第14章-⑧ ディーキルヒの衝撃
潮が引くように撤退していくラドワーン軍の動きを望見して、第一軍司令官のメッテルニヒ中将はやや顎を上げ、わずかに目を細めた。
「どうも、勝った感じがせんな」
勝利というのは、もっと胸のすくような、心ゆくばかりの達成感と手ごたえがあるものだ。しかし、今回はそれがない。天然痘を
しかしいずれも彼の出番と言えるものはない。死体の取扱い、その投石ならぬ投人の指揮は、ハーゲン博士が専門家として指導した。あとはただ敵軍の陣営を眺めておればよく、追撃作戦などは誰が指揮しても同じである。古来より、敗走する敵を追うのは戦いにおいて最も簡単な仕事である。戦意を失い逃げる敵の背中を刺すだけでよい。そのような任務で快感を感じるのは、軍人ではなく、単なる殺人嗜好者であろう。
メッテルニヒの鬱屈には、あとから合流した第四軍のリヒテンシュタイン中将、第五軍のツヴァイク中将も半ば同情を寄せているらしかった。いくら命令といえ、このような仕事に従事せねばならぬのは、ただ歴史に汚名を残し、勇名に傷をつけるだけである。
残りの半ばは、軽蔑の眼差しであった。メッテルニヒは第一軍司令官として国防軍の実戦指揮官中の筆頭でありながら、他の司令官たちとは仲が悪い。それは彼が生粋の軍人ではなく、ヘルムスの私設護衛隊の隊長から縁故で国防軍の軍司令官に任じられたという前歴があるからである。メッサーシュミット将軍が育て、鍛え上げた
つまり、メッテルニヒは国防軍の実戦指揮官たちの主流からは疎外されている。汚れ仕事を押し付けられ気の毒だ、と思う一方、
リヒテンシュタイン、ツヴァイク両将のそうした同情と軽蔑が
彼の不快さには別の理由もある。「作戦指導監督官」という、即席でもうけられた抽象的な役職をおびて、意思決定と作戦遂行に重要な役割を果たすハーゲン博士の存在である。
まったく、彼にとってこの男の存在は目障りであり、気味が悪いことはこの上ない。
容貌や態度に、人をことさら不快にさせる要素はない。中肉中背、茶色の髪に茶色の瞳、声は至極穏やかで、やや無愛想だが控えめで謙虚にも見える。だがその行動の
いわば、メッテルニヒは総統の番犬から、ハーゲン博士の犬に成り下がった。
「番犬ブルーノ」と呼ばれ、ヘルムス総統の犬と評されることに、メッテルニヒは耐えられる。現在の地位や名誉があるのは、確かにヘルムス総統との個人的なつながりによる引き上げだからである。しかし一方、「先生」と表面上は敬称を用いて呼んでいるハーゲン博士の言うなりに作戦を進めるだけの犬とみなされることに、メッテルニヒは深刻な不快感があった。
しかも、階級は中将と少佐で、メッテルニヒの方が雲の上と言えるほどに上なのだ。
作戦自体は、なるほどうまくいった。ラドワーン軍では遠目で見ても分かるほど、兵の動きが鈍く、士気が低下している。天然痘が蔓延し、もはや軍としての組織力を失いかけているのであろう。
ラドワーン軍が本格的な撤退を開始するに及んで、メッテルニヒは
すべてはこの、平々凡々たる外見をした、医師でありながら人間の命を石ころのように扱う男の頭蓋骨のなかから生まれた作戦なのである。
ハーゲン博士は、外套のポケットに手を潜り込ませ、じっと前方の戦況を眺めている。
(いったい、どのような気分でいるのか)
ひどく無感動な性格らしく、作戦の成功を目にしても、喜ぶでもなく、淡々と事実を受け入れているだけのように見える。
帝国軍はラドワーン軍のなかで
この作戦の成功により、帝国軍はディーキルヒ一帯の支配権を回復し、ラドワーン軍は再び帝国領を遠く東に走って、その本拠ナジュラーンまで逃げ帰った。途中、兵士どもは次々と天然痘に感染し、ラドワーンの六番目の弟であるアッバースも発症して、陣中で没した。
天然痘は軍の帰国後、ナジュラーン市街全域で猛威をふるい続けることとなる。
帝国軍のディーキルヒ地方での作戦は、「ディーキルヒの衝撃」と呼ばれ、ヘルムス総統の暗殺及びクーデターの未遂事件とあわせ、大陸全土を揺るがす事変として報道された。
帝国軍としては、ディーキルヒ地方を取り戻したことで、ラドワーン軍と教国軍の陸路における連絡を分断することとなり、戦略的な選択肢を大きく広げることとなった。シュトラウス上級大将はヘルムス総統からの命令に基づき、戦力を大きく二つに分け、自らは第一軍、第四軍、第五軍を率いて教国領カスティーリャ要塞の攻略を目指し、一方でゴルトシュミット大将を指揮官として第二軍及び第三軍を付属せしめ、同盟領へ進撃させることとした。
「ディーキルヒの衝撃」と、その後の教国領への転進をいち早く偵知したカスティーリャ要塞防衛司令官のラマルク将軍は、本国のクイーン・エスメラルダに対し、増援軍の派兵とクイーン自身の出馬を願う早馬を出した。
帝国軍は、ディーキルヒでの戦いと同様、天然痘に感染した遺体を兵器として、カスティーリャ要塞の奪取を画策するであろう。これに対抗するにはむしろ防戦一方で守ることを一途に考えるのではなく、この際、積極的に進出して、野戦をもって帝国軍に先制しその機動戦力を撃砕するべきだと思慮したからである。そして野戦を戦うためには、カスティーリャ要塞にある兵力だけでは足りない。本国に温存してある大兵力をこの方面に呼び寄せ、かつクイーン自身の前線指揮によって、必勝を期すべきだと考えた。
教国軍の国都帰還からわずか30日あまりで、クイーンは前線に戻ることを余儀なくされた。
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