沈黙に積雪

夢月七海


 運命は存在しない。

 普段はそう嘯く俺も、自分の人生を振り返った時、殺し屋になる道はすでに出来上がっていたのだろうと思ってしまう。


 それはそう、俺がジャンキーの母親の股から生まれた瞬間から、始まっていた。

 自分の父親は誰だか分からない。母親は、働いている様子は全く見えなかったが、恐らく娼婦だったので、父親はその客の一人だったのだろう。


 母親が、中絶をせずに俺を生んだ理由は分からない。俺を愛していたからとは到底思えないので、きっと病院代をケチったのだろう。

 ともかく、物心ついたころから、母親から母親らしいことはされなかった。ハグとか、キスとか。母乳を与えていたかどうかすら怪しい。


 俺が覚えている母親は、家中の物を倒しながらスキップしているか、壁に向かって怒鳴っているか、ヤクが切れて気怠そうにベッドに寝そべっているかの三つの姿だけだった。一年の殆ど家を空けていたため、当然のように、俺は外へ出て食べ物を探した。

 生まれた街も、アメリカ屈指のスラム街だったため、ゴミ箱を漁るガキなんて日常の風景だった。誰も俺のことなんて気にしていなかったため、自然の流れで、俺が万引きや置き引きをするようになる。


 しかし、街の大人は、自分の財産を脅かすガキには容赦なかった。俺は大分うまくやっていた方だが、時々失敗し、リンチに遭った。指を折られたことも一度や二度ではない。

 生きていくためには、力のある奴の庇護下に入るのが一番だ。そう考えた俺は、街中でたむろするチンピラの一団の懐に潜り込んだ。


 二十歳前後の「先輩」と呼ばれる男が、その一団のリーダーだった。一本の前歯が抜けているのを、誇るかのように良く笑う男だった。

 その一団の増減は激しかったが、最低でも十人の数はキープされていた。当時七歳の俺が飛び抜けて幼かったため、チンピラどもからは「チビ」と呼ばれていた。


 俺の仕事はパシリや見張りなど、多岐に渡ったが、一番回数をこなしたのは、スリだった。人一倍の手先の器用さとすばしっこさを利用して、間抜けな奴らの財布や携帯電話などを掠め取っていった。

 先輩をはじめとするチンピラどもは、俺のことを可愛がっていた。ただそれは、兄が弟に対するものとは違い、成果をあげてくれた部下に対する褒めだった。俺は、命令を果たせなかった奴らが「指導」されているのを何回も見かけたので、ああはなるまいと必死に動いた。


 時間は流れて、俺は十歳になっていた。同世代よりも背は高かったが、チンピラの一団の中で一番若いのは変わらないので、まだチビと呼ばれていた。

 金になることをしている時以外、チンピラどもは場末のダイナーでダラダラと過ごしていた。煙草やら酒やら薬やらで、皆がとろんとしている時、唯一素面の俺に、先輩が尋ねた。


「お前、シガーって殺し屋知ってるか?」


 俺は首を横に振った。裏社会で暮らしているとはいえ、俺たちはまだガキなので、殺し屋やマフィアとは縁がなかった。

 先輩はにやにやしながら、ショットグラスを仰いだ。


「この辺りを牛耳るマフィア専属の殺し屋だ。擦れ違い際に、ターゲットを殺すのが得意らしい。その時、安い煙草を落としていくのが特徴だとか」

シガー葉巻って名前なのに、シガレット煙草なんですね」

「シガレットの略なんだろ、シガーは」


 俺の疑問を詰まらなさそうにあしらって、先輩はキャビアを乗せたクラッカーをバリボリ嚙み砕く。


「で、本題なんだが」

「はい」

「シガーを殺してこい」

「……」


 予想外の先輩の命令に、俺は何も言い返せなかった。


「あいつは、よくカカっつう中華料理屋に出没するらしい」

「分かりました……。でも、なんで、殺すんですか?」

「さあ。俺も知り合いに頼まれたからな。お前みたいなチビ相手だったら、シガーも油断すると思われたんじゃないか?」


 他の席で、チンピラどもが馬鹿笑いをしている。それがうるさくて敵わなかった。

 一方先輩は、ソファの上でゆったりと構えながらも、目が笑っていない。以前に命令を達成出来なかったチンピラの姿が、今日は見えないことを思い返す。


 絶対に失敗出来ない。

 口の中に溜まった唾を、ゆっくり飲み込んだ。






   ▲






 カカという中華料理店は、スラム街の裏路地にひっそりと佇んでいた。油でほぼ黒ずんだ看板には、「KAKA」というローマ字と俺には読めない漢字が二つ並んでいる。

 二三度、偵察に中に入ってみた。店内の壁も油ぎっている。床など滑りそうなほどだ。しかし、値段の安さに反して、ラーメンやチャーハンの味は中々良かった。


 俺が、カカの見張りを初めて五日目に、シガーが来店した。路地の隙間からひっそりと観察してみたところ、シガーは三十代後半の男だった。上背のあるがっしりとした体格で、金髪に黒い瞳をしていたが、くたびれたコートに皺だらけのスラックスという、言われなければ殺し屋とは思えないほど気抜けした姿をしていた。

 カカのガラス戸の外側から、そっと中を窺う。シガーは、丁度ドアに背中を向ける位置のカウンター席に座っていた。これなら、入ってすぐに襲える。俺は、一世一代のチャンスに、武者震いがした。


 シガーは、七十代の汚れた白衣の店主に注文した。しばらく、店内になった新聞を読みながら時間を潰す。そして、出来上がったラーメンを受け取り、食べ始めた。大分通い慣れているのだろう、箸を使うことにも麺を啜ることにも慣れている様子だ。

 どんな人間でも、食事中が一番油断している。そう思った俺は、何気ない様子で店に入った。


 店主は、こちらを一瞥し、「いらっしゃい」と言っただけで、キッチンの作業に戻った。店主は客の顔を覚えるタイプだが、すでに来店経験のある俺に対して、警戒していない。

 一方、シガーは全く振り返りもしなかった。ラーメンを喰うのに集中している。全くもって、好都合だ。俺は、彼の背後に歩み寄る。


 ベルトの背中側に、ナイフを付けていた。どこにでも手の入るナイフだが、これで十分だと思っていた。硬く冷えた、柄を握りしめる。

 間合いに入った。鞘からナイフを引き抜き、シガーの心臓に狙いを定める。無駄な動きは一切ない。いつものスリの時よりも調子がいいと思ったくらいだった。


 しかし、刃がその背を突き刺すよりも早く、シガーが振り返った。目が合っただけなのに、指導されている時よりも強く、明確に、「殺される」と思った。

 ナイフを持つ俺の手を、シガーは掴んだ。大人と子供の差とは思えないほど、強烈な力で、手は全く動かせない。まるで、象を押しているようだった。


 せめてもの抵抗にと、俺はシガーを真正面から睨んだ。席に座ったままの彼は、じっと無表情に俺を見ていた。

 そして、空いている方の掌底で、俺の顎を突き上げた。下の歯が全て吹っ飛んだのではないかというほどの衝撃に、俺はナイフを取り落とした。


「ったく、落ち着いて飯も出来ないのか」


 掠れた声で、シガーは呟いた。俺は顎を抑えて、下を向いていたのでその顔は見えないが、完全に呆れているのは分かる。


「兄ちゃん、大丈夫か?」

「ああ、おやっさん。悪いね、騒がしくして。支払いは今度まとめてするから」

「まあ、あんただったら、ツケでもいいけど」


 店主とシガーは、そんなやり取りを交わしている。世間話のようなのんびり具合で、シガーに至っては、含み笑いもしている。

 俺は、それが余計に恐ろしかった。こんな襲撃、シガーにとっては日常茶飯事なのかと。


 シガーが俺の手を握ったまま、立ち上がり、中華料理店を出る頃にはもう、俺は観念していた。この失敗によって先輩たちに手痛く指導されるよりも、シガーによってサクッとやられてしまった方が、苦しくないのではないか? とまで考えていた。

 そんな予想と反して、シガーは町はずれに立つ、人が住んでいるのが奇跡的なくらいにおんぼろなアパートへ行った。その四〇五号室の鍵を開けて、俺を玄関に押し込んでから、やっと手を離した。


「オートミールしかないが、良いか?」

「……は?」

「そんな体で、俺を殺せると思ってんのか?」


 シガーに指摘されて、自分の手を見た。骨と皮だけの、本当に貧相な手だった。

 むすっと玄関先に突っ立っている俺をよそに、シガーはすぐ目の前のキッチンで、オートミールを深皿によそい、スプーンと一緒にダイニングテーブルに置いた。別に、無視しても構わなかったが、直前の言葉が気になって、俺は席に着いた。


「お前は隙が多いが、筋はいい」


 ひたすらにオートミールをむさぼる俺の目の前に座ったシガーが、腕を組んだまま言った。


「俺を殺したいんだろ?」


 口いっぱいにオートミールを頬張っていたので、無言で頷いた。

 シガーは、言葉とは裏腹の、凄惨さの欠片も無い笑顔で言う。


「それなら、ここで学べ。好きなだけ居てもいいから」






   ▲






 それから、俺とシガーの奇妙な共同生活が始まった。一応断っておくが、彼に心を許したわけではなく、どうせ帰っても失敗したからと指導されるなら、ここで奴を殺した方がいいと感じたからだった。

 だが、予想以上にシガーに隙は無かった。就寝、トイレ、風呂、どんな時も考慮せずに俺は彼に襲い掛かったが、あっさりと組み伏せられた。


「利き手ではない方向から狙ったのは良い。ただ、あんなに振りかざしたら、どうぞこの手を掴んでくださいと言っているようなもんだ」


 俺のナイフを取り上げた後、シガーは必ず体術や武器の使い方を教えてくれた。それも非常に丁寧で、以前俺にスリを教えたチンピラのように、暴力で覚えさせるなんてことはしなかった。

 シガーの部屋に居ついて、半月ほど経ってから、彼に俺はまだまだかないそうにないと理解した。それならば、奴の言う通り、体を作る準備もした方がいいと、出された食事を完食したり、用意された簡易ベッドで寝るようになったのも、そこ頃からだった。


「お前のこと、何と呼べばいい?」


 最初の襲撃から一月後、シガーは俺が多少なりとも心を許してくれたと思ったのか、やっとそう尋ねた。「名前は?」と言わなかったのは、本名は教えてもらえないと思ったからだろう。とはいえ、俺は母親からなんと呼ばれていたのかを知らなかったので、その尋ね方で良かった。

 その瞬間、俺は夕食を摂っていた。シガーがカカから持ち帰った、チャーハンと春巻きだった。一方、彼はすでに外食をしてきたようで、ウォッカのロック片手に例の安い煙草を吹かしていた。


「チビ」

「お前、言うほどチビじゃないだろ」

「じゃあ、適当に呼んでくれ」

「あー、赤毛、でもいいか?」

「本当に適当だな」


 俺は呆れた声で返したが、内心嬉しさが勝っていた。

 母親に似ている容姿の中で、自分の髪の毛だけが、どこの誰だか知れない父親譲りだった。今、あの瞬間の喜びを言葉に表すとしたら、母親の呪縛から解き放たれた、と言ったものだった。


 シガーは、殺しのテクニック以外にも、勉強を教えてくるようになった。「そんなの必要ない」と拒否されても、「馬鹿は足元掬われるぞ」と言われると、返す言葉もなかった。

 この時になって、俺はあやふやだった読み書きを身に着けることが出来た。他にも、計算や自然科学や歴史などを学んだ。勉強なんて退屈だと決めつけていた俺だったが、いざやってみると存外面白くて、口には出さなかったが勉強の時間が一番の楽しみになっていた。


 そんな風に、俺はシガーが教える全てを吸収していった。シガーの弟子のように見えるかもしれないが、心の中では、必ず俺が彼を殺すのだという気持ちを、忘れたことはなかった。

 シガーの方は、俺のことをどう思っているのかは分からなかった。彼はそっけないながらも、妙に優しかった。俺を後継者にしたいのかと考えたこともあったが、裏社会のことはあまり教えてくれなかったし、彼の組織の奴らに会わせたことも無かったので、違う気がした。


 気が付けば、俺がシガーの家に住み着いてから、四年が経っていた。すでに俺たちは、ふとした拍子に世間話をする仲にはなっていた。

 この頃から、銃の扱いもシガーから教わっていた。ただ、流石というべきなのか、彼は実弾を渡さず、殺傷力の殆ど無い玩具のような弾で、俺は的を当てる練習をしていた。


 そう言えば、丁度この時期に、俺は初恋を経験した。相手は、シガーの部屋の隣に引っ越してきた少女だった。

 一度も話したことがないので、名前どころか声も知らない。何十年も経っているため、顔と容姿も思い出せない。その代わり、印象だけは深く刻まれている。


 彼女を見たのは、何かの用事で、外へ出た時だった。隣の部屋に入ろうとしている少女がいると気付き、顔を向けたところで目が合った。

 俺よりもいくつか年上らしき少女は、こちらに対して一瞬微笑んでから、部屋に入っていった。ゴミ溜めに咲いた花のような可憐さに、俺は動けなくなってしまった。


 外出しようとしていたのも忘れて、俺はそろそろと室内に戻り、玄関のドアを閉めた。心臓が早鐘を撃ち、顔が火照ってくるのを感じた。

 俺を初めて見た人間は、大概汚らしいものを見るような目か、警戒心を剥き出しにした目を向けてくるので、あんなふうに微笑みかけられたのは初めてだった。彼女は深く愛されたに違いないと確信したと同時に、どこか悲しみの影もあり、その二面性に惹かれた部分もあった。


「隣り、いつの間にか引っ越してきたんだ?」


 帰ってきたシガーに何気ない調子で尋ねた。人の命を狙っている分際で、恋に落ちたなんて、知られたくなかったからだ。

 寝室で、スーツを脱ぎながら、シガーは「ああ、そうだな」と答えた。


「つい一昨日にな。大きな荷物は殆ど無く、着の身着のままやってきたようから、知らなかったのか。二人組らしい」

「二人も? 俺は少女の方を見かけたが」

「ああ、多分、俺もそっちしか見かけていない。一緒に住んでいるのは保護者だろう」


 その数日後、俺はアパートの駐車場から、家に入ろうとするその少女と同居人を見かけた。もう一人は、彼女と同じ年齢くらいの少年だった。彼女にぴったりと寄り添い、見張るように周りを見回している。

 彼の第一印象は、人殺しも出来る目をしている、だった。ただ、それは、生きるためならば自分の命を賭すシガーのようなそれとは違い、誰かを守るためならば自分の全てを投げ打てるような、騎士の目だった。


 あいつには敵わないと、俺は自分の失恋を感じ取った。もしも俺が、あの少女を守らなければならないという局面に遭った時、我が身可愛さが先立ってしまうだろうと考えたからだった。

 それ以降、この二人の姿を見かけることはなかったが、隣からの生活音は一月ほど聞こえていた。しかし、ある日、二人の部屋から何やら言い争う声が聞こえた後、翌日から部屋は静かになった。


 不審に思った大家が、その部屋に入ってみると、もぬけの殻だった。慌ててあちこちを調べると、これまでの家賃と挨拶も無しに出て行ったことを詫びる手紙が出てきたと、シガーから聞かされた。

 まさか、少年が少女を殺して、逃げたのではないかという想像をしてしまった。あの少年が、そんなことするわけがないとすぐに考え直す。この街に毒された自分に嫌気がさした。


 結局、大家も家賃を貰っているので、その二人の行方を調べようとはしなかった。俺も、街に出た時は二人の姿を探してみたが、ヒントらしきものも見つけられなかった。

 こんな街で留まり続けて、妙な事件などに巻き込まれるよりかはいいかと、前向きに思うようになった。その後、二人が現れて、去って行った二月の空を見上げる度に、俺は柄にもなく、二人の幸せを願うようになっていた。

























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