響する。

「何やというんや、オマェ!!ほんまに何をそんなに調べよるんや。何を好き好んでそんなに深入りしよる?何がお前に得をさせる?何が…!!」

「性分なんでさぁ」

 僕は相手の言葉の間を切る。いや正確には息の間を切る、と言った方が良いかもしれない。

 息を継ごうと肺に空気を入れた瞬間。相手の先を抑える。それで相手の肺を空気一杯に満たして、膨らんだままにしてしまう。相手は唯河豚のように膨らんで何もできない。

「性分なんですよ。どこか執拗に何事かを追い求めてしまう。少しでも埃なんかがあったらそれを箒で払わなきゃ気が済まない。そんな性分なんですよ。でもね、そうそう…」

 僕は河豚に言う。

「こんなにピンポイントに明石の雲竜寺とか、向かいの中華そば屋とかまるで狙ったように行けるなんて可笑しいに決まってる。ええ、そう思うでしょう。そうそれはその通りですよ。何故ならば僕には情報提供者がいるんですから」

「東珠子やろが!!」

「いいえ」

 僕は間一髪入れず言う。

「何?!」

 老人は般若の様そうで河豚の眼差しで睨む。

「ちゃいますよ」

「誰や!!」

 僕は般若に言う。

「誰って言っても…分かりませんか?このあなたの一連のサークルの中で誰ならば一番このことを知っているのが誰かと考えればあなたたでも分かる筈でしょう?猪子部さん」

 老人は般若の眉毛を動かして首を動かした。思案して、思案してその先に誰かが浮かんだのか、老人は凄い形相で僕を見た。まるで不審火の青白い炎が遂に紅蓮の炎になった瞬間を見届けた眼で。

「…ある筈がない!!」

 そう、それは最も不可能な『解』なのだ。

 だから老人は言った。

「あいつは、あいつはお前に語れない!」

 僕は至極当然に頷く。そうそれが一般的な常識的な『解』なのだから。

「そうでしょうか?」

 僕は毅然という。

「猪子部さん、僕は言いましたよね。本当の『悪魔』をあなたは知っている筈だと。そうそうもう一つ『たこべぇ』が息子を演じる僕に言ったんですよ。

 ――親父さんは元気かい?ここ三十年会ってないし、まぁここには近寄ってないからなってね

 だから僕は写真を見せてやったんですよ。そしたらね、開口一番、こいつは違うだろう?て言いました。でもね、是は僕の親父ですって何回も言ったんですがね『たこべぇ』 はついぞ首を振らず、言うんですよ

 ――言いたくはないが、親父さんは年とってもこんな俳優になりそうな美青年じゃない。確かにハンサムだったがどちらかっていうとこれは銀造兄貴の弟に似てるって」


 ――弟


 老人はこの時、まさに地獄の業火に焼かれた。そう、まさにその一言。


 ――これは弟。


「そう、何を隠そう僕が『たこべぇ』に見せたのは病院で入院している「田中竜二」の写真です。あとそれからあなたが言った通り…『語れない』というその一言」

 老人はまじりとも動かない。

「あれは長年彼が生きる為に貫き通した演技ですよ、彼自身は…聾唖者なんかじゃない。それこそ兄への恐怖に支配されて生まれた『悪魔』なんです」

 僕の言葉を聞いた時、老人は立ち上がりそして僕に振り返った。般若の様相のままで自分の想像を超える存在『悪魔』に出会った衝撃とは本当にこれほどまでとは僕は予想だにしなかった。

 そして僕は言ったのだ。

「そう、『双竜』とはあなたの弟達、つまり竜二と竜一です。そしてあなたは戸川瀧子の腹から生まれた三つ子の一番上の兄。違いますか?」

 僕は続ける。

「僕の情報提供者、それこそ病院に居る『田中竜二』いや、それは『田中竜一』です。彼は遂に自分の人生の最後に於いて、僕に吐き出すように話し出したんですよ。彼はね、喋れないんじゃない」

「何だと?」

 衝撃を受けた老人は吹き飛ばされんばかりの眼鏡を抑えて言う。

「喋れる?だと!!」

 僕は『はい』とも『いいえ』ともいわない。

「僕の見立てが正しければ。あなたはピストル強奪事件もその後に続く連続婦女強姦事件、火野龍平襲撃事件も背負わせて――そう今は『ある人物』といいましょう、その人物を殺した。そう、不審火と称して家ごと焼き殺したんです。しかしながらですがその事件にはそれぞれの性格的傾斜が深くかかわっているです。一つは『竜一』そして『竜二』、そして最後はあなた、銀造さん、あなたが有している性癖的傾斜」

 僕は唇を拭いた。

「つまり弟竜一への深い男色愛ですよ」


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 僕は頭を掻いた。ボリボリと音を立てる。

「あまりにも端的に話をしすぎておると思いでしょうね。でもパズルが全て組合わさり、それを知っているあなたにはどこから切り出されても問題ないでしょう。僕は小説家じゃない。だから順序だてするのは嫌いですが、唯ここで全ての元凶とは無いかを整理したくなりました」

 老人は唾を飲む。皺だらけの喉もとが上下に動いた。自分が知らぬことをこの若者は知っている。その未知に対する恐れが喉を動かしたのかもしれない。

「僕があなたに言ったつまり遺伝性的な性癖、それはつまりあなたの母親である戸川瀧子から引き継がれているのです。彼女のある側面がやがてあなた方の肉体の内で血を吸うように花開いた。つまりですよ、戸川瀧子とは何者か、それを知らなければ、全ての順序を整理できないのです」

「何を知っている?」

 老人は若者に問いかける。それはどこか懇願するようにも見える。

「なぁ何をだ?」

 僕は顎に手を掛けた。そして言う。

「猪子部さん、貴方。女性の遺伝的な事って性癖だけじゃなく、その出産に関わることも遺伝するかって聞いたらどうこたえます?」

 老人はこの瞬間、今までに見たことが無い呆けた表情になった。まるで緊迫する将棋の一手として意外な手を打たれた棋士のように。

「…言っている意味が分からないが」

 それが老人の僕の問いかけに対する精一杯のだせる言葉だった。

「うん…でしょうね。ちょっと投げやりな問いでしたね」

 僕は頭を再び掻くと今度は首筋をぴしゃりと音を立てて叩いた。

「つまりですよ。妊娠、あ…受胎とでも言うのですが」

 僕は老人に顔を向けた。

「つまり多胎児という出産は連続で起きるかという事です」

 老人は僕の言葉に顔を上げた。皺だらけの表情の下で鈍く隠れていた研ぎ澄まされてる知性が動き出すのが、僕には分かった。僕はキーワードを投げただけだったが、それだけで老人は瞬時に何かを悟ったのだ。

 悟れば後は瞬時に意味を解くための頭脳が動き出す。それが鋭敏なものであればあるほど、その答えは明確になり、やがて自分が否定していた答えを探し出すことになるだろう。そしてそれを見つけた人は言う。


 ――そんなことはあり得ない、と。


「でしょうか?でもね。人間の生命力と言うのはその不思議を越えて数学的答えだけを持って来てはくれない。だからこそ、不思議なのです。そうつまり、あなたがた三人は三つ子、そして次にもう一つ双生児がいたとしたら?」

「そんなことは…あり得ん…ん」

 僕は老人の言葉を追う。

「そう。そう思うのが普通です。しかしですよ、猪子部銀造、田中竜二、竜一、そしてその下にもう一つ双子が居たら?まぁその双生児が互いに男女の双生児だとして」

「双子だと?」

「つまり、火野龍平ともうひとりの誰か…」

「お前ぇ、いや、オメェは一体何をどこまで知ってるんだ!!」

「つまり東珠子ですよ」

 この瞬間老人は卒倒したと言い。そうここで老人は奇声を発したのだ。まるで爆発するかのように発して言う。

「何だと、一体何が言いたい!!」

 僕は首筋を撫でながら囁く。

「…つまりですよ。これはですね。あなたが知らなくていいのです。勿論当然です。これはですね。全て根来動眼から出ているある意味悲劇なんだと僕は結論づけていて、猪子部さん、あなたはそうした責めを現代で一人受けなければならない、まるで時間が選んだ犠牲的供物のような存在と言えるのではないかと、僕は言いたいのです」


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 ――なんだ、なんだ

  何があいつに在って

  何が俺に足りないんだ?


  時間か?時間なら確かにあいつの方が俺より沢山あるだろう、若さとはそんなものだ。

  しかし過去には戻れねぇ

  俺の過去は俺だけが支配する絶対的王国の領土。誰も足を踏み入れる事なんぞでねぇんだ。

  俺は俺の人生を完全にした。

  何も失敗は無い。

  炎すらも自分の支配にいて、俺は今まさに老境に居るのに、

  なのに、なのに

  何故、こいつは

  こうも簡単に俺の世界を披見させるんだ。

  それも俺が知らない母親の事についてもだ!!

 


 ここはどこだ?

 ここは馬蹄橋、七つの灯篭が立つ大阪の南河内の僻地とも入れる山間地。この土地は根来動眼という修験者が開いた温泉地。今じゃこんなところを訪れる客何て今を持て余した余人だけだ。

 そう、此処は根来動眼開いた土地。若き頃シルクロードを旅した動眼が東の小邦に楼蘭の夜を起こす為に開いた遊郭楼だ。

 そう。俺達は此処に縁を持つ縁深き者だ。

 猪子部銀造

 東珠子

 火野龍平

 田中竜二

 そして俺の愛しき竜一


 …ああ、それが何か分からない天秤でいま揺れ動かされている。それもだ、目の前に立つ縮れ毛の背高い若者にだ。


 お前は何者だ?

 一体?


 老人は忌々し気に僕を見た。

「何を知っている?何故、動眼が関係する?儂が供物だと?何の為に?えっ?時代の犠牲と、オメェが言うが、何だというんだ?ええ??」

 僕は深く頷く。頷いて言う。

「…でしょうね?全く何のことかあなたには分からないのかもしれないですね。今非常に混乱しているでしょう?僕もですよ、最初未希ちゃん、いやある人からこの話を聞いた時、この事件は一つの時代のサークルで行われたものとして考えたんですよ。でもね、それではその事件の背景と仕組みは解けても、何故そうした事がここで必然的に発生したのかという事実が分からなかったんですよ」

「必然的事実だと?」

 老人が鎌首を上げる。まるで今の彼は蛇のように鋭い眼光を見せている。

「ええ、あなたは僕が田中竜一と言った時、驚いたでしょう?何故なら、それが『双竜』であるとあなたは理解していたし、それが極めつけのあなたのこの世に対する最大の詐術だった訳ですし、ですがね、その双竜はもう一つあるべきなんですよ。でなければこの土地に仕掛けれた戸川瀧子の呪いは解けないのですよ」

「呪い?だと」

 僕は頷く。

「あなたの御実家は雲竜寺という寺ですね。では何故戸川瀧子は何故そこに嫁ぐことができたのでしょう?」

 老人は眉間に深い皺を寄せる。寄せる皺には何が挟まるというのか?それは不明だという事実かもしれない。

「それは雲竜寺で動眼が修行をしたからですよ、修験道のね」

 眉間の皺が開かれる。不明が知古を知った様に。

「…動眼が?」

「まぁ知らなくてもいいのかもしれませんね、なんせ、古すぎる話だし、日露戦争もかくやと言う古い時代の頃です」

「何故、断定できる?」

「分かりませんか?」

 老人は押し黙る。老人は記憶を探る。探る先に何か見つけようと懸命になる。

「ここに張ったりは在りませんよ」 

 僕は頭を掻いた。掻いて指を掻き鳴らす。相手に十分な時間を与える。しかしながら老人はどうやら不明の谷底に落ちて這いあがれない様子だった。

 僕は手を差し伸べる時間が来たと感じた。

「…あなたはある種の事に対しては高い主注力と頭脳をお持ちの様ですが、しかしながら身近な事には全く頭が働かないようですね。まるで灯台下暗しですね」

 僕は笑って老人に言った。

「簡単じゃないですか、この先の根来にある修験寺Xの末寺は、明石の雲竜寺でしょう?そうなれば答えは至極簡単」

 老人は歯を剝き出しで言う。

「そんなことは分かっとるわ!!。分からんのは何故動眼と戸川瀧子が雲竜寺で関連するんかがわからんのだ!!」

「簡単ですよ」

「何?」

「つまり戸川瀧子は動眼の娘で、中国の奉天で生まれた。そして動眼を追って日本に来て、やがて雲竜寺のあなたの御実家、猪子部家に輿入れした、動眼の口添えで」

 老人は不意に手を口元にやった。まるでそこから出て来る驚きを抑え込むように。

「……ほんま…か?」

 僕は首筋を叩く。

「ほんまかどうかも、あなたは何も母親の事を知らないのですね。実の母親の事を」

 僕は嗤う。

「不思議だ、不思議だ。実にあなたは不思議だ、精神の構造においても。僕がはじめにあなた言ったこと覚えていますか?――あなたは血縁間で伝播していく何かがあるというお考えはお持ちですか?と言ったことを」

 老人は眦を動かさず僕を見ている。

「僕はね、この言葉に大きな謎を含めていたんです。それはですね、性的趣向のみならず妊娠における受胎性、それから精神的破壊性等、それらは全てを含んで僕は問いました。あなたは性的趣向性については興味を持って答えた。なぜならばそれがあなたの人生そのものを覆う天幕のような物で、それが故にあなたの人生は出来ているからです。だけど、受胎性や精神的破壊性については答えなかった。これらもまたあなた方に付きまとうものなんですよ」

 僕は話を続ける。

「それらの全ては動眼から出て娘の戸川瀧子に受けつがれた。それはあなた方自身にそれぞれ受け継がれていくのですが、残念ながらそれらは、血が分けられた為か濃度の濃さが生じたんでしょうね」

 僕は指を五本立てる。それそれに誰が誰かは僕には分かっている。

「まぁついでに言えばあなたもご自身が御実家の家とは 血の繋がりが無いことは御存じだったでしょうね?だからこそ、若い時分はかなり暴れまわった。だがあなたは不思議に一人いる弟、竜一は溺愛した。いや溺愛したというレベルじゃない、話すことができない弟を自分の生的趣向の相手にした。彼はね、喋れないんじゃない、喋ろうとしなかった。それはあなたからの呪縛に耐える為にね、その方が竜一は生きやすかった。多くの秘密を抱えることができた、つまり『証の竜』として」

 僕は言う。

「戸川瀧子とはなんという深い呪いをこの地に産み落としたのだろう」

 僕の言葉に振り向く影が見えた。


 ――だからこそ


 僕は言う。


「戸川瀧子について話しましょう」



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「動眼という男は根来の修験寺Xに居たのは事実ですし、僕も言って記録を覗きましたよ。――性すこぶるよく、声も程よく呪を唱えても朗々として、まさに天地震わす。また地脈に通じ、良く質を捉える――とありました。そして――やがて自らの真言完成の為に彼の地に向かう。事後彼の地で真言を納めた後、犬鳴山に坐し、娘を得てやがて還俗す。この短い文の中に僕が動眼という人物の性格を探さなければならないのですが、しかしこれは記録とは少ない。だがこの一文『娘を得て』とあります。これが何を意味するのか?」

 僕は動眼について書かれた門人帳をなぞった時の様に空をなぞる。

「この時迄ですがね、まだ僕は戸川瀧子と言うのは物語の脇役であって、あくまでも「ピストル強奪事件」やその後の「婦女暴行事件」には饂飩の薬味としての存在でしかなかったのに、突如閃光が閃いたんです。あっこれはもしかして、戸川瀧子の事じゃないかと、そうすれば何故五人の子供を産んだのかというのも腑に落ちたんです。そうなんですよ、そうなんですよ…つまりあなた達五人、猪子部銀造、田中竜一、竜二の三つ子、そして東珠子と火野龍平の双生児、これらがここに集められた意味こそが全ての事件の因果の諸端なんです」

 僕はええぃ!!と言うと印を切った。まるで呪いを切るように。

「仮定しましょうか?彼女は奉天で生まれて父親の跡を追って日本に来た。そこでですね、ここに来た。そしてこの山上で爛爛と輝く楼閣を見たでしょう。それからこの土地は誰のものかと言えば、それは動眼のものである、ではこの場所は誰が継ぐべきであるか?そう、上屋も下屋も全てですよ。そうこの土地は誰のものであるのか、誰が所有するべきか?結論は一つ、それは娘である私だ、そう思うのが不思議だ。だが、調べてみればこの土地は山上の東家、そして温泉街は田中家、火野家といくつかがそれぞれ所有して反映している。これでは動眼の開いた土地は分断され、自分のものにはならない。ではどうすればこの土地を自分のものにすべきか、戸川瀧子は考えた。それは秘密裏に行われるべきだと。動眼はこの地に居て山上に居を構えているが、子は居ない。もしかしたらこの頃には動眼と明石の雲竜寺との間では戸川瀧子と雲竜寺の跡継ぎとの結婚が決まっていたかもしれない。そうなれば――自分は好機を失う、そう考えれば、何をすべきか。修験の世界に子宝を得る呪法があれば、授かるものも授かるだろう、何せ、父親の動眼は修験者なのだ…」 

 僕は歩き出して一つの灯篭を撫でる。灯篭は綺麗に掃除されている。それは近くこの山上の『東夜楼蘭(あずまやろうらん)』で観劇が行われるために地域の人々が清掃をしたためだ。その劇に僕は役者として出るのだ。しかしながら今は未だ老人の前でまるで探偵の様に調べたことを話している。

 不思議だというしかない。

「若い頃の東珠子の美しさはこの辺りでも口に上るほどだった。それを想像すれば母親の戸川瀧子を推し量ると彼女もまた美しかったでしょうし、それにあなたならよくわかる筈でしょう?竜一、竜二共に母親譲りの美貌だった為に、共に美しい魔青年と言われるぐらいだったのですからね、勿論、三つ子であるあなた自身もね」

 僕は軽く咳をして、老人へ振り返る。

「つまり彼女はですね、種を宿したんです。雲竜寺の家と田中家、火野家に繋がりが持てるそれぞれの子種をね。それぞれの父親が誰だったか、いやひょっとすると関係なくても良かったのかもしれない…唯の駒のように動けば。そして生まれた子の内二人をこの馬蹄橋のそれぞれ田中家、火野家に送り子んだ。ただ唯一の誤算は多胎児出産が二度続いた事、つまり動眼の験の強さが出てしまったことにあるんです。それが次の時代にあなたたちへの事件へとつながったんです。わかりますか、あなた猪子部銀造さん」

 僕は間を置いて力強く言った。

「いや田中竜一さん、あなたですよ」



(39)


「儂が田中竜一?」

「ええ」

 僕は頷く。

 老人はあまりにも可笑しくなったのか笑い出す。笑いが止まらない。本当に愉快だという様に。

「一体、君は、いやオマェは何を言うんだ?ええ、此処迄話した全てが辻褄合わんではないか?話がてんででたらめだ」

 老人は杖を立てて立ち上がった。

「…しかしながら面白い話やった。バス代出して聞きに来たかいがあったちゅうもんや」

 それで老人は背を向けた。

「まぁ、田中さん。お母様の呪い知りたくはないですか?」

 その言葉に老人は立ち止まった。

「呪いですよ。簡単には解けないがあなただけが唯一解くことができる」

 そこで言葉無く、老人は振り返る。

「あなただけですよ」

 僕は念を押す。

「殺人、ピストル強盗、強姦、あらゆるこの世の苦悶を愉しんだあなたなら、出来るでしょう?」

 僕は続ける。

「ピストルの弾が放たれたあの時、東珠子と火野龍平はあそこで何を話したのか?知りたくありませんか??何故あなたが田中竜一ではなく猪子部銀造として生きられたか知りたくありませんか?沢山の何故を様々なことを知りたくないですか?」

「それが呪いとどう関係あるんや?」

「戸川瀧子はね、当初この地を得て、田中竜一へと受け継がれることで呪いを完成させようとしたんです。その呪いの完成はあなた自身が受け継いでいるのだけどどういう偶然か、あるでサイコロの出目の様に運命が戸川瀧子の思わぬところで転がり、在ろうことか息子である田中竜一は表の顔は『明石の辰』として生き、また同時に『証の竜』としても生きた。それは長年の兄の狂気に耐え続けたあなたは精神が引き押したことで、そう、精神の内面にあなたは自分を護る為に強い二面性を得てしまった。それは完全にあなたはふたつの人格を得てしまった、いやもしかしたらそれ以上の結果として多重人格を得たのかもしれない。記憶は飛び散り、そうあなたは銀造としてありすぎる為に母の事さえ知らないでいる。

 あなた僕が先程言った――ある人物を殺し、それからその死体を焼いた。焼いて遺骨にして田中竜二という無縁仏として埋葬した。その人物の死体は永遠に出てこないように、その土地を他人に貸して家を建てさせた。まさに明晰な犯罪だ。あなたは言った。自分はここで生まれ育ったと…そりゃそうでしょう。あなたは此処で育った竜二の性格と記憶を有しているんですから、その竜二と竜一が偶に交代するかのように明石とここを行き来していたのは誰にも分からなかった。似ている三つ子なんだから。そして銀造である自分は家の事そんなに知らないんですよ。当たり前です、暴れ者である銀造には誰も語ることは無かった。つまりあなたがその性格と記憶を持つ時は皆無なのです。いやそれ程完璧に、あなたは自分の中で入れ替わることができた、それは或る時は竜二、或る時は竜一。僕はね、『たこべぇ』に在った時に分かったんですよ。このからくりに。僕が猪子部銀造に語りかけたのは彼に対して語りかけているのであって、あなたではない」

「あなたにではないだと?」

「そうです。つまりそれは此処に銀造の性格を宿した竜一にです。いまあなたは僕の前に居る。今、あなたは誰としてここにますか?」

 老人は黙ったまま何も言わぬ。

「あなたは肉体としては竜一でありながら銀造として、そして明石ではあなたは竜一として、そう二十性格、いやもしかしたらあなたは多重性格を有して、時には銀造、竜一を演じたのかもしれない。違いますか?」

 僕はそこで大きく息を吸った。そして言った。

「あなたはまるで肉体の器だけを持って生まれて来て完成された悪魔だ。時に銀造、時に竜二、そして竜一になる。だが僕は言わなければならない、あなたが焼死させた人物、それは正にあなた自身でしょうあなたは田中竜一なんだ。その名を忘れてはいけない。さぁ顔を出してください。田中竜一さん、あなたの本当の貌を!!」

 

(40)


 南河内の奥を吹く風は潮を含んではいない。少し行けば大阪湾ではあるが、それでもこの一帯を吹く夜風はあくまで山肌をなぞる風で在り続けている。

 東珠子は馬蹄橋の稲荷神社側の灯篭側に立っている。スカートのポケットには火野龍平の手紙がある。


 ――今夜、夜九時。

 貴方を稲荷側の七灯篭にて待つ。


 腕時計を灯篭に翳す。翳せば揺らめく灯篭の灯で時刻が見えた。

 それは丁度、九時。

 珠子がそう思った時、側ににじる様な音がした。彼女は顔を上げた。上げると灯篭の灯に揺らめく様に映る男が見えた。無論、珠子はその人物を知っている。だから名を呼んだ。

「龍平君」

 火野君とは言わなかった。彼とは幼馴染だ。自分の記憶が分かる年頃には既に彼は側にいた。勿論、もう一人居る。

 珠子はその人物を思い出したのか、自分の唇を指で自然に撫でた。その人物の触れた温かさを思い出したのだ。目の前にいる龍平とは異なる接吻、まるで悪魔が魂を吸い尽くそうとでもいうのか蕩ける様な口づけ。目の前にいる龍平のような誠実な口づけではない、まるで本当に悪魔のような人の魂を蕩かす様な口づけ…。

「珠子ちゃん」

 珠子の夜想を引き剥ぐように火野龍平は彼女に言った。それから彼はもう一度小声で周囲を憚るように言った。

「珠ちゃん…」

 だが僅かにその声は僅かに震えていた。

 珠子は思った。まだ彼等の周りには橋向の露店から流れて稲荷道を行く人々が居たる。今夜は夜が長いのかもしれない。だから彼は声が小声になり震えたのだろう。

(存外、小心なのかもしれない)

 珠子は龍平を見て思った。

(そんな小心でオリンピックの候補として大丈夫だろうか)

 むしろ…、

 と、思う。

(自分の唇を奪ったあちらの方がこちらより心根は大胆で行動的かもしれない)

 なんせ、無理矢理自分の唇を奪ったのだ。むしろその心根の大胆さは犯罪すら辞さない大胆さともいえる。

 だが、珠子は勘違いしていたのかもしれない。灯篭の灯に慣れて来た珠子の瞳に映った龍平は、何処か病身のような青白さだったからだ。 

 まるで本当の病人の様に。

 珠子は此処に呼び出された理由が分かっている。それは過日の稲荷での接吻の事だろう、と。自分は今、目の前に立つ龍平の恋人なのだ。その恋人である珠子の接吻を龍平は目前で目撃したのだ。確かに珠子が不意を突かれた事故だと言っても、龍平は許せなかったに違いない。だからこそ、今夜ここに呼び出し、謝罪をさせようとしたに違いない。

 だが、である。

 龍平はただ茫然とするように立ち尽くしまま、何事も言わない。謂わずに、灯篭の側に立っている。それから灯篭の前で動かない。まるで彫像のように。

 異変に気付いた珠子は龍平に言った。

「どうしたの龍平君…」

 珠子の言葉に龍平は呆然としたまま目が虚ろだった。

 とてもオリンピック選手として肉体を鍛えて走るギリシャ神話の勇者のような若々しい輝きは龍平には無く、何か地獄の底にでも落ちそうな自分を必死で吊るされた蜘蛛糸で僅かにこの世界で止まろうとする意識だけの器のように珠子には見えた。

 だが珠子は強く言う。頬を打つような強さで。

「何、暇つぶしで呼び出したの?」

 それに龍平は一瞬我に返った。返ると龍平は強く手を握りしめた。まるでその拳に自分の強い意志を逃さないために。

「…珠子ちゃん、俺、君とはこれから先は出来ない」


 ――これから先は出来ない


 珠子は目を細めた。それが若者達の中でどんな意味を持つのか、いや恋人同士の中でどのような意味を持つのか。

 推し量らないとする人が居ても、分からぬことは無い明瞭な答え。性の開花する蕾が肉体の内に密かに咲きだすこの時期にある――これから先。肉体の交わりはいつの頃に訪れるか、若者の滾る血の中で。

 しかし龍平の言葉それを永遠に断絶する響きがあった。

 その響きを発したものは何なのか。

 龍平は首を振った。

 苦悶の表情で。

 彼は今夢魔の世界に居るのかもしれない。だからあんな呆けた表情だったと、後で珠子は思ったのだ。

 龍平をそう言わせた苦悶ともいえる夢魔とは何か。

「――だって、僕達は…」

 龍平は目を見開いた。

「兄妹なんだ…」


(41)


 日中の太陽の熱を含む夜風が撫でる頬は、あまりにもその言葉は残酷で冷たい言葉だった。だからそれを聞いた東珠子は思わず頬に触れてその冷たさを指で掬わなければならない程、その言葉の響きに脳の奥底でふらつく自分の精神があった。

 眉間に寄せる皺に東珠子は、どこかもしやという懸念があった。それは祖父である動眼から聞いたことがあるのだ。それは何気ない瞬間、ふとした呟きだった。

 祖父の声が鼓膜奥で蘇る。

「双樹の木は双樹しか生まない。それが輪廻なのだ、だが生まれ落ちた種が互いに似るかどうかはわからんのが人なのだ。植物とは異なるのだよ」

 祖父に自分の実父母を尋ねた時だ。長じて自分には他の幼馴染たちの様に父母が居ないことに気づいた。その時、祖父は自分を見て言った。

「珠子、何も人は親が居なければいけないという事ではない。何よりも大事なのは引き継がれる世代で生きるこそが大事なのだ」

 そして言う。

「この地にもお前と同じ世代が何人もいるだろう、それらがいずれももしかするとお前の夫になるものが現れるかもしれぬ。だがな…兄妹とは夫婦になれぬ」


 ――兄妹とは夫婦になれぬ


 この祖父の言葉がこの時の幼い珠子の脳裏にこびりついて、やがて彼女はその言葉を自分に染み付かせて生きて来た。祖父は修験者だ。それも力がある。それはこの地の地脈を探し、この山林一帯を殷賑の地に変えたほどだ。

 だから笑って無下には出来ない。

 珠子は心に秘めた。

 もしあるとすれば、自分にその時が訪れるのではないかという強い予感と、だが、杞憂に終わることもあるという気持ちも同時に秘めながら。

「珠ちゃん…」

 龍平は唇を震わせ名を呼んだ。

「…僕は恐ろしい、何て恐ろしいことをしでかそうとしたんだ!!」

 それからポケットから紙を取り出した。それを珠子に押し付ける。

「見てよ!!これを!!」

 珠子は押し付けられた紙を広げた。それは白い紙で紙片が丁寧におられていたが、時代が経ているのか黄ばんでいた。珠子は紙を広げた。中を見れば文字が見えた。それを彼女は灯篭の灯に翳す。

 そこには綺麗な文字が見えた。

 珠子には瞬時に女の筆跡であると判った。分かると珠子は文字を読んだ。それは全て平仮名で流れる様な筆の筆跡で三行に書かれ、最後は引きちぎられるように破れていた。


 ――ててさま

  りゅうへい、たまこはおなじはらのこにて、

 なんびとにもさとられぬよう、よろしゅうに


 珠子はこの筆跡を見て震えた。

 ててさまとは?

 動眼の事か?

 珠子は震えないではいられない。

 これは自分が今まで知らぬ母の手で書かれたものであったということをにわかには信じられぬが、ただ動眼の言葉がある。もしあの時の予感に従えば、もしこれが母の言葉であれば、まさか自分をこれほど呪わせるものであろうかとは面影なき母に珠子は顔を引きつらせて、叫びそうになった。

 特に最後の一行、


 ――よろしゅうに


 まるで観劇でも見た人がご近所の知人に挨拶でもするかのような軽薄な言葉。

 だがその心根は夜叉か般若か。


 ――いや、鬼か


「龍平君」

 珠子は恋人に言う。いや今は血の分けた兄か弟かという分からぬ若者に。

「これをどこで?」

 食いかかるような珠子の視線に龍平は手を広げる。

「僕のバッグだ。練習着をいれたバッグを開いた時だ。その中に封書と写真が共に同封されてあったんだ」

「写真?」

 珠子の疑問に龍平は頷く。

「そう、その写真は僕が生まれた時の写真だと思う。赤子を抱いた女の人が写っていたんだから。きっとそれが母…」

(母…?)

 それではそれがもしこれが事実であれば私の母。

「龍平君は母親を知ってるの?」

 龍平は首を振る。

「…いや、でも」

「でも?似ているんだ」

「似ている?」

 珠子の睫毛が震えて龍平に詰め寄る。

「どういうこと?」

「…この前、湯湯治に来ていた婦人が居たんだ。どうも親父とは…何かの知り合いの様で…でも知り合い方が普通じゃないんだ、それは子供じゃない僕にも分かる。まるで何かそのぉ…恋人みたいな…いや、男と女みたいな…それが写真の人だった気がする。一瞬だけど、僕と目が合ったと時、何か不思議な温かさがあったんだ。そしてその人とその写真の人が似てるんだよ!!その写真はその人が男の子と女の子を抱えている写真だった。だからきっと…あれは。そうなれば僕と君はこの文の通り…」

「その写真はどこに?」

「ごめんよ、今ここには持ってきてないんだよ!!」

「何よ!!!馬鹿!!そんな悪戯を信じるなんて」

「悪戯かどうかわからない。でもまた持ってくるよ。それで君のお祖父さんに聞こうじゃないか」

「馬鹿馬鹿馬鹿!!」

 ありったけの罵声を浴びさせて、珠子は龍平を思わず叩こうと手を挙げた。

「…意気地なし、こんな悪戯で呼び出して!!」

 珠子が言葉を発した時、龍平は珠子の手を避ける様に灯篭側に立って頭を抱えた。

 その瞬間だった。

 突然、何かがぱっと弾け飛び、珠子の顔が血飛沫で染まったのだった。


(42)

 

 根来動眼とは、人々がいう名である。自分は生来名が無い者だと思ってる。いや、自分はそう思っていたと言ってもいい。

 神仏の棲む雑密の世界に生きて、空海が感じ得た真言曼荼羅の世界で生涯生きることを自分の本願としていた。

 だが…

 やはり人間が持つ業と言うのは闇が深いのかもしれない。

 山野の闇に自分の肉体を潜め、自分の中に潜む生気を全て浄化させこの世界の天地万象と融合した肉体であったと自分を自負しても、遥かシルクロードの世界から繋がるこの東方浄土の世界に自分はこともあろうに、種を残した。

 それも砂漠に住む女の腹に。

 何という罪深みことか、女犯を禁じ自らを天地万象の一つと化したところでも、自らの内に残る『欲』を打ち捨てることができなかった。

 人間の初源より続く、それは脈々と流れてゆく生命の繋ぎで宿命であろう。

 もし自分を僅かでも慰めることができるのであれば、それは決して『淫』でなく、まるで打ち捨てられた霊魂を慰める深き『愛』だった。

 俺は、深く女を愛した。

 それこそ遥か楼蘭の地で砂漠の砂吹く世界の曼荼羅の中の御仏であったのだ。それこそが『愛』の中心であり、そこで俺は『種』を残した。

 だが名を名乗るとはどういう事か。それは父であることがこの娘には必要なのだ。そう、遥か父の跡を追う様に追って来た娘の為に。

 だからこそ

 俺は自らの意思で捨てた名を名乗るのだ。そう、俺は今日から根来動眼ではなく、『東』を名乗のだ。

 そして山上の各楼は今日から『東夜楼蘭(あずまやろうらん)』として世間に喧伝させなければならない。

 一人娘に残すものが無い無道者の遺産として。


 それまでは雲竜寺へ置く。


 然らば、兄弟よ。

 頼む。


「――と、言う新しい事実をもし僕が雲竜寺で得ていて、ここで突然話したら、あなたは僕に足して有り余るぐらいの不満を抱えて爆発するかもしれませんね。なんせ、そんなことまで関与してなかったし、時代が下るにつれてこんなに全てが明るみになるなんて、誰だって思わないでしょうしね」

 老人は顔を伏せたまま杖を突いて椅子に腰かけている。

 僕は髪を掻きむしる。

「まぁ、それは僕一人だけじゃない。この情報は複数の人から提供されなければならないんです。しかしながら何故、今この時を持ってこうして露見するんでしょう」

 僕は首筋をぴしゃりと叩く。音に反応して、老人の背がピクリと反応した。

「…思うんですよね。人は輝く太陽が頭上衣ある時は黙して語らず、イソップ物語のキリギリスの様にこの世の夏を謳歌していきていきたい。自分だけが良ければいい、それだけでタップダンスを踊り続ける。でもね、秋が過ぎてやがて冬が来る。それは自分の死期が近いことを知る。そうなると一度人間の語らなかった口が開いてします。そう、あの世に約束は持っていけないし、守る必要もない。いくら責められようが、死人に口無し。それよりも、むしろこの世界に真実を残したい。自分の人生はまるでミレーの落ち葉拾いの世界の人々のように誠実に生きて落ち葉を拾った人の姿として真実を残したい。いやそれ以上に…」

 そこで僕はうつむいたままの老人に諭すように強く言う。

「悪魔を残したまま死ねるか、ってね」

 そこで老人が手を挙げて帽子を頭に押し込む。やがてゆっくりと顔を上げた。老人はそれから眼鏡を取るとそれをジャケットの上着ポケットに入れた。入れると眩しそうに空を見た。そして見て言った。

「…ああ、久しぶりの空だな。なんて青いんだ」

 その口調はどこか老人というより若々しい。僕はぞくりとした。

 何故ならば帽子の影から覗かせるその眼差しの奥底に見える僕の顔が歪んでいたからだ。

 いや、そうではないかもしれない。

 だが、しかしながらこの瞬間は確かに歪んでいたと思いたい。それ程、老人の顔を片方に大きく引く寄せられ、空から吊るされた釣り針に釣られるように嗤っていたからだ。

 そして言った。

「ああ、ごめんよ。兄貴が世話になったね。探偵君」


(43)



 朗らかな声音だった。

 清々しく、何の曇りもない声。

 この声の人物にどれ程の苦難が訪れようとも、きっとその人物の心の奥底まで響かないだろう。響かないのは幾つもの精神の壁が無数に合ってそれが反射して、やがて奥底までに響くのを邪魔するからで、それが故にもしかしたら人生でそこまでの苦難を感じ得たことが無いのかもしれない。

 だからこそ、この世の辛苦を舐めた重さが無い声なのかもしれない。

 田中竜一とは、 

 何者であろうか。

 僕はぞくりとした背筋に凍る冷たさを感じながら、目の前の老人に言った。

「…あなたは、誰です」

 老人は歪んだ顔に気づいたのか、手で片方の頬を押すと、やがて歯を鳴らす。それで幾分か、嫌今度は逆に左右対称均等になった端正整った表情になって、辺りを見回して僕に言う。

「ああ、何処かと思ったら此処は馬蹄橋か」

 言って指を出して灯篭を数える。

「…ひとつ、ふたぁつ、みっつぅ、よっつ、いつつ、むぅ、そして…ななつ」

 言うと最後の七つ目の灯篭に向かって、親指を立てて人差し指を突き出し、先程僕がしていたようにピストルの形を模すと、突然、バァン!と言った。

 その爆発音の声はとても幼児みていた。

 僕は老人の変わり様を見て内心驚いていた。これほどまで先程の人物と代わる者だろうか。

 つまり、多重人格者というものは。

「ちょっと…」

 僕は手を出して老人を呼んだ。だが老人は見向きもせず言う。

「…あの時、此処で火野龍平を撃ったのは僕さ、探偵さん」

「え?」

 僕は目を開く。

「竜二じゃない。竜一である僕が撃ったんだよ」

 それからこちらを凝視する。目の奥に炎が見えている。

「何でも知ってちゃ困るんだよね。まるで全てを知っているかのような態度は不遜、不遜極まりない」

 僕は呆然としている。

 老人が言う。

「まぁ君の推理じゃ、正攻法で竜二になるんだろうけどさ?でもさ、考えて見なよ。ピストルを一度も撃ったことが無い人間に、正確に例え灯篭の灯があったとしても狙いすまして撃てると思うかい?ハハハ、撃てるもんか?分かるだろう名探偵さん、今の僕の台詞で、賢い君ならわかるだろう?」

 僕は相手の言葉に頭の毛が総立ちそうになった。そう。それは或る事件における意味を意味しているからだ。 

 それに感づいた僕の表情を見ると満足そうに頷きながら、今度は手で模したピストルの銃口を僕に向けた。

「…そうさ、その後の婦女強姦事件は全て、僕が関わっているのさ。いやむしろ、兄貴の銀造はまぁ全ての責任を背負って焼死させてやった。まぁ最後に聾唖者の振りをしていた僕の声を聞いて冥途に行ったんだから、君が言う様に兄貴が僕は聾唖者だったというのは誤りだと指摘しとくよ」

 そして再び

 バァン!!と言った。

 それから睨みつける。これが老人なのかという若々しい貌で。

「あんまり、調子に乗ってるんじゃないよ。確かに母親の事は知らなくても、それでも僕の人生に何の変化も無いのだから」

 馬蹄橋に吹く風が縮れ毛に当たる。

 僕はこの時僅かに風で髪が揺れるのを感じるだけの余裕があった。理由を正確には説明できないが、唯この時僕は自分の抱える全てを問いただせる敵に出会えた興奮に包まれていたからかもしれない。

 だから僕の声は震えることなく、低く相手に届く様に言った。

「…じゃぁ、お母様の呪いとは何だったか?それは分かっていたのですか?」


(44)


「呪い…?」

 老人は、いや、田中竜一はその切れ長の瞼を動かす。視線が初めて動いて、それがやがてくるりと動くとピタリと止まった。

 そう、僕を見つめたまま。

「君は…」

 田中竜一は言う。

「先程から、しきりにそのことを兄貴に言っていたようだが?…それが一体何だというのかね、それが僕自身に深く関りあるのだとも?」

 声に緊張が張る。若しやすればだが、ひょっとすると、竜一は…

 僕は緊張の糸を引く。そう、優先権(イニシアティブ)を取るために。

「知りたくは無いと?」

 僕の言葉。

 それに視線を動かさない竜一。だが、その竜一の瞳に映る僕が揺れている。まるで灯篭の灯に揺れる夏の蜻蛉のように。

 灯に揺れる蜻蛉。それは呪術の言葉の様に天へと昇ろうとする言葉の群れかもしれない。

 遥か彼方の時、ダビデの地で天まで伸びた塔をバベルの塔と言った。天まで伸びようとする塔を見た神は、何をしたか?

 雷(いかずち)を落とし、人々の言葉が分からぬようにして世界へ四散させた。混迷こそが神の呪いなのだ。

 では、田中竜一に掛けられた母の呪いとは。

「戸川瀧子の狙いはこの涅槃輝く地の簒奪にあった。とすれば方法としてこの地に我が血の種を落とすことです。東家、田中家、火野家、ひょっとしたらその他の家々にも自分の血を送りこもうとしたかもしれない。それでやがて分散された父の財産を我が物に出来るでしょう。しかしですよ、人間はやがて鳥の様にツガイを見つけ、夫婦になるではないか?そう考えませんか?」

 竜一は黙して何も語らない。先程迄の饒舌が消え失せている。

 だが、と僕は思う。この沈黙はまやかしで、自分に掛けれられた呪いという物の正体をじっくりと愉しみながら聞いているかもしれない。

 それ程の心の余裕を僕は感じながら話を続ける。

「…つまり、それでは自分の企みは元の木阿弥になってしまう。他者への財の流失は嫌ですからね。だからこそ、…自分が成すことをふたつ考えた。一つは自分の生まれ落とした子等を娶らせる。そしてもう一つが…」

 僕は言い憚る。これはそれほどの人間としての不道徳的な重さがあった。

「つまり母が子の子を産むという事ですよ。つまり自分が溺愛する子のね」


(45)


 僕が言った言葉に反応するのは悪魔の猛き嗤い声。

 嘲笑ともとれるこの世の最大の不遜。


 ――ひゃっひゃっひゃっははははっはは!!


 この地の山林にある全ての土俗的精霊も神も全て嘲笑する不遜なる悪魔の王たる威厳ある嗤い。それは蠅の王(ベルゼバブ)の様な不遜。僕の鼓膜奥に響くのはそんな不遜な嗤い。

 だが、それは永遠には続かない。そうとも、僕は頭を掻いて悪魔に居直る。

「そう…それは間違いではないでしょう?違いますか?」

 暗黙裡、それに従い人は生きている。違わないか?

 お前は、答えを知っているのだろう?

 田中竜一。

 彼は背を曲げて笑っている。それは海老の様に。次の瞬発を発条るように。

 それは指差されて尚もまた不遜を忘れていない。

「君は…!!」 

 笑いながら腹を抑える。

「君は実に愉快だ。僕の同世代にも決して居ない存在だ」

 海老の様に背を曲げる老人を僕は見つめている。

「もし身近にいれば。もしも…いればだよ…!」

 そこで老人は一呼吸して息を吐いた。

「今の子等が言う『瞬殺』っやつだよ」

「出来ますかね?あなたが」

 この間こそ、相手の心の張り巡らされた幾つもの精神の壁が奥に響くの苦難だという思いを込めた僕の会心の一撃だ。この世の辛苦を舐めさえるべき精神的一撃。

「…何!!」

 この時、悪魔は初めて人間として動揺したかもしれない。今までの人生は完璧だったかもしれない。しかしながら、時代が下るにつれ自分達が知らないテクノロジーが、自分が抱えて消そうとした闇を照らし出そうとしている。過ぎ去った過去を新しい時代の光が照らす.。それは過ぎ去ろうとした亡霊には止めれない時間の摂理ではないか??

「母が自らの子を産む。それこそ最大の呪いと言っていでしょう。そして自らの子等の中でその誰かを選ぶとしたら、聾唖である子を選ぶとする。何故ならそれこそ永遠の秘密として「秘密」のまま「証の竜」たる所以としてまもれるだろうからですよ」

 僕の『解』は果たして悪魔に何をもたらすだろうか。

 そう化学反応(ケミストリー)を。


(46)


 僕の心の間を切り裂く言葉の刃。それは確実の悪魔が今まで感じたことのない不遜たる一撃だったにちがいない。思考も、思想も哲学もすべてを凍らせる刃の一撃。

 だからこそ悪魔は目を見開いたまままるで永久表土に閉じこめられた恐竜のまなざしで僕を見つめている。

 僕は言った。

「――だからこそ、あの手紙の意味をあなたは深く理解すべきだったのですよ。あたなが竜二をそそのかした時に使った手紙。そしてなぜそれが容易くも手にはいったのか。母は来ていたんですよ。ここに、そして噂で聞いたに違いない。東珠子と火野龍平が恋人同士だという事を。だから、こそ、この文があったんでしょう?父、動眼への手紙が田中竜二の手にね。何故これを僕が持っているかですって顔をしていますね。

 ああ、これは借りたのです。当人から。これだけは必要でしたからね。ええ、入院先の田中竜二に見せましたよ。そしたら驚くほど、精神が真っ直ぐになり、過去の事を話しだしましたよ。

 では読みましょう、この文を。


 ててさま

  りゅうへい、たまこはおなじはらのこにて、

 なんびとにもさとられぬよう、よろしゅうに」

 僕は続ける。

「あの火野龍平をピストルで襲った時、此処には二つの意思が働いていた。それはあなたと竜二、そしてもう一つは戸川瀧子の意思。戸川瀧子の意思とは、それは東珠子と火野龍平にはこの地を相続させてはならないという意思…理由はあるのです、あれは彼女にとって実は都合が悪いことでした。だからこそ…」

 僕は首を振る。

「彼女、戸川瀧子はより純度の高い呪いを仕掛けようとしていたんです…」

 僕は頭の髪の毛を掻きむしる。これはシェークスピアなんぞに掛ける様な戯曲じゃない。これこそ悪魔書く戯曲であろう。

「戸川瀧子の意味する本当の別れた枝葉を一つにすべきは…」      

 僕は渾身の一撃を放つ、それは永久表土を打ち砕く一撃。

「あなたと戸川瀧子の間に生まれた子に託すべきという呪いなんですよ!!」


(47)


 僕は言う。悪魔に息継ぎさぬように。

「――なんびとにもさとられぬよう、よろしゅうに…ここですよ!!ここはどういう意味か。なんびとにも悟られるように…ん、これは戸川瀧子がある事実を知った第三者に対する警告だったんです。それは誰に対する警告か!!分かりますか!!これは呪符なんですよ、来るべき悪魔からの守護を施した、違いますか?」

 僕は叫ぶ。

「田中さん!!」

 人生で受難を受けたことが無い者を幼子といって言いかもしれない。幼子の様な純真さが時に悪魔的になって現代に起こす犯罪を僕達は知っている。 

 無知たる純心が凶悪なる犯罪を生む。

 それは道徳の外にあり、痛みを知らないからだろう。

 だからこそ浅知恵にひたり、獣を追う漁師の心の痛みを知らない殺戮へと浸り社会を震撼させる。

 田中竜一。

 お前は時代の責任を負うべき供物であるのだ。

 それは君を生きのばらせてしまった社会の責任なのかもしれない。

 僕は言った。

「あなたは其処迄自分の未来を見通せたわけではないでしょう」

 髪を掻いて続ける。

「…教えて下さい。神戸であなた方が犯した犯罪のことを。そうすればこの地が誰のものであるのか、僕が教えますよ。泉南の病院に居る田中竜二さんはもう虫の息です。あなただけがこの土地に仕掛けられた母親の呪いを解くことができる。あなたはこの土地のどこに何を葬ったか…それを告白すべきです。それこそがあなたをお母さまからの呪縛から解放し、本当の平穏を手にできるのです。悪魔をあなたから取り除く最後のチャンスなんです」




(48)


 昭和何年だったっか。

 もう忘れた。

 ただ、あの夜も馬蹄橋の夏祭りの夜の様に、熱風が吹いていた。

 僕は夏が嫌いだ。何故嫌いか?

 それは夜が長いからだ。夜は全てを消す。それは人々の昼の顔の下に潜む欲望を抑え込んでいる理性の鏨を外すからだ。

 僕はうつぶせで尻に飛び散る物を撫でた。べトリとしてぬるりとする、それが何か。

 精液だ。

 では誰が僕の尻にぶちまけたのか、それは横で僕の背を撫でる男だ。鏡で見ればまるで瓜二つのもう一つの僕。いや、獣だ。獣、それじゃ足りない。そう害獣だ。この世の害獣だ。

 俺の兄は!!

「なぁ竜一」

 兄貴は銀造と言った。古めかしい名前は母がつけたのか、父がつけたのか、僕には分からない。だが、そんなことはどうでもいい。恐らく瓜二つの僕等を社会が、いや母親が分かるように名をつけただけだろう。一方は派手に、片方は隠れる様に地味に。

 僕の名は竜一。言葉を喋れない。いや喋れないのじゃない。幼い頃、兄に抗した仕打ちに対する精神的な衝撃が僕の喉から声を奪った。だが喉を動かせば、声は出るかもしれない。しかしそれは不要だ。もし不用意に声でもだそうもんなら、僕は兄に何をされるだろう。僕は兄貴の秘密を知りすぎている。この界隈一帯で既にテキヤとして名を売り出し、暴れ者とならしている兄だ、俺に仕向けたことを消す為に殺すぐらいは容易いかもしれない。実際、兄と喧嘩なんぞした奴は半殺しになったやつもいると聞いている。

 それが僕の兄だ。そして僕は夜になればそんな兄の性の相手になり下がった憐れな存在。兄弟とはいえ、夜の僕の立場は野獣の下に組み敷かれる――つまり夜のおんななのだ。

「なぁ、竜一。本物のおんなを抱きたくないか?」

 僕は目をぎょろりと動かす。

 瓜二つの眼差しの奥で兄は部屋の一点を見つめている。まるで夜の闇中で染みを見つけようとも謂わんばかりに。その眼差しは計算された何かを見つけようとしている。 

「見ろよ」

 兄が何かを僕に差し出す。闇夜に浮かぶ白い物。それは便箋だった。

「竜二からだ」

 僕は手紙を出す。

 ――竜二、それは僕等の下の弟。


 竜二は此処にはいない。事情は知らないが、どうも大阪の河内のどこかにいると母からは聞いている。しかし、それは秘密裏に。だから相手先も知らないらしい。それがどうしたかはわからない。しかし僕等は面識がある。それはごくまれにだが母親の手で会うのだ。唯それだけの兄弟関係だが、それがまた僕らを密にさせる。やはり、この世界で血を分けたものというのは尊いのかもしれない。

 母には秘密裏が多い。謎が多い親なのだ。母がどこから来た人物かも僕達兄弟は知らない。いや知らないと言うか、それについては誰かの意思で固く閉ざされている。だがそんな謎を引いても、母は酷く美しい。それを僕は知っている。兄はどうか?昔、僕に言ったことは覚えている。


 ――俺のひとり慰めのネタにしたことがあるぜ、竜一。


 だけじゃない。その後がぞっとした。

「母親とやってみてぇな」

 流石に獣(けだもの)と心で罵った。

「読めねぇか、こんな暗闇じゃ」

 言ってから兄貴が声を潜めて耳もとで囁く。

「――ちっ、あいつ…自分とこに来た手伝いの年増とやったらしい」

 熱を帯びた獣の息吹を僕の耳元に吹きかけると、兄が僕に跨った。僕は首を振り向こうとする。だが、竜二の手紙に興奮した兄は、僕の股の隙間に差し込む。

「…許さねぇ、俺より先に本物を知るなんてよ!!それだじゃねぇ、あいつそれから気狂いみたいに手あたり次第女を見つけて誘い、いや時には森や人影のない家屋に無理矢理連れ込んでやりまくってると書いてやがる!!」

 兄が動く。荒い息が僕の背に当たる。

「ここは寺だ。女は来ねぇ。畜生、畜生め!!いいか、良く聞け!!竜一、俺がお前を抱くのは…おめぇが不思議と…おふくろに似てるからだ!!オメェの何と言えねぇ、下を向く仕草とかがよう、似てんだ!!そうさ。オメェはおふくろの代わりよ。それだけだ。喋れねぇオメェは秘密を守って生きるんだ!!俺が話す全てを黙して語らずな!!」

 兄の動きが止まった。

 それで僕は再びドロリとしたと何かに汚された。


(49)


「竜一」

 僕を呼ぶ声がした。

 振り返れば着物を着た母が居た。母は箒を持ち、双樹の木の下で手招いている。僕から見たら母は美しい。その美しさは其処らに居る同じ世代とは違うというか、何というか、危うさを内面に秘め、それが香気となっている、そんな特別さがあるのだ。子である自分ですらどきりとする時がある。

 それが今だ。僕は呼ばれて母の側に行く。側に立つと母は僕を見る。それから言った。

「あんたはやっぱり、あの銀造とは違う。銀造という名は奉天からこちらに来るときの船で会った賭博師まがいの男の名。生まれてすぐに乳を与えた時に、乳首を乱暴に噛むもんだから、酷い名をつけてやった。それに比べれば竜一も竜二も優しいものよ。でもね、竜一。竜二は駄目。あいつも偶にあちらで顔を見る度、卑下した多淫な顔になる。まぁ誰かに似て淫蕩の気質を引き継ぎすぎたのよ」

 僕は手帳を出すと手早く速記して、母に見せた。


 ――竜二には母親だと言ってないの?

「恥ずかしくて言えないわよ。あの色気違いには。この前もあの付近に顔を出したら、噂してたわ。なんでもあの辺の女に手を出してしょうがないって。だからこの前なんか他人の振りして…あの子に…」

 それからふっふっふっと手を口に掛けて嗤う。

「今日は…銀造、居ないわね?」

 言って母が僕の頬に手を遣る。

「竜一、あなた幾つになった?」

 僕は指を動かす。

 人差し指を立て、それから指を開き、また人差し指を立てる。

「…そう、十六」

 それを見た母の目が雨に濡れたカエルのようになった。それから箒を双樹の木に立てると、僕の手を繋ぐ。

「表情は子供でも躰は大人とはこの事ね。来なさい、竜一」

 母は僕の手を繋いで歩いてゆく。その先には仏具が居れてある蔵が見える。

「…あなたに決めた」

 母はそう言うと蔵の錠を外すと僕を蔵の中に放り込む。僕は蔵の床に手を着くと母を振り返る。錠が音を立てず、閉じられた。

「幼い頃、言葉もしゃべれず乳だけ飲んでいた愛しい子。竜一、あなたがやっぱり全ての条件に合うのよ」

 僕は手を翳した。その先に迫りくる母の顔が見えた。それはまるで夜叉のように般若の様だった。


(50)


 来年は東京オリンピックだというのに、まだ夜は昏かった。いや、そう見えた。だからこそ、路上で倒れておる振りをしている僕には、その素振りがはっきりと警察官には分からなかったのだろう。

 神戸行きの電車線路沿いの市街地。そこの電柱に取り付けられたガス灯の様なほのかなオレンジの淡い色の下で蹲る僕が芝居をしているなんぞ、昏い世界では分からない。

 だからこそ、警察官は足早に駆けよって来たんだ。

 声をかけて来た。

「君!!大丈夫か?」

 若い声だ。

 未来がある筈だと思うと心が湿る。だが、もう停められない。時間というか、凶暴な狩人が背に迫るのを。

「あっ!!」

 鈍い音が舌。僕は立ちあがる。立ち上がれば、入れ替わるように膝から崩れ落ちる警察官が見えた。

 その背後の闇から太い鉄棒を手にした野獣が居る。野獣は警察官を何度か激しく殴打して、悶絶するのを確かめると悶絶する人間の腰を探る。

 目当てのものを見つけると、僕に目配せする。僕は大きなレンチを取り出して野獣に渡した。

 パチリ、

 パチリと音がする。

 それは付近を急ぎ駆け抜けた電車の音にも動じない手練れだった。

 まるでそれだけが全ての様だ。そう暗闇の染みすら見つめるあの眼差し。

「取れたぜ、竜一」 

 いうや野獣はピストルを手に取る。

「こいつだ。こいつで…」 

 そこまで言うと兄貴は首を振る。

「ずらかるぞ」

 言って走り出す。僕も後に続いて走り出す。そう、暗闇の中へ。

 僕は思う。

 時代は東京オリンピックが来るというのに、未だ昏いのだと。



 まず、最初に押し入ったのは住宅街だった。其処に居る人妻を兄は狙った。野獣の限りとはまさにこの事かもしれない。兄は次々にまるで飢えた獣が、空腹を満たすかのように、次々と夜の闇に紛れて獲物を見つけては襲いかかった。ピストルを出して脅し、後は自分の欲望が果てる迄、まるで畜生道に落ちた餓鬼の様に、襲い続けた。

 だが、最後の獲物に一滴残らず果たした後だった。僕に呟いた。

「――やっぱ、満たされねぇ…、俺にはやっぱりアレしかねぇか…」

 そう言うと兄は僕に振り向いた。

「竜一、竜二が呼んでる。どうも自分が欲したい女がいるようだが、色男が居て邪魔らしい。近く馬蹄橋付近で仕事がある、それに合わせて手伝ってやるつもりだ」

 言うや、ピストルを投げる。

 それを受け取る。ずしりとした重さが舌。

「おい、竜二」

 言って目配せる。

「撃ちな、こいつを」

 僕は驚いた。

「こいつの体の中に弾を残すんだ。警察官の仕業にするために」


 僕は目を丸くする。


 ――こいつ、本物の獣か?


「やるんだ」

 息も絶え絶えの女の前で何という詭弁なんだ。僕は震えて何もできない。すると兄が僕の背後に回り、ピストルごと手を握った。

「躊躇なんか、すんじゃねぇ!!竜一」

 その声と共にピストルから弾丸が飛び出した。


(51)


 新聞の紙面は警察官のピストル強奪事件とその後の婦女連続暴行事件で一面を飾っていた。

 見れば警察官は一命をとりとめ、また僕が放った弾丸は女には当たらず、しかしながら床に残り、それが警察官に対する嫌疑の的になった。つまり偽装としての扱いとして。

 僕は境内で新聞を読んでいた。兄は今朝から居ない。どこに行ったのか、僕は知らない。できればこのまま戻って来なければいいのにと内心思う自分が居る。


 ――獣め!!


 自分の精神がモゾりと動く。いや、獣はもう一人居る。

 そう、その冷たい指先が僕の頬を後ろから撫でた。振り替えればそこに母が居た。一体どれほどの獣たちに僕は捧げられるのか。まるで悪魔にでも捧げられた供物なのか、この僕の肉体は。

「新聞?」

 母が言う。

 僕はこの場から立ち上がろうとする。だが手を離さない。僕は振り返った。振り返ると僕は目を見開いた。

 何故なそこに兄が居たからだ。

 どこかに出かけた兄がいつ居たのか背後で見ている。それに気づいた母が振り返る。

「…あら?銀造、居たの?」

「居たさ」 

 兄が目を細める。危険な視線。

「竜一と何してやがる?」

 母に兄が問うた。

「何か?だって」

 そこで笑う。

「…そうね、あんたが竜一にしてることとおなじこと」

 最後の言葉は危険な引き金だった。その瞬間、兄の満面は朱に染まった。

「何だと!!」

「銀造」

 強い制圧の在る母の言葉が兄の頬を横にはたく。見ればまるで幼い頃、悪さを見つけられて頬を張られたと時の兄の顔がみえた。

「知らないとおもってるのかい」

 母がにじり寄る。

「あんたは一番、獣らしい血が濃い。あっちに行くんだ。お前は品が無い、だから資格は無い。いずれお前はお前らしい因果で果てるだろう」

 母の凄みの在る言葉が耳を着く。

 僕は母の事については詳しくないが、聞いているのは父が動眼という修験者だということだった。ここはその父が修行に努めた根来の末寺だという事だ。その父の手引きで母はこの寺に嫁に来た。だが事実として僕等はその父の子ではない。それについては、薄々気づかれているかもしれないが、それでもこのことは公然の前では当然の秘密とされている。

 その念の籠る母の言葉は流石の兄も何も言えない。唯、そこで後ろを振り返るだけだった。

 振り返る兄が僕に言う。

「竜一。明日、行くぞ。馬蹄橋に」

 言うや、一拍置いて再び言った。

「その前に話がある。別宅に来い」

「私とのあとでね」

 母が兄に追い打ちをかける様に言った。その時、僕には兄の全身が総毛立つのが見えた。

「ほら、来なさい。竜一」

 僕の手を母が握る。僕はそれを振りほどく様にするが、兄はその気配すら忌々しいのか、足早にこの場を去って行った。

 僕はそんな兄の背を目で追いながら、夜叉とも般若と言えぬ母に連れ去られ、再び蔵の中に閉じ込められた。



(52)

 

 雲竜寺の別邸は向かいの通りに在った。ここは遠方から来る檀家や本山からの修行者や聖を迎えるための宿所になっている。

 僕は陽が暮れた頃、闇に紛れて出向いた。そこに兄が居るからだ。

 僕は靴を脱ぎ、障子を開けた。開けるとそこに旅装したテキヤ姿の兄が居た。その兄が顔を上げて僕を見た。

 それはあの闇夜の中で染み一つ探そうとするあの鋭い眼光だった。それが僕に向けられている。まるで僕の中の染みを見つけようとでもするかのように。

 兄は低い声で言った。

「竜一…」

 それからドスを利かすように言った。

「てめぇいつからだ?」

 その意味を僕は嫌というほど分かっている。だから沈黙だけで答える。

「竜一、よくもぬけぬけとこの俺を差し置いて!!」


 ――差し置いて?

 

 僕は何を聞いたというのか、兄の言葉から。

「あいつは俺のものなんだ」

「いいか竜一。俺はピストルを奪った後、直ぐに山口の萩に行ったようにアリバイを立てて偽装したが、念のために隠れた。おめぇはその時に母親とできたんじゃねえのか?俺はなぁ、あれだけ暴虐の限りをしたが、満たされなかった。それはなぁ…おふくろがやっぱり、一番欲しいと思ったんだ。だからその後、いずれかの時にとでも思っていたのに、それがお前に先こされるとはなぁ!!」

 言って走りくるや僕の腹を蹴飛ばした。畳の上に悶絶する僕を見下げて、兄はピストルを放り出した。

「…竜一、連れてこい。あいつを。ここにだ!!」

 ピストルが見える。それに兄が目配せる。

「あの時、俺が女どもにしたように。こいつで脅してくるんだ。それから、いいか竜一…」

 その瞬間兄の目の奥で青白い炎が燃え上がった。

「お前はここで俺とおふくろの交わりを見てるんだ、いいな。それこそお前が抱える一番の秘密になるだろうよ」

 何とも優しい口調だ。まるで僕を愛でている。

 だが、何というふてぶてしさだ。


 ――僕はこの時、憎悪した。この兄を。

 いや銀造というこの人格全てを。

 のぞりという音が鼓膜奥でした。確かにそんな音だった。それは僕の精神を突き破り、何かが動き出した。常識という世界にあるモラルが吹き飛ばされて、僕の中で何かが現れた。

 それは何か?

 この憎悪ともに引き出された僕の中の別の人格。

 これは 

 これは…


 兄ではないか。

 兄だ。 

 そう、銀造。

 僕は顔を上げた。そこに瓜二つの自分が居る。それも銀造。

 僕は思った。


 ――二人も居るまいよ、母を犯す奴なんて


 何とも危険な憎悪が喉奥に湧き上がる。

 僕はピストルを手に取った。すると直ぐに構えた。

 兄の額に向けて。

 それを見た銀造が吼える。

「竜一!!テメェ」

 僕は首を振る。喉奥に詰まった憎悪が声となった。

「僕は竜一じゃない。銀造だ。そして母さんはお前のものじゃない。この俺のものだ」

「オメェ…声が!!」

 驚愕する兄の貌が引きつられた瞬間引き金を引いて、俺は目前で狼狽する銀造の額を弾丸で貫いた。

 後はだ、ゆっくり倒れ落ちた兄の衣類を剥ぎとり、それに身構えるとポケットから煙草をばら蒔き、マッチを擦った。それで襖や障子に火を点けて、兄の躰に焼け始めたものをかぶせて火を移した。

 肉の焦げる臭いがしたが、気にはならなかった。その時思ったのは、まぁ後で火災跡から骨が見つかればどうするかだが、それは田中竜二として埋葬することと決めた。

 竜二は嫌とは嫌ないだろう。竜二は俺である銀造のいう事ならば。それにこの寺の連中は竜二なんて知らないし、元々ここは無縁仏の埋葬寺だ。何も心配ない。何処かの身なりの無い孤児の死体として処理すりゃいい。それに俺達は三つ子だ。世間がどれくらい知っているか知らないが、骨格にで比べられりゃ、誰にも分かるまい。

 それに俺は竜二に提案する。火野龍平とかいう奴は、こいつで俺が撃つ。そうすりゃ、奴のオリンピック選手だとかいう夢も消え失せ、やがて熟した柿を手にするように思うおんなが竜二の手の内に入るだろう。だから露店中に一時的にでも俺と入れ替わるんだと言う。なんせ俺達は貌が瓜二つな三つ子だ、服だけ変えりゃ周りにはわかりゃしない。それに見るがいい。

 俺はこうして兄の額を見事に撃ち抜いたんだ。これほどの射撃の腕も無いだろうから。

 そして俺は別邸を出て馬蹄橋へ向かった。

 そう、猪子部銀造として。

 

(53)


 馬蹄橋は突然鮮血まみれになった火野龍平の出現で喧噪の渦と化した。その人だかりの中に美しい女の姿が遠目に見えた。


 ――あれが、上屋の娘。東珠子か。

 

 俺はその姿を一瞥しただけで直ぐに天幕を捲り裏へと潜った。そこには先程迄の俺自身の仕事姿をした俺が居た。いや正確には竜二だ。

 俺は目配せすると竜二を連れて茂みの暗闇に移動した。そこでシャツを交換する。ズボンは互いに似た茶色のズボン。夏場は上着だけ交換すれば、それで終わりだ。俺はピストルを後ろのベルトに突っ込み、シャツを着替え終えた俺達は互いに、銀造、竜二に戻った。もし二人の違いを闇夜の中で見分けるとしたらピストルを持っているのが正真正銘の銀造、つまり俺という事だ。

 茂みから戻ると開口一番、竜二が言った。

「兄貴…バレねぇかな」

 暗闇で瓜二つのもう一つの俺が見る。俺は帽子を被ると目深くする。

「バレねぇさ…この事を知っている奴がベラベラしゃべらねぇ限りな」

 その時風が吹いた。それが互いに生まれた沈黙を運んで消えて行った。

「…そうだな、そうさぁバレねぇ」

 言うとひっひっと低い声を出して俺を見た。

「それよりも兄貴、すごい腕だな。兄貴なら、なんでもできると思っていたけど、あれ程の腕とはな。まるで撃ち馴れてるようだぜ」

「…竜二」

 俺は低くドスの聞いた声で言う。

「いいか、二度とこの事を言うんじゃねぇ。分かったな?」

 俺の言葉に汗が冷えたのか竜二が頬を撫でる。それから沈黙する。まるで気まずさを隠すかのように。しかしながら生来竜二はそうしただんまりの沈黙に耐えられない性質なのか、話題を切り出した。

「あのさ…兄貴。俺この前手紙に書いただろう」

「何をだ?」

 言ってから小声で言う。

「セックスだよ」

 俺は目を細める。

「それさぁ…すごくよかったぜ。まるで念願の恋が成就したようだ。ふらりとやってきた年増の女だけどさ。なんかさ、こう、妖のような危うい危険性というかさ…そんな雰囲気がある女でさ…」

 女の姿を思い出したのか、竜二が唾を飲みこんだ。唾液と共に何を飲み込んだのか、俺は想像する。

「温泉には湯湯治に来たみたいなんだが、何でも親父の古い知り合いみたいでさ。それだけじゃなく。東家にも関係あるのか…」

 そこで竜二は言葉を切ったが、再び切り出した綻びを縫うように唇を舐めた。

「…その年増女、俺とやったあとにさ、何でも東家の爺さんにわたしてくれと言って写真と手紙を渡したんだ。そう言うと後はその女、火野家に入り、やがて三日もしたらどこかに消えちまった」

 竜二は何かをポケットから取り出すと俺に見せた。

「こいつさ」

 俺はそれを奪う。奪うと闇夜に透かす。しかしまだ網膜には何も映らない。竜二の言葉が耳に聞こえる。

「寝てやった褒美として東家に使いに行ってくれといってさ、こいつを東家の爺さんにわたしてくれと言って渡したんだ。まぁこの手紙は兄貴に見せた通り――兄貴の指示通り龍平の練習着入れのバッグに入れたらまさに効果てきめんだった。それで俺はあいつらが今日、この手紙のことで話し合うのを知った。そしてこのざまだ!!他人様のものを利用して正に何とやらだ。流石兄貴だ。そう、それで兄貴、そいつは年増から一緒に預かった手紙と一緒に封筒に入っていた写真なのさ」

「写真だと?」

 そこで竜二が俺を見た。

「兄貴。俺は年二枚あった同じ写真の内一枚の是を手放せなかった。だってさ、こいつを見たら、あの時の年増を思い出して股間がさぁズキズキ疼くんだよ、あの時のセックスがわすれられなくてさぁ!!股間をしごきたくて仕方ないんだよ。分かるだろう??兄貴ならさぁ!!女の味を知ってる兄貴ならさぁ、俺の気持ちが!!射精感が堪らないんだよ!!俺!!だからさ、あれ以来、俺は女を見つけては色んな所に連れ込み、やりたい放題だ。それに不思議なんだよ、あれほどやりまくってるのに女なんてのも存外狡賢いのかな、誰も俺とセックスした何て言わねぇ、むしろ味を覚えた奴は俺を誘いやがるんだ」

 ひっひっひと首を回してへらへら笑う竜二。外は未だ火野龍平の為の喧騒が続いている。どこかで医者を呼ぶ声が俺の耳に聞こえた。 

 だが、俺はその網膜がやがて写真に写る何を捉えたと時、外の喧噪の声が聞こえなくなった。

 俺の網膜深くに映ったそれは…。

(こいつは!!)

 目を見開く俺。

 それは双子を抱える俺の母親、つまり、戸川瀧子の写真だったからだ。

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