織姫と凶獣
京衛武百十
プロローグ
人間同士の出会いというものは、不思議なものだ。出会いによって多くの人間を不幸にすることもあれば、それで不幸になった人間が新たな出会いによって幸せを掴むこともある。親と子というのも、ある意味では出会いであるだろう。
そういう意味では、
しかし彼女の胎内に宿った命はとても強かったのかそれらはまるで功を奏さず、さすがに外見上も大きく変化してきてようやく周囲が気付き、半ば強制的に休学させる形で休ませた。もちろん彼女の両親は激怒し父親を探し出し慰謝料や養育費を支払わせる為に裁判まで起こして、相手の家庭も崩壊させた。
すると彼女も、強引で口煩い両親の下にいることを疎み、家出同然で友人宅を渡り歩く生活をした挙句に、友人宅で体調を崩し昏倒。切迫流産の危険があるということで緊急入院となり、そのまま病院で結人を産んだ。
そんな形で生まれた我が子を可愛いとは到底思えず、彼女は育児を放棄、病院側の再三の説得と児童相談所の介入によって渋々養育を始めるがやはり母性など目覚める気配さえ見せなかった。
退院後も両親の下には戻らず、出会い系サイトで知り合った男の下を渡り歩くという生活を続け、結人の世話など碌にせず遊び歩くこともあった。その間、児童相談所が再度介入、二度にわたって結人を保護するが、恩を売られるとか説教されるとかはまっぴら御免と、その度に強引に結人を連れ出し行方をくらましたりもした。
ここでいっそのこと結人を見捨てて施設にでも預けてしまえばまだ良かったかもしれないが、あらゆることあらゆる人間を信じられず敵視していた母親は、結人を理由に責められることが嫌で他人の目から隠そうとし始めたのだった。
が、相手は赤ん坊である。腹が減れば泣くし機嫌が悪くなればぐずるしで、隠し通せる筈もない。遂に母親は結人を黙らせようとして暴力を振るい始めたのだった。
確かに最初の数回は、ショックを受けたはずみで泣き止むことはあった。だがその半端な成功体験がこの愚かな母親の判断をさらに狂わせ、叩けば泣き止むという間違った認識を植え付けてしまったようだ。
無論、赤ん坊がそんなことで泣き止む訳がない。最初のうちに泣き止んだのはあくまでショックを受けて泣くことすら出来なくなっただけだ。それもすぐに通用しなくなり、叩けば叩くほど火がついたように泣き、それを泣き止まそうとしてさらに強く叩くという悪循環に陥っていた。
場合によってはその時点で命に係わる怪我を負ったりという危険性もあったのだが、それでも一歳に満たない赤ん坊だった結人は耐えた。それが彼の強さなのかただの悪運なのかは今となっては分からない。分かっているのは彼が生き延びたという事実だけだ。
その後も母親と結人は男の下を転々とし、もはや行政による支援すら届かぬ状態に陥っていたのであった。所在を把握されたくないという理由で児童手当すら申請せず、もちろん乳幼児健診にもいかず、最後に住民登録を行ったのは果たしてどこだったのか母親本人でさえ分からなくなっていた。
そんな中でも結人は生き抜き、二歳、三歳と年齢を重ねた。そして結人が五歳になった時、母親はある男と出会った。その男は全身に入れ墨を施し、耳も鼻もピアスだらけという、見るからにまっとうな生き方をしていないと分かる男だった。しかもその目はどぶのように濁り、自分より弱い者と見れば徹底的にいたぶらないと気が済まないという、まさに絵に描いたような<クズ>である。
男は、結人の母親を特殊浴場、いわゆるソープランドで働かせ、自分はその金で遊び呆けるという生活をしていた。そのことで彼女が反抗的な態度を見せると殴る蹴るの暴力を振るい、抵抗する意志さえ奪い取って従わせた。そしてその暴力は結人にも向けられ、このころには既に他人を睨み付けるような挑発的な視線を向けるようになっていた彼を<躾>と称して殴りつけた。その時の決まり文句が、
「ガキってのはよ、こうやって厳しく躾けなきゃいけねーんだよ。でないと他人に迷惑を掛けるクズになんだよ。俺はお前にそうなって欲しくないからこうやって厳しくしてんだよ。今はそうやって反抗的な態度もするだろうけどよ、大人になったら俺に感謝するようになるんだぜ。『俺は親に厳しく躾けられたから立派な人間になれた』ってな」
だった。
自分より弱い人間しか殴れない人間の、典型的な自己陶酔の戯言である。
そういう男を結人が信頼も尊敬もする筈なく、彼はいつしか、
『オレがもっとつよくなったらオマエをコロしてやる…!』
と、およそ未就学児とは思えない明確な殺意を持って男への憎悪を募らせていたのだった。
しかし、結人が男への報復を実行するより先に、母親の方が耐え切れなくなった。発作的に結人を連れて着の身着のままで男と一緒に住んでいた部屋を飛び出し、男に隠れて貯めていた僅かな金を手に東京から親戚の住む兵庫県へと逃げたのだ。
だがその時、当てにしていた親戚は既に転居した後で、転居先も分からなかった。金も残り少なく行く当てもなくなった彼女はついに何も考えられなくなり、縋るようにして自分が連れてきた息子の顔を見上げた。
「……」
けれど、そこにあったのは、苦しんでいる母親を心配してくれる我が子のいたいけな瞳ではなく、どうしようもない愚かな女の無様な姿を、まさにどぶの中で野垂れ死んだゴミの如き野良犬を見るかのような蔑みの目で見下ろしている、荒み切った獣の視線であった。それを、僅か六歳の子供が見せているのである。こんな恐ろしい光景があるのかという、まごうことなき地獄絵図であっただろう。
「あ……あああ……!」
その目を見た瞬間、彼女は全てに絶望し、全てを呪い、これまで溜め込んできたあらゆる感情を爆発させ、それに突き動かされるようにして両手を彼の首へと掛けた。にも拘らず、彼は、その時、確かに嗤っていた。最後の最後にクズの中のクズらしい選択をした痴れ者を嘲り笑うように口元を歪めていたのである。
そのまま誰も止めなければ、明日のニュースには六歳の子供が何者かに首を絞められて殺されていたのが発見されたという事件が報道されただろう。だが運命の悪戯かそれとも悪魔の導きか、一人の女性がその場を通りかかったのであった。
「何してるんですかっ!!」
その女性は叩き付けるように声を上げながら彼女の腕に掴みかかり、その手を振りほどいた。結人は気を失ってその場に倒れ伏し、彼女はようやく我に返って自分が何をしようとしてたのかに気付き、
「う……あっぁぁああぁぁああぁぁ~っ!」
と慟哭しながら突っ伏した。
それが、
それから五年後、三月の京都駅に、二人の姿があった。
「おい、おデブ、ここが京都かよ」
「あのね、何度も言うけど私はぽっちゃりであってデブじゃないから!」
ショートボブの髪のせいで余計に丸く見える童顔と、組んだ腕にのしかかるようにその存在を主張する大きな胸が印象的な女性、鷲崎織姫と、短髪で痩躯ながらどこか獣を思わせる精悍さと危険な臭いを感じさせる鋭い目をした少年、鯨井結人の新しい生活が、ここで始まろうとしていたのだった。
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