歌姫【西の都編】

ピエレ

 1

 あれはそう、フォーク系ロックンロールが全盛だった昔、切なさや淋しさのせいにして「青空なんて嫌いだ」と叫ぶことができた頃、ぼくがイジメや劣等感に苦悩するばかりの高校を飛び出し、家も出て、西の都で都会生活を始めた時のことさ。


 ミュージシャンを志すぼくは、明日のスターを夢見て、毎晩曲作りに専念していたんだよ。朝昼はレストランのコック見習いで働き、夕方からは【舞踏会】というディスコ系ライブハウスのステージで歌って暮らしていたんだ。正社員じゃないということで、不条理な差別の餌食にされていたけれど、夢があるから負けはしない。

「今のおいらに大切なもの、それはこの遥かな夢だけなんだ」

 それがぼくの口癖だったよ。

 だけど、ぼくの心は決して満たされはしなかった。ぼくの心が本当に求めていたもの・・それは地位でも、金で買えるものでもなかった。それは、胸の空洞を夢や希望の光で満たしてくれる、どこかにいるかもしれない、ぼくの片割れだったんだ。


 そしてある日、ついにその人を見つけたと思った。

 夜風が心地よく感じられるようになったある晩夏の夜、アイドル白井由紀目当ての満員の客に「早く代われ」と罵声を浴びせられながらステージを終えたぼくは、楽屋へ戻って帰り支度をしていた。

「あのう」

 臆病な猫のようなか細い声に振向くと、暗い廊下に小柄で太った娘がいて、細い目でぼくをぎゅうっと見ている。四角い顔にショートの黒髪で、ふくよかな唇と笑くぼが愛らしい。なぜだかずっと昔から知っていたみたいな不思議な感じがして、避けられない運命に吸い寄せられるように近づいたんだ。

 ピンクのワンピースがぴちぴちの体にはちきれそうだったので、ぼくは思わずこう言ったのさ。

「その服、とっても似合っているね」

 娘は妖しい上目使いで、うふふと笑ったよ。

 ああ、その笑顔はぼくの心臓をわしづかみして輝き、ぼくの心はピンクのハート型になってひらひら宙を舞っちゃった。これがほんとのひと目惚れ、『ああ、この娘だ』という恋のホルモンが体じゅうに奔出され、衝撃という文字がいくつもいくつも胸を突き破って弾けたんだ。

「あんた、ここの人?」

 と黒い瞳が問いかけるので、ステージから漏れてくるハードロックのドラムにも負けないくらいドキドキあんあんの心を、慌てて胸にしまい込みながらぼくは言ったね。

「お、おいら、珠吾だよ。一石珠吾。さっきステージで歌ったんだ」

「あたしは、玲。出田玲。あたしも、歌手になりたくてここへ来たの。あたし、ここで、歌えるかな?」

「玲・・すてきな名前だね」

 ってぼくが言うと、娘はまた、うふふと笑ったよ。

 ああ、その天使のような笑顔に惑わされ、1、5リットルのブドウ酒をいっぺんに飲まされたくらい、頭がくらくらしたなあ。

 百メートルの崖から飛び降りる気持ちで、ぼくは思い切って言ったんだ。

「じゃあね、玲がここで歌えるようにマスターに頼んでみるから、おいらと、友だちになってよ。おいら、ひとりぼっちで淋しいんだ」

 玲の目を見つめると、その黒い瞳がやさしく輝いてね、

「いいわよ。でも、一つ、条件があるわ」

「条件?」

「あたしのこと、いろいろ詮索しないこと。そのことを守ってくれたら、あたし、あんたの友だちになるよ」

「うん、約束するする。おいらが玲に何か尋ねたら、玲は嘘でも何でも好きに答えればいいよ」

 ぼくは有頂天になって、玲の前でくるくるくるり、三回転ジャンプをしてみせたよ。玲のピンクのワンピースの裾が、その風圧でひらりと舞い上がり、ばくはさらにくるくるパッピーな気分になっちゃった。玲の小さな手を引いて廊下を抜け、白井由紀が歌って踊るステージの脇からダンスホールへ入って行ったのさ。

 ステージでは、ピエロ顔のミュージシャンロボットのジョニイが、両手と脇の下から伸びた臨時の手を巧みに使ってリードギターとベースギターを同時に掻き鳴らし、超高音ボイスで歌って踊るよ。その後ろではカバのような巨体のレイニーが、ドラムを叩きながら天才的な超低音ボイスで歌うのさ。そして彼らの前では、我らがアイドル白井由紀が可憐に歌って踊っていたんだ。

 由紀の可愛さに夢中になって踊り狂う客の間を、ぼくらは目と目で語り合い、踊りながら移動したんだよ。

 玲はどこから来たの? 

 と、瞳で問いかけるとね、

 サラダの国からよ・・

 と、玲も瞳で語り返したよ。

 目と目で話ができるんだから、ぼくらはきっと相性花マル葉っぱ付きだよね。

 サラダの国?  

 そう、そこは、男の人の知らない国なのよ・・

 玲はいたずらっぽく笑うのさ。

 彼女の瞳が嘘を言っていることくらいぼくにはお見通しだけどさ、それで全然よかったんだ。だって、そう約束したばかりなんだもん。

 玲は、そこでたくさんサラダを食べたから、そんなに可愛くなったんだね・・ 

 と、ぼくも笑いながら瞳でしゃべった。

 からかわないでよ。あたし、いつも、デブだのブスだの言われているんだから・・

 だけど、おいらには、玲こそこの世の何よりも輝いているんだ・・

 うふふ、あなた、なかなかの嘘つきね・・

 斜め下四十五度から、疑いの眼差しがそう語るんだ。

 信じないんだね。それじゃあ、おいらの胸に、直接聞きなよ・・

 そうぼくは瞳でしゃべって、握った玲の手の平を、ぼくの胸に押し当てたのさ。

 ほら、こんなにドクドク、『おいら、玲に夢中』って、熱い血潮で言ってるだろ?

「ねえ、何#*!~?」

 と娘が声に出した。

 だけどロックの響きにかき消されて聞き取れない。

 ようやくぼくらは人込みを抜け、ダンスホールを出て、マスターのいるコントロールルームへ入って行った。その部屋は、防音がなされていて静かだった。マスターは長身の中年の男性で、長めの髪を金に染めている。ヘッドフォンをつけ、ステージのモニターを見ながら音響調整卓を操作していた。

「やあ、珠吾くん、何か用?」

 とマスターはヘッドフォンを外しながら聞く。

 ぼくはさっそく紹介したよ。

「このこ、ここで歌いたいんだって」

 玲は細い目を見開き、丸い胸の前に両拳を握った。

「もしかして、歌手の高橋五郎さんじゃないですか? テレビで見たことあります。うわあ、絶対そうだ」

 マスターの五郎は低い声で言った。

「もう歌手はやめたんです。今は裏方ですよ。で、あなたは?」

 玲はゴムまりのような体をぼよんと折り曲げて挨拶した。

「あたし、出田玲といいます。歌手になりたいんです。ここで歌わせてください」

 五郎はロボットのように無表情のまま、モニターに映る白井由紀を指さした。色白で丸顔で二重の大きな目で栗色の美しい髪で、プロポーションも完全無欠な人気スターが、華やかな舞台で輝いている。

「もしかして、あなたも、この娘のように、うちのアイドルになりたいと?」

「ええ」

 玲は嬉しそうに二度うなずいた。

 やっと五郎の頬と唇に笑みが広がったけど、彼の目は微塵も笑っていなかった。

「では、体重を、三十キロ減らしてから、もう一度来てください。その根性があなたにあったらの話ですが」













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